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聖霊のはたらき


エルサレムの空-オリブ山から、五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。(使徒書2章1-2)


大勢の人々が聖書を読んだことがことがあると言います。しかし、大多数の人々が最初に聖書を読むとき一体何を言っているのかよく解らない、あるいは、さっぱり解らないということがあります。彼らにとっては、聖書の言葉は、意味をなさないのです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(第一コリント2章14)

わたしたちは、普通の小説を読むように聖書を読んでも、そこから何も得ることのない場合があります。しかし、一度 聖霊があなたの心を照らすと、真暗闇の宝物庫のなかで目隠しをして手探りをし、何があるのかさっぱり解らない状態から、目隠しをはずし、照明に照らされると、今まで見えなかった宝の山を目のあたりにして、その素晴らしさにエキサイトするように、聖書の御言葉の素晴らしさと栄光を見ることができるのです。

聖霊があなたの心を照らし出してくれなければ、聖書の御言葉の素晴らしさを見ることも、味わうこともできません。

聖霊はどのようにあなたの心を照らし出し、あなたが御言葉の素晴らしさを体験できるようになるのでしょうか。

このことを、知るために、聖霊がどのようなお方なのか。聖霊が何をわたしたちに証しされているのか。聖霊は今、何をしておられるのか。聖霊はどのようにキリストのからだとしての教会にはたらいておられるのか。聖霊の様々な恵みはどのようなものなのか。
と、いうことについて、見てゆきたいと思います。

聖霊はどのようなお方か。

  • 共におられ、助けてくださる。
    イエスがこの地上に来られたとき、イエスに従った人々にとってイエスは共におられる素晴らしい方でした。

弟子たちは、イエスのなされた数々の素晴らしい奇跡、らい病人を癒し、目しいの目を開き、歩けない者を立たせ、悪霊にとり憑かれる者を解放し、何千もの人々をごく僅かな、パンと魚でその餓えを満たし、嵐の湖を鎮め、死人をよみがえらせたばかりでなく、パリサイ人や律法学者たちの悪意に満ちた質問にも見事な答えを示され、それらを目のあたりにし、イエスと共に歩んだ三年余のあいだにイエスが共に居てくだされば、どんな不安も、どんな困難な問題も、すべての状況を解決してくださることを学びました。

イエスは、ご自分が十字架に架かられるためにこの世にこられ、この世を去って、父なる神のもとに行かれ、神は人の子によって栄光を受けられ、この世を去られてもイエスに従う者たちに場所を用意されることを告げられました。

しかし、この時、弟子たちは、イエスの言われた言葉の意味がはっきりわからず、心を騒がせ、「イエスの行かれる道、イエスが言われる父なる神を見せて欲しい」と、質問をしました。

イエスは、この質問に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」(ヨハネ福音書14:6、9-10)と答えられ、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」もうひとりの助け主、その方が、真理の御霊です。「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ福音書14:16-18)と言われました。

この箇所でもうひとりの助けぬしという言葉が使われていますが、ギリシャ語の原語では、文字どおり、パラクレトス、( παρακλητον)そばにいて助ける者という言葉がつかわれています。ここで、もうひとりのという単語には、全くおなじもうひとりという意味のアロス( αλλον)という言葉が使われており、通常使われるもうひとり別のという単語ヘテロス( ετερον)が使われていません。

  • 三位一体の神
    イエスは弟子たちに、イエスと父なる神が一つであり、イエスと全く同一の助ける方が
    そばに居てくださるようにする、と宣言されたのです。    
    父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊は本質的に同じ性質を持たれ、同じ人格を持たれた方です。
    わたしたちが知らねばならないのは、聖霊が人格を持たれ、父なる生ける神、人となってこの世に来られた子なるイエス・キリストと本質的に全く同じ人格を持たれた永遠にして、神聖、全知、全能の偏在されるお方だということです。(第一コリント2:10、11、ルカ福音書1:35、詩篇139:7-10参照) 

  • 聖霊は人格を持っておられる。

もしわたしたちが、聖霊が人格を持たれた方だということを忘れ、抽象的な本質とか、力であるという誤った理解をするなら、わたしたちは、聖霊と意味のある交わりを持つことはできません。
聖霊は、父なる神と子なるキリストと同じように、人格を持たれ、この世に来られたキリストのかわりに神から来られ、わたしたちと共におられる方です。

