Welcome to Calvary Chapel-Japanese Fellowship

calvary chapel-japanese fellowship預言-携挙、患難、再臨

聖書の預言


教会の携挙とキリストの再臨

終わりの時のキリストの預言

イエスはエルサレムの神殿が一つの石も残されずに崩れることを預言されました。
このことを聞いた弟子たちは、エルサレムの神殿を眺めるオリブ山の上で「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」という質問をしました。

イエスは弟子たちに、イスラエルの民と神殿に関連して起こる人類すべてにとって重要な終わりのときに起こること、について答えられました。(マタイ福音書24章1-51)

世の終わりのときに起こる様々な兆候を話され、御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ること、この終わりの日がいまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難の時であることを話され、その後にいなずまが東から出て、西にひらめくように、キリストが再臨されることを予告されました。

そして、いまだかつてなかったような、またこれからもないひどい苦難の日が人類を襲う前に、キリストの花嫁である教会を花婿であるキリストが迎えに来られることについての譬えを話され、その日その時が何時やって来るのかは誰も知らないことを話されました。

携挙

使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、困難な時代にあってイエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに、(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に朽ちない栄光の姿に変貌するということを明言しています。(第一テサロニケ人への手紙4章13-17)

この一挙に引き上げられるという単語の原語、ギリシャ語(ハーパーゾ、ἁρπάζω の三人称未来形 αρπαγησομεθα )は、ラテン語でラプチュス、英語でrapture、日本語で携挙と訳されています。
携挙というできごとは、イエス・キリストを信じる人々が一瞬のうちにキリストに空中で出会い、その事が予告なしに突然一瞬にして起こるという歴史的な出来事です。

この携挙という歴史的出来事が起こるその日、その時については、イエスが弟子たちに言われたように、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられる」出来事です。

使徒パウロは、福音と復活についてコリントの人々に、神の国を継ぐ者が復活をすることについて『 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。』と携挙についての説明をしています。(第一コリント人への手紙15章50-53)

福音を信じる人々には、ラッパが鳴ると、一瞬のうちに死者は朽ちないものによみがえるという約束が与えられています。そのゆえに、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる人々には、どのように困難に思える状況にあっても確実な希望があるのです。

キリストが、その花嫁を迎えられる携挙と、キリストが再びこの世に来られる再臨という出来事は、終わりの日に別の時点で起こる出来事です。
しかし、多くの人々が再臨と携挙について正確な理解をしていません。

携挙は、イスラエルの民ばかりでなく福音を信じる信仰によって、異邦人も共に救われる時代に信仰によってキリストの肢体、花嫁として集められる人々が花婿であるキリストに迎えられるという出来事です。
これにたいして、再臨は、アブラハム、イサク、ヤコブ、をとおして約束され、イスラエルの民族、国家に結ばれた契約を成就し、この世を治め、神の国を建てられるために王としてキリストが再び来られるという出来事です。

福音を信じ、集められた教会をイエスキリストの花嫁にたとえ、花婿であるキリストが迎えに来られるという携挙という出来事と、イスラエルの民に約束された栄光に満ちた王としてこの世に来られ、神の国を建てられるキリストの再臨という出来事はしばしば混同されてきました。
このために終わりの日に起こる携挙と再臨、それがいつ、どのようにして起こるのかということについての御ことばの理解にも混同が起こりました。

携挙と患難

使徒パウロは、「携挙」と、いまだかつてなかったような、またこれからもないひどい苦難の日、「主の日」が来ることについて、次のように述べています。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」 (第一テサロニケ人への手紙5章1-11)

使徒パウロは、「携挙」と「主の日」、「キリストの再臨」について、「主の日」は人々が福音を拒否し離れ去る、背教のことが起こり、不法の者、滅びの子が現れるまでは起こらない、彼が現れることを阻止しているものが取り去られる時になってからでないと来ないことを述べています。

「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。
しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」(第二テサロニケ人への手紙2章1-13)

