神の御名 (出エジプト記3章13-15)

 

ミデアンの地で羊を飼う者として日々を過ごし、ホレブの山に群れを追ってきたモーセは、柴が火で燃え、炎が上っているのに柴が燃え尽きないという不思議な光景に出会いました。
この燃える柴の炎のなかから神はモーセに語られました。

イスラエルの民は、神がアブラハムに預言されたとおり、4百年の間エジプトの地で過ごしました。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、イスラエルの民が、奴隷として労役にうめき、助けを求めているのを神は見られ、その叫びを聞き、彼らの痛みを知られて、モーセに、エジプトの王パロのもとへ行って彼らを導き出すように仰せられました。

しかしモーセは、「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と答え、ヘブル人の同胞をエジプトから導き出すという役目は自分には不適格であることを言い表しました。
神ご自身がモーセとともにおられ、「これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」と言われました。

すぐに燃え尽きてしまうはずの荒野の柴の炎のなかに
柴が燃え尽くされないでそのなかで神がモーセに語られていることが、神がモーセとイスラエルの民と共におられることのしるしなのだと言われました。(このときのことを象徴して、現在でも燃える柴は、神の臨在の シンボルとしてユダヤ人の会堂(シナゴーグ)の壁に模様として使われています。)


このときの神とモーセとの会話が13節から15節の箇所です。

エジプトで苦役にあえぐ同胞のところへ、彼らの父祖の神によって遣わされてきたというとき、イスラエルの民は、彼らの父祖の神が誰なのか、そしてその名を聞かれたとき、どのように答えればよいのかと、モーセは神に尋ねました。

これにたいして神は、「わたしは、『わたしはある。הָיָה הָיָה hayah (haw-yaw) hayah (haw-yaw)、 ἐγώ ego (eg-o') εἰμί eimi (ei-mee') 』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」モーセにこたられました。

「わたしは、『わたしはある。。(通常エゴ エイミといわれている原語は、元のヘブル語の原語から聖書が70人訳によってギリシヤ語に訳されたことばです。)』という者である。」と、神が神ご自身の御名をあらわされていることは、この御名をとおして神がどのような方なのかを、わたしたちに示しています。
「ある」という単語は、存在を示す動詞の現在形です。通常「ある」という単語は、「―――がある」「わたしは、―――である。」というように、形容や状態の存在を説明することばとして使われますが、それ自身で独立して使われる言葉ではありません。
神のみが、すべての創造の源であり、初めから存在し、真のいのちを持たれ、すべての他の存在に依らないで存在する本質のかたです。
神は、他の存在に依ることなく独立して初めから、永遠に存在される方です。

同時に、神は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という御名によって、歴史をとおして序々にご自身をあらわされ、昔も今もこれからも永遠に変わらない方、わたしたちにとって、必要なすべてとなられるお方です。
神が永遠に存在され、賛美の対象となる方であることは、使徒ヨハネが幻に見た天における神の御座の前で、御側近くに仕える大天使たちが「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。全能者にして主なる神、昔いまし、今いまし、やがて来られる方」と賛美していることからもわかります。

神がモーセと会話されているこの箇所では、神は直接的には御名によって、モーセの必要のすべて、イスラエルの民の必要のすべてとなられ、モーセとイスラエルの民と関係を持たれる方ということを意味しています。これは、わたしたちにとっても、わたしたちの本質的な必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれる方ということを示しています。             

「『わたしはある。』という者である。」という神の御名によって、神がご自身のことばをとおして、どのようにイスラエルの民の必要のすべてとなられたのかを見てゆくとき、神が歴史をとおしてご自身をあらわされ、わたしたちの本質の必要となられる方ということを知ることができます。


イスラエルの民の父祖アブラハムは、年老いて百歳のとき、妻サラとのあいだに約束の子イサクを授かりましたが、神はアブラハムを試練に会わせられ、モリヤの地で神がアブラハムに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげるように言われました。このとき、アブラハムは、告げられた場所にイサクと共に行きました。着くと、祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いて、手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしたその時、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せられました。このとき、アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいたのでアブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。
アブラハムは、その場所を、ヤーウェ・イルエיְהוֹוָה יִראֶה Yhovah yireh (yeh-ho-vaw' yir-eh') と名づけました。これは、「主の山に備えがある。」という意味です。わたしたちが神の導きに信頼して歩むときに、神ご自身が備えてくださいます。(創世記22:14)
       
神が海の水を干上がらせ、イスラエルの民が深みの底を、さながら荒野を行くように渡り終え、エジプトの王の軍勢が彼らを追ってくると、水が彼らをおおい、ひとりのエジプトの兵士も残らず滅びた後で、モーセは、イスラエルの民をそこから導き、シュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩きました。彼らには水が見つからりませんでした。
彼らはマラという場所に来ましたが、マラの水は苦くて飲むことができず、民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言いました。
このとき、モーセは主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れました。すると、水は甘くなり、その所で主はモーセに、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられました。
そして、「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」と言われました。神は、神の声を聞いて、それに耳を傾け、神の正しいと見られることを行うなら、エジプトにあったような病気をイスラエルの民の上に下さないと言われ、神は、神ご自身がいやしとなってくださる、ヤーウェ・ラファרָפָא רָפָה יְהוֹוָה Yhovah (yeh-ho-vaw') rapha' (raw-faw') (or raphah {raw-faw'}) であると、言われました。(出エジプト15:26)