多くの異端は、聖霊の人格を否定します。教会の歴史をとおして、すでに何度も同じような論争が行われました。3世紀の前半にアレクサンドリアのアリウスによって唱えられた父なる神のみが神であり、子なるイエス・キリスト、聖霊が同じ人格ではないとするアーリアン異端論争は、教会史の上で知られていますが、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊が一つの共に人格を持たれた方であることを否定する過ちは、現代に至るまでエホバの塔、モルモン教の教えの中にも同様にみることができます。

人格ということの定義をするとき、知性、意志、感情のすべての要素を認めることができなければなりません。
聖霊の持っておられる知性、意志、感情がどのようなものなのかを見てみたいと思います。

• 知性 聖霊は神の深みを「知って」おられ、わたしたちに「教えて」下さいます。
「 目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2章9-11)
• 意志 聖霊は「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。 」(第一コリント12:11)
さらに、聖霊は重要な事柄を決めてくださいます。(使徒15:28参照)そして、方向を決められたり、禁じたりされます。(使徒16:6,7)
• 感情 聖霊は人々が誤った選びをするとき、悲しまれます。(エペソ4:30)そして、聖霊の愛で人々を満たされます。(ロマ15:30)

聖霊の証し

イエスは弟子たちに、ご自分が十字架に架かり、この世を去って父なる神のもとに行かれ、イエスに従う者たちが孤児にならないように助け主を遣わされることを告げられました。
聖霊が来られると、罪について、義について、世にその誤りを認めさせると言われました。

「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、罪について義についてさばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」
(ヨハネ福音書16:7-11)


• 聖霊は、イエスを信じないことがであることを証しされます。
聖霊は、この世に来られたイエスのみが人にとっての唯一の救いであり、神の前に立つとき、神が決められている唯一の裁きの基準が、神の用意された救いの道であるイエスを信じ、この地上でどれだけキリストに信頼し、従ったかが問われることを証ししてくださいます。

もし、あなたがイエスが、神から来られ、神の用意された罪にたいする贖いの代価を支払ってくださったことを拒否し続けるなら、あなたは神を偽りとしています。
 
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(第一ヨハネ5:10-12)

これは、わたしたちが最も真剣に取り組むべき人生の課題です。
ヘブル書の次の警告は紛れもない神からのわたしたちに対する警告です。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:28-31)


• 聖霊は神がよしとされるの基準について証しされます。
神は神の国に不義をけっして招くことはありません。神は完全に義なる方だからです。

聖霊は、人としてこの世に来られ 十字架に架かられ、復活され天に昇られたイエスのみが神の義の基準に達する者なのだということを証しされています。

パリサイ派の人たちや、ユダヤ人がイエスは自分で自分のことを証ししているから、その証しは真実ではない。といって非難したとき、イエスは、

「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」 (ヨハネ福音書8:28,29)と、言われイエスが父なる神の御心のみを行っていると宣言されています。

イエスの基準に達っしなければ、人は神から義と認められることはありません。
神の御心のみを行う生涯を送られ、神が良しとされて天に昇られた方はイエス以外には存在しません。

神は、わたしたちが自分の義によって神の前に立つとき、わたしたちの義は血で汚れたボロ布のようなものだといわれています。(イザヤ書64:6)

神は罪のない方をわたしたちのために罪とされたのです。(第一コリント5:21)

聖霊は、十字架の贖いを完成され、復活をされ、昇天をされたイエス・キリストの義のみが 神の是認することのできる義の基準だということを、わたしたちに証しされます。


• 聖霊は、この世の君がかれたことをわたしたちに証しされます。

聖霊は、この世を買い戻し、人の罪の贖いの代価を支払われるためにイエスが十字架に架かられたのだということを証しされます。

人は、この世を委ねられたにも拘わらず、それをサタンの手に渡してしまい、背きと罪によって贖いきれない債務を負いました。

キリストは、十字架の上で、わたしたちに不利となっている債務の支払いを完全に支払われ、債務証書を取りのけ、これを十字架の上で釘付けにされました。

  キリストは、十字架の上でわたしたちの罪を帳消しにし、わたしたちを束縛する罪の力から解放し、勝利の列に加えてくださいました。
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ書2:13-15)