不法の者のあらわれる時

ここで、パウロが述べている不法の者が現れることを引き止める者とは誰のことを指しているのでしょうか。
それは、キリストの肢体として集められた教会と共におられ、歩まれる聖霊のことを指しています。
キリストの花嫁、聖霊に満ちた教会が携挙され、取り除かれるまでは、不法の者、滅びの子が現れ、「主の日」、神の怒りの日は訪れません。
教会が携挙されても、同時にすべての場所に偏在される方、聖霊はこの世から取り去られませんが、教会がこの世から取り去られ(携挙され)た後は、聖霊はイスラエルの民に注がれます。

多くのクリスチャンのあいだでも、「携挙」、「主の日」、「再臨」といことについて、イエスや使徒パウロが述べている御ことばを文字どおり受け取らないとき、その時期についての理解にも混同が見られます。

神の怒りの日、主の日、患難の時代の始まる前に神のラッパが吹き鳴らされると同時にキリストの花嫁である教会が携挙されると考えられる根拠は幾つか挙げられます。

教会の携挙という出来事は、福音を信じ、栄光のキリストにお会いすることを待ち望む人々にとって、慰めと希望を与える出来事です。なぜなら、神は、イエス・キリストの十字架によって、神にたいするそしり、背き、罪にたいする神ご自身の憤りを、キリストの上に注がれました。
イエス・キリストの十字架を自分個人の神に対する背き、罪の許しとして受け入れる人々には、神の背きに対する怒りが注がれることがないからです。

しかし、主の日は、神の差し伸べられた救い、御子イエスの十字架を拒否するこの世に対する神の怒りの日であり、慰めのない裁きの日です。
慰めと希望を約束されている神が、人々に慰めのない裁きのときを与えることは矛盾しています。

携挙と再臨

イエスがエルサレムの神殿を眺めるオリブ山の上で弟子たちの質問に答えて「 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」(マタイ福音書24章21、22)という箇所にある、「選ばれた者が患難のときを過ごす」箇所を引用して福音の選びに集められた人々、教会が患難の時代を過ごすとことをある人々は主張します。
しかし、この箇所でイエスが言及されている「選ばれた者」は、契約によって選びの民とされたイスラエルの民、患難の時代に救われる選びの民について言及されており、福音の選びによって集められた人々、教会のことではありません。
 
神は人々を神の招きに選ばれようとされています。聖書全体をとおして、神の契約の選びの民イスラエル、福音の選びに集められた人々、患難の時代に選ばれる人々は、歴史をとおしてすべて神の選びの民と呼ばれていますが、神が選ばれる状況も時代も異なっています。

このように、神の選びの民についての理解を混同するとき、教会の携挙と患難のときについての理解に混同が起こります。

聖書の御ことばを文字通り忠実に読むと、患難の時代の前に携挙が起こると考えることは、黙示録の流れを理解する上でも最も自然で理屈に合っています。

そして、患難の時代の前に携挙が起こると考えることは、イエスキリストの再臨の時が誰にもわからないことを意味しています。

患難の時代については、旧約聖書の預言にも様々な箇所に預言されていますが、これらの預言は直接的には、すべて神の契約の民イスラエルに向けられており、キリストの肢体、福音によって選ばれ、集められたた人々教会に対して向けられた預言ではありません。

しかし、患難の時代の前に携挙が起こると考える最も大切なことは、わたしたちの日々の生き方に影響を与え、日々神の国とその義を求め、イエスを主として歩み、主なるイエスにお会いする希望と期待に日々生かされ、わたしたち一人一人がキリストに似たものとされ清められことにあります。
もし、わたしたちが神の怒りの時、患難の時代を過ごすのであれば、わたしたちの関心は、わたしたちへのキリストの十字架をとおして示されている神の愛や恵みより、反キリストの出現や、荒らす憎むべき者が何時エルサレムの神殿の至聖所に立つか、ということに関心が移ってしまいます。

使徒ヨハネは、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(第一ヨハネの手紙3章2、3)と述べて、わたしたちが日々栄光の主イエスキリストにお会いする期待と希望をもって生きることを勧めています。

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