モーセに率いられたイスラエルの民が約束の地に向かう途中、アマレク人が来て、レフィディムでイスラエルと戦いました。このとき、ヨシュアがモーセの命をうけてアマレクと戦いましたが、モーセとアロンとフルが神の杖を手に持って、丘の頂に立ち、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。モーセの手が重くなったので、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いてモーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえました。モーセの手は日が沈むまで、しっかりそのまま手をあげ、ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破りました。
このとき、神はモーセに仰せられ「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼びました。יְהוֹוָה נִסִּיYhovah nicciy (yeh-ho-vaw' nis-see') 神は、神ご自身が、戦いのときの、イスラエルの旗印、戦いの力の象徴となられる、といわれました。(出エジプト17:15)

神はイスラエルの民が聖い者となるように言われ、あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。 神がイスラエルの民、レビの祭司を聖なる者とする主、ヤーウェ・ミ、カドゥシゥקָדַשׁ יְהוֹוָהYhovah (yeh-ho-vaw') qadash (kaw-dash') 神は、神ご自身によって聖なる者となるように言われました。(レビ記20:8)

イスラエルの民が神の約束された地に入り、ヨシュアに率いられてカナンの地を占領したにも拘わらず、神から離れ、そのためにミデヤン人に圧迫され、周辺他国の国々からも略奪を受け、人々が神に助けを求めていた時代、神はミデヤン人から逃れていたギデオンにあらわれました。神がイスラエルの民をミデヤン人の圧迫から解放し、救うようギデオンを遣わされましたが、そのとき、ギデオンは自分のような弱い者が、どうしてそんなことができるでしょう、と答え、自分が神によって遣わされているしるしを見せて欲しいと求めました。
ギデオンの求めに応じてしるしを見せられたときギデオンが「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」といったとき、主はギデオンに仰せられ、「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」と言われました。
そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけました。
神は、ギデオンにヤーウェ・シヤローム、神ご自身が平安となってくださる、といわれました。
יְהוֹוָה שָׁלוֹםYhavah shalowm (yeh-ho-vaw' shaw-lome') (士師記6:24)

詩篇を読んだダビデは、有名な詩篇23編の冒頭で、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。と、詠んでいます。
神は、わたしたちを愛をもって導かれる牧者、ヤーウェ・ローハイです。יְהוֹוָה רָעָהYhavah(yeh-ho-vaw' ra`ah (raw-aw')(詩篇23;1)

エレミヤはメシアが王として御国を建てられ、そのときには神ご自身が人々の義となられることを預言し、「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。 」と言っています。
神は、ヤーウェ・シィドカヌ、יְהוֹוָה צִּדקֵנוּYhovah tsidqenuw (ye-ho-vaw' tsid-kay'-noo) わたしたちの義となられる方です。(エレミヤ記23:6)

エゼキエルは、この地上に神の国が出現し、神の都と神殿が建てられるときの様子を預言して、その町が主のおられる町となり、町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。といっています。
神は、ヤーウェ・シヤマ、יְהוֹוָה שָׁמָּהYhovah shammah (yeh-ho-vaw' shawm'-maw)
共にここにおられる方です。(エゼキエル書48:35)


神の御名は、備え、いやし、戦いのときの旗印、聖いものとして聖別をされ、平安を与え、わたしたちを導かれる牧者であり、共におられ、義となってくださる、お方です。
このように、神は試練のときにも備えとなってくださるかた、わたしたちを癒され、永遠のいのちか滅びかという戦いにも旗印となってくださり、わたしたちを聖化してくださり、どのような不安な状況にも平安を与えられ、わたしたちを愛し導かれる牧者であり、わたしたちの側に共におられ、わたしたちの義となってくださる方です。

メシアであるイエスを見るとき、イエスという御名が、ヤーウェ・シュア、יְהוֹשׁוַּע יְהוֹשׁוַּעYhowshuwa` (yeh-ho-shoo'-ah) (or Yhowshua {yeh-ho-shoo'-ah})
神が救う、神がわたしたちの救いとなってくださる方であり、このように、わたしたちの必要のすべてとなられる方、わたしたちの本質的な必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれ歴史をとおしてご自身をあらわされ、永遠に存在する神ご自身であることを、具体的に知ることができます。


イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ福音書8章58) 

イエスは、十字架の上で贖いの業を完成される直前に祈られ、「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」と言われました。(ヨハネ福音書17章4) 

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・(第一ヨハネ1章1-2)

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。(ヘブル書1章1-2) 

あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(第一コリント書1章30)

わたしたちが助けを求めるとき、イエスは見られ、わたしたちの叫びを聞かれ、わたしたちの痛みを知られるだけでなく、わたしたちを解放し、贖いと救いの備えとなられ、わたしたちの霊、魂だけでなく肉体をもその打たれた傷によって癒し、戦いのときの旗印、聖いものとしてわたしたちを聖別をされ、平安を与え、わたしたちを導かれる牧者であり、共におられ、義となってくださる、お方です。 
イエスが神の御名をすべて、あらわされる方です。このことを知り、イエスに信頼するとき、わたしたちは、永遠の神がわたしたちを、祝福し、守り、御顔を向けられ、、わたしたちを恵み、平安を賜る方であることを体験することができます。



 
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