わたしたちが、このことを知ることができるのは聖霊の証しによるのです。     


聖霊がされること

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
「 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ福音書3章3,6-8)

イエスが十字架の上で完成された贖いを信じ、聖霊の導きに人生を委ねて歩む人々をクリスチヤン、キリストのからだ、教会とよびます。

わたしたちは、イエスの十字架と復活によってわたしたちの罪の贖いが完成されていることを信じることができます。しかしサタンは、キリストがこの世の所有権を宣言され、サタンの滅びが実現し、すべての被造物、この世のすべての贖いが完成する時が来るまで、すでに打ち破られているこの世の支配権にしがみつき、滅びの束縛に人々を引き込もうと欺きと誘惑を、し続けています。

聖霊は、教会がこの世から取り上げられ、神の栄光の御座に引き上げられるまで(キリストの花嫁、教会の携挙されるまで)、 聖霊の証しを受け入れる人々に働いて、わたしたちをこれらのサタンの力から守られ、この世に滅びの者が出現し、一時的な完全な支配と滅びへと世界を引き込む悪の力を引き止めておられます。

そして、教会が取り上げられた後は、神の選びの民イスラエルのあいだに働かれ、滅びの者の迫害と患難の時代にキリストを信じた者たちを慰め、励まされます。

  •  聖霊が教会に働かれること

ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝え、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになり、イエスキリストを信じる群れがイエスの名によって集まっていた時、人々の祈りに応えて聖霊が下り、信じた者の群れが心を一つにし、聖霊に満たされました。これが、最初のキリストのからだ、教会のはじまりでした。(使徒書4:3、31-33参照)
聖霊のダイナミックな働きによって、使徒たちが、当時の世界の果てにまで命を賭けて福音を伝えるために出ていったことが詳しく使徒書に記録されています。
このなかで、聖霊がどのように人々に働かれたかをみることができます。
聖霊は、より多くの人々に聖霊ご自身の証し、福音を伝えられるよう導かれ、人々に語られ、方向を与えられ、人々の偽善や腐敗からイエスキリストの十字架の贖いと復活を信じ、聖霊の導きに人生を委ねる人々を守られました。
この聖霊のはたらきは、現代にいたるまで、イエスキリストの十字架の贖いと復活を信じ、聖霊の導きに人生を委ねる人々に続いています。


  •  聖霊の様々な恵み

聖霊は、今も様々に働かれ、福音を信じる人々に様々な恵みを与えておられます。

聖霊がクリスチヤンに与えておられる最も素晴らしい恵みの一つは、イエス・キリストの十字架の贖いと復活、再臨と完全なこの世の贖いを信じる人々に、彼らが御子とともに、栄光の神の子とされ、御国を受け継ぐ者となる希望の約束が確かである確信を与えてくださいます。

使徒パウロは、このことについてエペソ書で、「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。 」(エペソ書1:13)と、述べています。

「約束の聖霊をもって証印を押される」というのは、支払いをし、決済された商品が、支払い主、あたらしい所有者のもとに届くまでに、その所有者の所有であることを証しする証印が押されているように、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖霊がわたしたちの心に住まわれる時、わたしたちが神のもの、神の子とされ、御國を受け継ぐ者となるという確証を与えてくださるのです。

聖霊は、わたしたちと共に居られ、助け手となってくださり、わたしたちが、福音を信じ、生きた神の言葉を読むとき、そこに何が書かれているのかを知ることが出来るように助けてくださいます。
聖霊がわたしたちに働かれるとき、わたしたちは、御言葉を心に刻み、すべてのことを探り、神から私たちに賜わったものを、私たちが知ることができます。

聖霊は、わたしたちが神にどのように祈ったらよいのかわからない時でも、わたしたちの心の最も深いところで、わたしたちの祈りをとりなしてくださいます。

神は変わることのない方であり、わたしたちの祈りによってご自身の永遠のご計画を変えられる方ではありません。しかし、祈りによって、わたしたちが神の永遠に持っておられるご計画に触れることができます。わたしたちは、聖霊のとりなしてくださる 祈りによって、より深く神がわたしたち一人一人の人生に持っていてくださる、神の永遠のご計画の祝福を受けることができるのです。

