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新約聖書

ガラテヤ人への手紙の学び


背景


新約聖書に記述されている手紙は、大別して使徒パウロによって記述されている手紙と他の使徒たちによって記述されている二つのカテゴリーの記述に大別することができます。
使徒パウロの記述した手紙のうちでローマ人への手紙から第二テサロニケ人への手紙までの九つの手紙は、イエス・キリストを信じる教会の人々に宛てて記述され、第一テモテへの手紙からピレモンへの手紙までの四つの手紙は個人に宛てて記述されています。

ガラテヤ人への手紙が、使徒パウロによって記述され、ガラテヤ人に宛てて記述されたことは疑う余地がありません。

しかし、ガラテヤ人といわれる人々がどの地域の人々を指しているのかについては学者のあいだでも大別して北ガラテヤ地域を指しているとする見方と南ガラテヤ地域を指しているとする二つの見方があります。

ガラテヤ人への手紙が記述された時代の一世紀初頭には、ガラテヤという地域は一般に、ガラテヤ地方という地域を指す場合と、当時のローマ帝国が支配した政治的な領域という両方の地域の呼び名として使われました。

ガラテヤ地方という地域を指す場合には、当時の小アジア(現在のトルコ)、北方ゴール地域(北ガラテヤ地域、)を意味し、政治的なローマ帝国の領域を指す場合にはピシデヤ、アンテオケ、イコニオム、リストラ、デルベの地域(南ガラテヤ)を意味しました。

最近までの学説では、ガラテヤ人への手紙は使徒書におけるルカの記述(16章6,7、及び18章23参照)が、ガラテヤ地方というもともとゴール人の地域を指す地域、北ガラテヤを意味している人々に宛てて書かれたと考えられ、使徒パウロの第二次伝道旅行の際にパウロによって福音を伝えられた人々に宛ててパウロの第三次伝道旅行の頃(紀元53年から紀元55年頃)にかけてエペソにパウロが滞在していた頃に執筆された。とされてきました。    

しかし、(1)ガラテヤ人への手紙の主題が人が義とされるのは、神の一方的な恵みを信じることによるのであって、律法を守ることによって義とされるのではない。ということであり、この手紙の主題と直接的に関連して、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張し、この問題に決着をつけるために開かれた使徒書に記されているエルサレムにおける使徒会議についての言及が一切なく、(ガラテヤ書2章1-10、参照)、もしガラテヤ書が使徒書に記されているエルサレムの使徒会議の後のパウロの第二次伝道旅行より後に記されたとすればこの使徒会議についての言及がないのは不自然であること、 (2)ルカが北方ゴール地方の地域をガラテヤの地域として言及しているのに対してパウロは第二テモテ書4章10、第一コリント書16章1などで政治的な地域を指す地域をガラテヤの地域として言及していること、(3)パウロがしばしば言及しているガラテヤの教会は、すべて南ガラテヤ地域の教会であること、
(4)ガラテヤ人への手紙にはバルナバの名前が言及されているが、パウロが伝統旅行を共にしたのは第一次伝道旅行のときだけであり、第二次伝道旅行の後にガラテヤ人への手紙が執筆されたとすればバルナバの名前が言及されているのは不自然であること、

などの理由からガラテヤ人の手紙がピシデヤ、アンテオケ、イコニオム、リストラ、デルベの地域、政治的な領域を指す南ガラテヤ地方の教会に宛ててパウロが第一次伝道旅行からアンテオケに帰還した直後、(紀元48年後半、49年頃)に執筆された手紙だとする見方が有力な見方とされています。

従って、ガラテヤ人への手紙が南ガラテヤの人々に宛てて執筆されたものだとすれば、ガラテヤ人への手紙は、パウロによって執筆された手紙のなかでも最も初期の手紙であるということができます。

そして、この手紙には福音の根幹であるわたしたちの救いについて、すなわち、割礼によってイスラエルの伝統と律法を守らなければキリストの救いにあずかることは出来ないと主張する伝統的なユダヤ人にたいしてガラテヤの人々に福音は神のキリストによる一方的な恵みであり、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によるものであり、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがない。」ということを示すために記述されています。

  

概要

I. 恵みの福音 (1:1-2;21)

A. 福音の真理 (1:1-2:21)
1. 挨拶と紹介 (1:1 – 10)
2. パウロ自身が直接受けた召命 (1:11 – 17) 
3. エルサレムの使徒との接触 (1:18 - 21)
B.恵みの福音、信仰による義 (2:1-21)
1. 異邦人への福音 (2:1 – 10)
2. イエス・キリストを信じる信仰による義 (2:11 – 21)

II.Ⅱ信仰によって義とされる正当性の立証(3:1 – 4:31)  

A. 十字架の贖いと律法の呪いからの解放 (3:1 – 14)
1.律法を行うことではなく福音を聞いて信じる。(報酬ではなく恵みによって。)(3: 1 – 9)
2.律法による罪の呪い。アブラハムの受けた祝福の契約 (3:10 -14)
B 神の変わらない約束 (3:15 – 4:7)
1.神の約束による相続 (3:15 – 18)   
2.何故律法が与えられたのか。律法の役割 (3: 19 – 25)
3 神による相続人 Sons and Heirs   (3: 26 – 4:7)
C. イエス・キリストによる父なる神との愛の信頼関係 (4:8 – 11) 
1.神を知らなかったとき神々の奴隷、異邦の宗教的儀式、 (4: 8 – 11)
2.使徒パウロの熱望 (4:12 – 20)
3.律法と女奴隷ハガルの比喩 (4:21 – 31)
 

III.キリストにある自由 (5: 1 -26)

A. 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった (5:1 – 15) 
1.自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった (5:1 – 6)   
2.愛をもって互いに仕え合う自由、律法の全体「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(5:7 – 15)   
B. 御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。(5:15 – 26) Saw to the Spirit  
1. 御霊によって歩む   (5:16 – 21)
2. 御霊の実、愛 (5:22 – 26)

IV. 主イエス・キリストの十字架の恵み (6:1 – 18) 

A. 主イエス・キリストの十字架の恵み (6:1 – 18) 
1.互いに重荷を負い合う (6:1 -5)
2.霊にまく者、時が来れば刈り取るようになる。  (6:6 -10) 
3.主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。 (6:11 -18)  


鍵となる聖句

Gal 2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によ
ることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのでは
なく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれ
ひとり義とされることがないからである。

Gal 2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
Gal 2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

Gal 3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
Gal 3:14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。

Gal 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
Gal 3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

Gal 4:8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
Gal 4:9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

Gal 5:1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立っ
て、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

Gal 5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
Gal 5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
Gal 5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

Gal 6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
Gal 6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
Gal 6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。

新約聖書


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