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わたしたちの目標


イズレル付近の道で、羊の群れ-「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ福音書10章10-11

  • 人生の試練と苦難
  • クリスチヤン
  • クリスチヤンの希望
  • 栄光を共に受け継ぐ
  • 変ることのない永遠の栄光
  • キリストを知る
  • すべての被造物の贖い
  • わたしたちの目標



神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る

人生の試練と苦難


わたしたちは、だれでも生きてゆく上で、さまざまな試練や苦難に出会います。時には耐えられないような孤独や病気に悩まされることがあるでしょう。一時的には、物質的な富や、名誉、名声を得たり、知識を増すことによって試練や苦難が報われ、成功を得たかのように思うことがあるでしょう。しかし、人は死によってそれら一時的に得たと思われるすべてを失います。わたしたちにとって、いつまでも変らない永遠に残る希望、目標というものがあるのでしょうか。 


クリスチヤン


わたしたちクリスチャンは、イエス・キリストがわたしたちの贖いの代価として、御自分のいのちを与えるために、十字架の上で罪の責めを負われ、死んで後三日目に復活され、多くの人々に現れ、天に昇られ栄光の御座におられ、やがて再びこの世に来られることを信じています。


クリスチヤンの希望


このような信仰によって与えられる希望は、決して失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。


栄光を共に受け継ぐ


聖書は、「この信仰によって与えられている神の霊によって、わたしたちは、神の子とされている。もし子どもであるなら、相続人でもある。わたしたちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人である。」(ロマ書8:17)と、宣言しています。


変ることのない永遠の栄光


さらに聖書は、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものなのだ」(ロマ書8:18、第二コリント4:17)と述べています。御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ロマ書8:23、24)

すべての被造物の贖い


キリストの再臨の時には被造物自体も、滅びの束縛から解放され、キリストに信頼する者、神の子どもとされた人々は、栄光の自由の中に入れられます。(ロマ書8:21参照)


キリストを知る

使徒パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、わたしたちは、この世の人々が目標とするような目標、すなわち、物質的な富、名誉、名声をうること、知識を増すこと、それらいっさいのことにましてキリストの復活にあずかる者、死者のなかからの復活に達するものとなることが人生の目標なのだ。」(ピリピ書3:8参照)と言っています。 



わたしたちの目標


「罪の奴隷であった時は、わたしたちは義については、自由にふるまっていました。 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。 しかし今、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ロマ書6:20-22)

わたしたちに与えられている目標は、わたしたち一人一人が、信じる者すべてのうちに住まわれる聖霊の導きに従って、世の光、地の塩として歩み、実を結ぶものとなり、それぞれが自分の救いを達成することです。

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ福音書7章20-23)

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ書2:12)


使徒パウロはこのことを、神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ること、と言っています。 


''わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。''(ヨハネ福音書15:4,5)


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。(ヨハネ福音書15:16)

わたしたちの生涯が、御子によって神ご自身を証しするものと変えられ、栄光の主である神の御前により大きな喜びをもってその御顔を仰ぐことのできるものとなること。


わたしたちが、聖書の御言葉を創世記のはじめから黙示録の終わりまでを学ぶのは、この目的のために他なりません。


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