さらに、聖霊は不可能に思える状況のなかでも、大胆に福音を証しする力を与え、助けの手を差し伸べられます。

そして、聖霊の導きに人生を委ねるとき、わたしたちの思いを超えてわたしたち自身が御子に似た者、聖霊の実を結ぶものへと変えられるのです。


聖霊の賜物

今日、多くの教会が聖霊の賜物について、無知による誤解をしています。それは、一方で無知に基づいた聖霊の賜物の働きを強調し、他方では聖霊の賜物は、使徒の時代のように働かれないという御言葉によらない聖霊の働きと賜物についての極端な思い込みによって起こるのです。

福音が最初に伝えられた時にも人々は聖霊の働きによる夫々の賜物を用いましたが、人々は聖霊の賜物が与えられる本来の目的とは異なる用い方をし、乱用しました。使途パウロは、このことの故にコリントの教会の人々に宛てて、賜物を乱用することなく本来の目的のためにどのように聖霊の賜物を用いたらよいのかを正すために、手紙を書きました。これが、第一コリント書ですが、特に12章を見ると9つの聖霊の賜物について、それらを力と信仰と言葉の3つのカテゴリーに分けて説明しています。そして、その働きと聖霊の賜物が与えられる理由について、ロマ書12章(ロマ書12:4-9参照)とエペソ書4章(エペソ4:7-13参照)にさらに詳しく説明を加えています。

これらの賜物、働きは、すべてひとつの同じ聖霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを信仰の量りに応じて各自に分け与えられるのだと、言っています。(第一コリント12章6節参照)聖霊の働きによって、人々に様々な異なった賜物が与えられ、それらは異なっていても御霊にあってひとつであり、一致があるのです。

使徒パウロは、コリント書12章の最初の箇所で、聖霊の賜物は、人々の心をイエス・キリストの栄光に向けるものだということに無知であってはならないことを宣言しています。

御霊はご自身ではなく御子イエス・キリストを証しされ、聖霊の賜物を夫々が用いるのは、それによってイエス・キリストがわたしたちのために成し遂げられた御業と約束の素晴らしさに胸のはちきれそうな新鮮で、さらに栄光に満ちた確かな希望を夫々が体験し、感謝と愛に満ち溢れることができるためなのです。

もし、聖霊の賜物を用いている と言いながら、結局は、賜物そのものや、賜物を用いる人に注目が集まったり、イエス・キリスト以外のものに目を向けさせるのであれば聖霊の賜物を本来の目的とは異なる目的で用い、賜物を用いる人自身と他を欺いているということになります。

聖霊の賜物は、イエス・キリストの御業と栄光の希望に焦点を当てさせること以外の目的で用いられるものではないからです。
聖霊の賜物は様々であり、夫々異なっています。さらに、聖霊の賜物の働きも異なっています。

父と子と聖霊はひとつの方であり、聖霊の賜物とその働き方は様々であっても、すべてひとつの同じ聖霊の働きによって、それらを各自に分け与えられるのです。

あなたに与えられる賜物、あなたが賜物を用いる用い方は、他の人が与えられる賜物、賜物の用い方とは別のものであり、異なっています。
10人の顔やかたち、性格が、それぞれ皆 異なっているように、人によって与えられる賜物も、その用い方も異なっています。

聖霊の働きによって、新しい御霊のいのちを体験することは素晴らしいことです。しかし、ある人が聖霊による体験を証しするとき、それと全く同じ体験を別の人がするとは限りません。他の人の聖霊の賜物を与えられる体験や証しを聞いて、あなたがそれと同じような体験をするとは限りません。同じ、霊の賜物を与えられる場合でも、ある人が身体中が熱い思いに満たされ、震えるような体験をしたとしても、他の人はごく自然に同じ賜物を与えられることもあるのです。

聖霊はお一人であり、その聖霊の働きによって、様々の賜物、様々の用いられかたがあります。
主は夫々の個人に、その個人の性格や性質に合った様々な働きかけをされ、異なった賜物を与えられます、だから、わたしたちは他の人に与えられている賜物や、他の人が体験するのと同じ体験を期待したり、比較をしなくともよいのです。

