礎の石

(マタイ福音書21章42-44)


旧約聖書の預言で紀元前五世紀の終わり頃ゼカリヤは、「 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろば に乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ書9章9)と、イエスがキリストであることを公けにされて、エルサレムへ入城されることを預言しました。
この日は、過越の祭りの五日前、わたしたちが棕櫚の日曜日と呼んでいるイエスが十字架に架かられる直前のことでした。
イエスは民衆が棕櫚の葉を振りながらホサナ、ホサナと歓呼するなかを子ろばに乗ってオリブ山を下り、ご自分がメシアであることを民衆に公けにされ、ネヘミア、ゼルバベルによって再建されヘロデ王が拡張したエルサレムの神殿に入られました。
これは、旧約聖書でダニエルが預言したとおり町と城壁を建て直せという勅令が出された紀元前445年3月14日から数えて六十九週目、ちょうど173、880日目、西暦紀元後32年4月6日に該当する日でした。(神の訪れの日メッセージ参照)  


エルサレムの宮に入られたイエスは、次の日そこで宮の中で売り買いする両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒され、彼らを追い出し、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と言われ、宮を清められました。
また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされました。
ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てイエスに「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」と言い、これにイエスは「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。(私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。詩篇8章1、2参照)』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」答えられました。
この次の日、再び宮に戻られたイエスが人々に教えておられると、祭司長、長老たちが、みもとに来て「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」と、イエスがなさるすべてのこと、イエスの権威に対する挑戦的な質問を投げかけました。

イエスは祭司長、長老たちの質問には直接答えられず、イスラエルの国家についての譬えを話されました。

一つは、ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」という譬えでした。

この問いに彼らは「あとの者です。」と答え、これにイエスは。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」と、言われました。

もう一つは、「家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
と、いうものでした。

この問いかけにも彼らは、「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」と、イエスに答えました。

祭司長や長老たちは、イエスの譬えに答えることによって、気付かずに自分たち自身にたいする罪の裁きの判決をしました。
人は自分自身の罪を認めなくとも、同じ罪を他人が犯しているのを見るとき、その罪が必要以上に裁かれるべきだという思いを持ちます。

旧約聖書に、葡萄園は何度かイスラエルの民、イスラエルの国家をあらわす比喩として使われている祭司長や民の長老たちにとってよく知られている比喩でした。
イザヤ書の預言にはぶどう畑の主人とぶどう畑に植えられたぶどうの譬えによって神とイスラエルの関係が描かれています。

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」(イザヤ書5章1-6)

このイザヤの譬えによる預言の意味は、ぶどう畑の主人が神であり、イスラエルの国家になぞらえたぶどう畑を掘り起こし、石を取り除き、良いぶどうを植え、獣や泥棒の侵入を防ぐやぐらをたて、よく世話をしたにも拘わらず、イスラエルの民になぞらえられたぶどうは、甘い実を結ばず、酸いぶどうしか実らせなかったので畑の石垣がくずされ、ぶどう畑がふみつけられるままにされた、というものでした。


二つのぶどう園の譬えが、彼らの知っているイザヤ書のぶどう園の譬えと同じ意味なのだということを悟った祭司長や長老たちは、自分たちのことについて言われていることに気付きました。

イエスが言われたのは、神がイスラエルの国家を選ばれた民として実を結ぶものとなることを期待されたにも拘わらず、農夫になぞらえられたイスラエルの指導者たちが、ぶどう園に植えられたぶどうの収穫の実を農園の主人に渡さずに自分たちのために摘み取ってしまい、主人の僕、すなわち多くの神から送られた預言者たちを迫害し、ぶどう園の本来の所有者である農園の主人である神が送られた独り息子になぞらえられたイエスを殺してしまおうとしている、ということでした。

イエスは、神の御子としての権威によって神殿を清められ、盲人や足なえの人々を宮で癒し、祭司長、長老たちの不正な心、罪にたいして彼ら自身が罪に対する裁きの判決を下していることを示されたのでした。

イスラエルの民は、祭りの度ごとにエルサレムの神殿に各地から詣でました。
特に民族がエジプトの奴隷状態から開放された日を祝う過越の祭りには、人口が一挙に普段の日に比べ何倍にも膨れ上がり、人々は神殿に詣で、自分たちの収入の一部を捧げ、犠牲の動物を捧げました。
このとき、宮の中で売り買いするための両替人の台、鳩を売る者たちはすべて祭司長とその家族の所有でした。イスラエルの民の多くは、当時ローマの貨幣によって収入を得ていましたが、神殿に捧げるための貨幣は、イスラエルのシケルでなければ汚れたものであるとして、両替所をおき法外な交換レートでローマ貨幣とシケルとの交換を行い、同様に犠牲の動物の捧げものについても、祭司長の指定した汚れのない動物でなければ、神殿に犠牲として捧げることはできませんでした。
神を賛美するために祭りを祝い、集まった群衆から法外な利益を得、民を踏みにじり、祭司長とその家族、長老たちは、自分たちのために巨万の富を独占しました。
彼らは本来の所有者、農園の主人である神から収穫の季節に摘み取るべき実を主人に渡さず自分たちのためのものとしていました。


このとき、イエスは、祭司長、民の長老たちに、「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」と、言われています。
これはダビデの詠んだ「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう
。ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。 」(詩篇118篇21-26)という箇所からの直接の引用でした。

この詩篇の預言は、救いの君メシアが来られ、主が設けられた日に群衆からホサナ、ホサナという歓呼で迎えられ、イエスがご自身をメシアとして民衆に公にされ、家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石となるという預言です。
そして、この預言はイエスがここで引用されたとおり、すべて歴史上現実のものとなりました。

