はじめに
はじめに
- 聖書の御言葉は、
すべての創造者である神がどのようなお方であるのか、
どのようなご性質を持たれているのか、
わたしたちにどのようなご計画をもたれているのか、
人生の意味が何なのか、
わたしたちが死んで身体が滅びた後で何がおこるのか、
という
わたしたちの基本的な存在の意味と疑問に対して
確実な答えを与えています。
御言葉の確実さ
聖書の言葉が確実で誤りのないものであることは、すべてが神の霊感によって書かれたものであることからも明らかです。
このなかに述べられているのは、初めから存在し、天地とそのなかにあるすべてを創造され、計画され、知っておられる、全知全能のお方の言葉です。
御言葉がどのように記されたのか。
旧約聖書は、紀元前1450年頃から紀元前400年頃の期間に、新約聖書は、紀元後50年頃から、紀元後98年頃にかけて、それぞれの時代の40人以上の異なった時代、異なった境遇にある人々によって記されています。
正典
旧約聖書は39巻の書物に記され、新約聖書は27巻の書物に記されています。これらの書物を、「正典」とよんでいます。「正典」とは、神の霊感を受けた書物のことです。
聖書の正典を決める難しい面は、聖書が正典に属すべき書物のリストを教えてくれていないことです。正典を決めるには過程がありました。まず、ユダヤのラビや学者達によって決められ、後に、初代のクリスチャンによって決まりました。しかし、どの書が正典に属すかを決めておられるのは 、神でした。聖書は神が霊感を持って人に書かせたそのときから、正典に属していました。
新約聖書に比べ、旧約聖書はその正典がどれであるかについての論争はほとんどありませんでした。紀元250年までには、へブル語の聖書の正典については、ほとんど普遍的な一致がありました。 唯一の問題は、外典についての議論が残るだけでした。今日にもそれはいくつかの論争や議論として続いています。 大多数のヘブライ人学者達は、外典は歴史的、宗教的な書物ではあるが、へブル語の聖書と同じレベルではないと考えています。
新約に関しては、聖書として確認し、収録する過程は1世紀のキリスト教会の中で始まり363年のラオデキヤ会議では、各教会で読まれるべき聖書は、旧約聖書と27巻の新約聖書だけであるとしました。 ヒッポ会議(紀元393年)とカルタゴ会議(紀元397年)においても、同じく27巻が権威ある新約聖書だと再確認しました。
新約聖書が真に霊感を受けているかどうかを決めるのに、次のような原則に従いました。 1)著者は使徒であるか、または使徒と直接に親しい関係があったか? 2)その書は一般的に大多数のキリストのからだとしての、教会に受け入れられているか? 3)その書は、教理と正統な教えに矛盾してないか、首尾一貫しているか?4) その書に、聖霊の働きを反映する高いモラルと霊的な価値あるものとしての証拠があるかどうか?
繰り返して強調されるべきことは、どの書が正典なのかを決めたのは教会ではないという事です。初代教会の会議で、正典を決めたのではなく、神のみが、どの書が聖書に含まれるかを決められたのです。それは単に 神がすでに決定された事を、信者達に確認させただけなのです。正典について参照
聖書の内容
その内容は、旧約聖書が、律法、預言、歴史、詩、に分かれ、新約聖書も福音、使徒の働き、手紙、預言に大別することができます。
聖書の一貫性
聖書は、このように、1500年以上の期間、時代も境遇も異なる40人以上の人々によって記されていますが、一貫して、すべての創造者である神がどのようなお方であるのか、どのようなご性質を持たれているのか、わたしたちにどのようなご計画をもたれているのか、人生の意味が何なのか、わたしたちが死んで身体が滅びた後で何がおこるのか、というわたしたちの基本的な存在の意味と疑問に対して矛盾なく書かれています。
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