聖霊は思いのままに、わたしたち一人一人の人生の上に働かれていますが、それはキリストのからだのみんなの益となるために、御霊の現れが与えられているのです。(第一コリント12:7参照)御霊の賜物が与えられるのは、キリストのからだである教会の益のためであって、わたしたちが賜物を自分自身のために用いるために与えられているのではありません。

御霊の賜物の様々な現れは、時に重複することがありますが、それは、それぞれの御霊の賜物が全く独立したものではなく、共にキリストのからだ全体の教会(エクレシアἐκκλησία)を建て上げるためのものだからです。たとえば、見極めの霊の賜物は、しばしば知恵の言葉の賜物と互いに重複しあっています。

使徒パウロは、第一コリンント書の12章で、聖霊の賜物として、知恵のことば、知識のことば、奇蹟をおこなう力、信仰、癒しの賜物、預言、霊を見極める力、異言、異言の解き明かしをあげています。

そして、それらの賜物を挙げたあとで、もっともすぐれた聖霊の賜物、愛を求めなさい---。愛がいつまでも残る最もすぐれた聖霊の賜物であることについて13章で説明をしています。

わたしたちが賜物を選ぶのではなく、同じひとつである主の霊がわたしたち一人一人に思いのままに賜物を与えられ、わたしたちは共にキリストのからだである教会の部分として一人一人が聖霊の実を結び、愛の人に変えられることを目的としています。

キリストを主と仰ぐ群れのなかで、夫々が賜物について比べあったり、どちらの賜物が優れているのかについて比較をすることほどバカげていることはありません。
歴史的に現実の教会や宗派は互いに相違点について論じ合い、分かれるということがありましたが、これらはみな、わたしたちのうちにある肉の思い、罪によるものであり、本来のキリストのからだである教会はひとつしかありません。

わたしたちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長し、キリストのからだの一部として与えられた賜物を生かし、聖霊の実である愛の人に変えられてゆくことが大切なのです。


聖霊のバプテスマとは

復活をされたイエス・キリストは、ガリラヤの山で11人の弟子に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ福音書28章16参照)
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ福音書28章18-20)という福音の宣教命令をされました。

イエスはこのとき、福音の宣教命令をされただけでなく、出て行く前に、地の果てまでイエスの証人となるための力を受けるためにエルサレムでイエスから聞いた父なる神の約束を待つように言われました。

使徒書には、イエスがこのとき弟子たちにどのようにこのことを、命じられたのかが述べられています。

使徒1:4にはイエスが弟子達と共にいる時、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」と言われ、さらに、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と、最後に言われて、彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられたのです。

この箇所をみるとき、聖霊のバプテスマを受けることと、罪を悔い改めイエスの贖いを自分のものとして新しく生れることとは別のものであることがわかります。
イエスが十字架に架かられたとき、イエスと共にいた弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて家の戸を閉め隠れていましたが、復活のイエスは彼らにあらわれて「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われました。(ヨハネ福音書20章21,22)
弟子たちはその時点で聖霊を受け、聖霊は彼らのうちに宿り始めました。しかし、この時点では弟子たちは未だ聖霊のバプテスマを受けていませんでした。

弟子たちが聖霊のバプテスマをうけたのは、聖霊が宿った後に、イエスが、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」(使徒1:4)と言われたことが実現したときでした。

聖霊があなたのうちに宿るという体験と、聖霊のバプテスマを受ける体験は、同時に起こる場合もありますが、通常、別の体験であり、聖霊が宿った後に、聖霊のバプテスマを受けるという体験をするのです。

マタイ3:11の箇所で、洗礼者のヨハネは、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ来たとき、人々に告げました。
ヨハネは、人々の罪の悔い改めのために、水によってバプテスマを授け、イエスが来られると、人々が福音を証しする力を与えられるために、聖霊によってバプテスマを授けられると、告げたのです。

  • 鍵となる3つの前置詞
    イエスがこの世を去って、父なる神のもとに行かれ、神は人の子によって栄光を受けられることを告げられたとき、弟子たちは心を騒がせました。この弟子たちにイエスは、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
    その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ福音書14:16-18)と言われました。

