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主の祝福  (民数記6章23-27)

民数記は、エジプトを出たイスラエルの民が、主なる神に信頼し、約束の地へ向かう荒野の歩みが記録されています。したがって、信仰の歩みということが民数記のテーマといえます。
イスラエルの民は部族ごとに人口が登録され、軍務に就くものが数えられ、宿営の配置が行なわれました。さらにレビの部族が祭司の役目を与えられ、宿営をきよめ、献身するナジル人となる者についての規定が決められ、外に対しても、また内においても、主なる神を中心とした共同体として整えられることが述べられています。
神は、イスラエルの民が共同体として整えられた姿を喜ばれ、大祭司アロンが民のとりなしを終え、聖所から出て、神の祝福のことばを民に告げました。


大祭司の務めは、民を代表し、民の罪の贖いのための犠牲の血を流し、なだめの供え物をもって栄光の神に近づき、神の栄光と聖なることを民に示すことでした(贖罪日のメッセージ参照)。大祭司は、神と民との仲介の役割をになっていました。
大祭司に任命されたアロンは、聖所から出、神の御名によって民を祝福しました。それは、すべての祝福が神から来るものだからです。


主は目で見えるようなかたちのある方ではありません。しかし、私たちは、その御名によって、主ご自身を人格的に知ることができるのです。ここで、日本語で、主と訳されている יְהוֹוָה  Yhovah (yeh-ho-vaw')は、もともとヘブル語では母音の発音がないため、発音することの出来ない名前ですが、ヤーウェあるいは、エホバと発音されている主の名前です。
この名前の意味は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3章14)という意味です。私たちの必要があれば、その必要がなんであれ、その必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれる方ということを示しています。
すべての人にとって、必要なことは罪から救われて、罪から解放され、創造者である神との交わりを回復し、永遠の滅びから救われることす。
主の御名が、主は救い、神御自身が救いとなられた、ヤーホシュア、ヤシュア、イエスの名となっています。(神の御名メッセージ参照) 

主の御名によって祝福のことばが次ぎのように告げられています。
この祝福のことばは、主が何々をしてくださるように、と三回繰り返されています。
 
主があなたがたを祝福し、あなたを守られますように、
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように、
そして、主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように、


主があなたがたを祝福し、あなたを守られますように、と最初にいわれています。
神は、主の御名によって、すべての人が祝福されることを願われています。すべての祝福は創造者である神からのものであり、わたしたちは主の御名によって、本当の祝福を受ける者となります。
父なる神、主が、私たちの必要を満たしてくださり、支え、守ってくだいます。
主がわたしたちを祝福され、へりくだってわたしたちを支え、守ってくださるのです。
イエスは、ご自分が父のみもとに行かれる前に、弟子たちの足を一人一人洗い、、弟子たちがこの世の汚れから洗い清められるよう祝福をされました。
主は、わたしたちが汚れや悪によって苦しんだり、悲惨な結果に陥ることのないように願っておられ、たとえ状況がわたしたちには行き詰まりのようなときにも、共におられ、その状況を喜びに変える力を持っておられます。
「あなたを守られますように」というのは、罪から、あやまった道から守られますように、ということです。ユダは、神を、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることができる方」(ユダ書24)であると述べています。


「主が御顔をあなたに照らして」とあります。主はわたしたちひとりひとりを御子にあって限りなく愛しておられます。神と民の仲立ちになる大祭司の犠牲のなだめの供え物によって、大祭司は民を祝福しました。大祭司であるキリストの栄光が私たちの心の中も光で照らされるとき、「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。(第二コリント書3章18)
使徒パウロは「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(Ⅱコリント4:6)」と、述べています。
そして、「あなたを恵まれますように」という祝福がつづきます。
受け取るに価しない者が一方的に素晴らしいものを与えられることが恵みです。
わたしたちは、神の一方的な恵みによってすべてを与えられています。この世におけるわたしたちの能力や、賜物といったものばかりでなく、永遠の救い、わたしたちの永遠の命も神の一方的な恵みの業によって与えられています。
神の恵みによって、信仰によって、私たちは救われました。私たちの行ないではなく、神の恵みのみ業によって救われたのです。 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8章9)


そして、「主が御顔をあなたに向け」とあります。他の聖書の個所に、「わたしは顔をそむける」という言葉があります。忌み嫌うことを行なう者に対してこのような表現がされています。
しかし、主は私たちに御顔を向けたいと願われています。神が御顔を向けられ、御顔の輝きのなかに人生の歩みを歩むことは、なんと素晴らしいことでしょう。  光の神がみ顔をむけられるとき、平安が与えられます。 神の平安を持つことは、私たちにとってとって大切なことです。私たちは、キリストによって神との平和は持っているのですが、神の平安を持つことがなかなかできません。
イエスはこの世を去るとき、弟子たちに「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ福音書14章27)といわれました。主に信頼するとき、わたしたちには状況を超えた平安が与えられます。


このように、神の祝福は、わたしたちが支え守られ、恵まれ、平安を得ることすべてが神からのものであることがわかります。
新約聖書においても、神の祝福のことばが 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(第二コリント書13章13)神の三位一体の御性質とともに述べられています。
神は、主の御名によって神との交わりを持ち、わたしたちが祝福を受けることを望んでおられます。



 
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