イスラエルの指導者たちは、神の御子として来られたイエスをこの日の直後、過ぎ越しの祭りの前に、イエスがローマ帝国に反逆を企てているというデッチあげの罪によって、イエスをローマの極刑である十字架に架けてしまいました。
家を建てる者たち、すなわちイスラエルの指導者たちは、巌なるキリストを捨て、そのために、「この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」という預言は、キリストが十字架に架かり復活をされ、天に昇られて間もなく歴史的に現実のものとなりました。

イスラエルの指導者たちがイエスを拒否したのは、イエスに対する群衆の人気への妬みと自分たちの地位が脅かされることへの恐れでしたが、彼らが執着した自分たちの不義による富も地位もローマ軍団によって紀元70年には殲滅させられ、「神殿の巨大な石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してない」と、イエスが預言されたとおり、神殿はローマ兵の放った火矢によって神殿の壁をおおっていた金が溶け神殿の石はひとつ残らず崩れ、彼らはそのすべてを失ったばかりか、イエスがエルサレムを見て嘆かれたように国も国土も結局は失うこととなりました。

そして、イスラエルは神の人類にたいするご計画のなかで一時的に脇に置かれ、イエスによってもたらされた人類の罪にたいする贖いの福音は、最初ユダヤ人に伝えられ、異邦のギリシャ人やローマ人へ、そして異邦人たちに拡がり、わたしたちにも伝えられることになりました。    
神の国はイスラエルの民から取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられることになりました。


聖書には、神またはキリストが岩、あるいは巨大な石として様々な箇所で比喩として表されています。
「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。」(出エジプト記17章6)

「そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(第一コリント10章2-4)

「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(申命記32章4)

「主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、」(申命記32章13)

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。」(申命記32章15)

「あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」(申命記32章18)

「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。」(申命記32章30,31)

主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。」(申命記32章37)

彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。」(第二サムエル記22章2,3)

「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。」(第二サムエル記22章32)

「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。」(第二サムエル記22章47) 

「イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。」(第二サムエル記23章)

「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18篇2)

「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。」(詩篇18篇48)

「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」(詩篇40篇2)

「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(詩篇61篇2)    

このように、聖書全体をとおして主なる神が岩、救いの巌として描かれています。


イエスがダビデの詠んだ詩篇を引用して言われた「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。 」という預言は、祭司長や民の長老たちが彼らの救いの岩、メシアであるイエスを拒否したことによって現実のものとなりました。
メシアを拒否したイスラエル、エルサレムの都は、紀元70年にローマの軍団によって都が攻められ、神殿は壊滅し、民族が世界中に離散するという結果になりました。

イエスが「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」と、言われたとおり、イスラエルの民族は全体として一時的に彼らの神ヤーゥエに対して頑なになり、イエスによる救いの福音にも盲目の状態となりました。

このことについて、使徒パウロは、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ロマ書11章25,26)と述べています。根の豊かな養分を受けているイスラエルという枝が折られたのは、野生種の枝、異邦人を含むすべての人々に福音が及ぶためであって、イスラエルに対する神の約束は変わることがないことがロマ書のパウロの手紙にはっきりと記されています。
そして、神がわたしたちにも実を結ぶものとなることを求められていることが解ります。

イエスはこの箇所で、「この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」と言われています。
ここでは、石にたいして二つの動きがあることに注意する必要があります。

一つは、この石、すなわち捨てられた礎の石、キリストに落ちる者が粉々に砕かれるという動きです。人々はキリストの上に落ちるとき心が砕かれるのです。

もう一つは、石が人の上に落ちて人が粉みじんに飛ばされるという動きです。この動きはキリストが人の上に落ちてくる動きです。最初にキリストが来られ、イエスがメシアであることを受け入れなかったイスラエルは後に、ローマによって滅ぼされ離散の民になりました。キリストが再び来られるときには、全世界の国々が粉みじんに飛ばされイスラエルに対する神の契約が完成し、永遠の神の国が建てられます。
このことについて、紀元前6世紀の初頭に若くしてバビロニア帝国に捕囚となったダニエルは帝国の絶対権力者であったネブカデネザル王の見た夢の解読の預言のなかで、世界が終末を迎えるときに山から人手によらないで切り出された巨大な石によって人によって建てられている世界帝国を象徴する像を粉々に砕くという預言をしています。(永遠に立ち続ける国メッセージ参照)

使徒ペテロは、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、『つまずきの石、妨げの岩。』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(第一ペテロの手紙2章4-10)と、わたしたちに勧めています。


イスラエルは神の望まれた実を結ばず、人類にたいする神のご計画のなかで一時的に脇に置かれ
最初ユダヤ人に伝えられたキリストの福音は、異邦人であるわたしたちにも伝えられることになりました。
神が望まれているのは、実を結ぶことです。
神の望まれている実とは何でしょうか。

使徒パウロはガラテヤの人々に宛てた手紙のなかで、御霊の実が愛であること、愛は喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制としてあらわれることを述べています。(ガラテヤ書5章22参照)

キリストがもし今日来られるなら、イエスキリストを礎の石とし、巌なるキリストによって心を砕かれ、わたしたちが心からの喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結び、神への賛美を向けることを望んでおられます。

神は、わたしたちがキリストによって与えられれている神の愛に応え、わたしたちの神にたいする賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実を求めておられます。

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル書13章15)



 
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