ここで、助けぬしという言葉が、ギリシャ語の原語では、文字どおり、パラクレトス、そばにいて助ける者という言葉がつかわれていることを説明しましたが、その場合、ギリシヤ語の前置詞には、側に、共にという意味のパラ(παρά para (par-ah') prep)という前置詞がつかわれています。

ヨハネの福音書20章で復活されたイエスが、弟子たちに息を吹きかけ『聖霊を受けなさい、』とおっしゃった時、弟子達は聖霊を受けましたが、このときギリシヤ語に使われている前置詞には、内に、その中に、という意味のエンという前置詞(ἐμφυσάω emphusao (em-foo-sah'-o v.) (ἔν en (en) n. prep.)がつかわれています。 

使徒1:8でイエスが弟子達に、『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』と言われたとき、聖霊が、あなたがたの上に臨まれるとき、ギリシヤ語の前置詞では、上に、あるいは、あふれ出るというような意味の、エピという前置詞(ἐπί epi (ep-ee') prep.)
がつかわれています。

聖霊があなたと“ともに”いること(para)と聖霊があなたの“うちに”おられること(en)そして、聖霊があなたの“上に”臨まれる(epi)ことは、聖霊との異なる体験です。

聖霊はあなたに罪を悟らせ、イエスキリストが罪の贖いをされ、義と裁きを完成されたことを示すために、わたしたちと“ともに”おられ、わたしたちが罪人であることを告白し、イエスをわたしたちの救い、贖いを完成してくださった主であることを受け入れるとき、わたしたちの“うちに”住んでくださいます。そして、イエスに信頼し、自分の肉の思いをイエスに明け渡し、イエスを証しする力を受けることを願うなら、主がその御霊をわたしたちの“上に”注ぎ、わたしたちから御霊が満ち溢れ出すようにしてくださいます。
 
御霊があなたの“上に(upon)”臨むとき、あるいは、御霊があなたから溢れ出る(overflow)ようになるとき、神の御霊の爆発的な力に満たされ、わたしたちの人生を通して働き、わたしたちから満ち溢れ、周りの人々にまで伝わる流れとなります。

イエスは、イスラエルの民が仮庵の祭りで、エルサレムの神殿にあつまっているとき、その祭りの終わりの日にあらわれ、群衆に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7章38)と、言われました。
このときには、弟子たちもイエスがなされたこと、言われたことが理解できませんでしたが、イエスが十字架に架かり、復活をされ、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたことを体験し、弟子のヨハネは、後に福音書を記したときに、このときのことについて、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ福音書7章39)と注釈を書き加えています。

聖霊が注がれ、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるとき、わたしたちの歩みはイエスを証しする力強いものへと変えられ、あなたの肉に内在する罪に打ち勝ち、あなた自身がキリストに似た者へと変えられます。

このように、素晴らしい聖霊の賜物をわたしたちが受け取るためには、わたしたちが、聖霊を受け、わたしたちの上に聖霊が臨まれることを願い求めなければなりません。聖霊が臨まれるとき、先に述べたように、その賜物のあらわれはさまざまであり、その体験も異なります。しかし、わたしたちが願わなければ聖霊はわたしたちに臨まれません。聖霊はわたしたちにけっして無理強いをされて臨まれないからです。「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ福音書11章13)

聖霊がともにおられ、わたしたちのうちに住んで下さり、そればかりか、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るように聖霊に満たされて生きる人生こそ、究極の歩みです。
宇宙とその中にあるすべてを共に共同相続し、王の王、主の主に心から愛されて生きることほど究極の素晴らしい人生はありません。しかし、それは自分の肉の思いを完全に神に明け渡し、神がわたしの人生になさりたいとご計画される人生にすべてを委ね、信頼することによってもたらされます。
イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われました。
わたしたちが御霊のいのちであるイエスに留まり続け、聖霊が注がれることを求めるかぎり、枝がぶどうの木から栄養とエネルギーを得るようにわたしたちは、御霊の実を結ぶものとなります。 
わたしたちが御霊に満たされ溢れる人生を送ることが、神がわたしたちの人生に願われていることであり、御心です。


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