贖罪日(ヨム、キップォアー)

(レビ記16章1-2 、34)


罪のある人が、そのままで聖なる神に近づくことは決して出来ません。

このレビ記では、大祭司が年に一度、全く一人だけで、おびただしい罪の身代わりの犠牲の動物をほふり(殺し)、血を流し、自分自身と民全体の罪の潔めのために聖所から至聖所の贖いのふたに近づくことが定められており、それが用意された神に近づく方法でした。


大祭司は、年に一度の贖罪日に、大祭司の装束を麻の白装束に着替え、たった一人で、30頭以上の牛や羊を犠牲のためのなだめの供え物としてほふり、血を流し、5度も清めのための水洗いをし、罪のための2頭のヤギをとり、一頭を贖いの犠牲に、他の一頭をアザゼルのヤギ(スケープゴート)として野に放ちました。
これは、キリストが大祭司であるにも拘わらず、わたしたちと同じようになられ、ただ一度わたしたちの罪のために贖いの業を、お一人で完成されたことを示しています。わたしたちの大祭司キリストは、律法によって定められたイスラエルの大祭司のようにではなく、ご自身を全きささげものとしてわたしたちの罪の贖いの業を終えてまことの至聖所に入られました。

罪のためのヤギがほふられ、もう一頭が野に放たれ見失われるのは、キリストが贖いの業を完成されたことによって、罪が赦されることだけでなく、わたしたちの罪が取り去られて決して思い起されることがないことの象徴でした。

そして、大祭司は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いを終え、聖なる所でそのからだに水を浴び、大祭司の威厳に満ちた装束に再び着替え外に出て民を祝福しました(主の祝福のメッセージ参照)。


「 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、
第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。
したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。
モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
『これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。』と言いました。
また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。』
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』
すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。』と言い、
また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル書9章1-28、10章1-10)



「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103編10-12)

「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」(ミカ書7章18)

「 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。 」(イザヤ書38章17)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ書44章22)

「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミア書31章34)


「 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル書4章18) 

大祭司であるキリストが完成された贖いの業によって、神が、わたしたちの罪を赦され、思い出すことをしないと、言われていることを信じ、深く心に受け止め、大胆に恵みの御座に近づく特権がわたしたちに与えられています。 


 
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