黙示録‐預言

(黙示録の講解)

多くの人々が、これから起こること、将来の自分の行方を知りたいと願います。
毎日のニュースや、世の中に起こる様々な出来事が、自分の将来にとってどのような関係があるのかを知りたいと願います。

神のことばである聖書にはその解答が書かれています。

聖書は、将来を知り得、人生とこの世と、死を越えた世界に何が起こるかという疑問に答えています。

預言の確実さ

イエスは十字架に架かられる前に弟子たちに、「そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネ福音書13章19、14章29)と、語られました。
聖書の預言(”神のことば”、 確かな預言のみ言葉のメッセージを参照)が確実であり、信頼できるものだということは、神がこれから起こることについて、そのことが起こる前から詳細に述べられ、その預言が文字通り成就したことによって裏付けられています。
使徒ペテロは、イエスが神の御子だという声を天から聞くよりも、預言のことばが確かな神の言葉だと証言しています。(第二ペテロの手紙1章18-21参照)
イザヤも、「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」(イザヤ書42章8-9)と、神の言葉が預言によっても明らかなのだ、と語っています。

歴史的事実

預言者として起されたイザヤ、ミカは、イスラエルの王国が滅亡に至る百五十年前に、すでに、都は荒れ果て、土地は荒廃することを預言し、民が連れ去られるところがバビロンであることまで予告しています。
イザヤは、バビロニア帝国を征服する国がミード・ペルシャ帝国であり、その王がクロスという名であり、クロス王によってイスラエルの民が捕囚から解放されることまで預言しています。
バビロニア帝国でさえ、帝国といえるほどの力を持っていないとき、ミード・ペルシャもこの時点では国としての体裁すら整えておらず、ましてクロスという名の王など存在しなかったときにこの預言がなされていることは、実に驚くべきことです。
エレミアは、ユダ王国の滅亡を宣告し、王国の民の捕囚の期間が七十年の期間にわたり、その後解放され民がエルサレムへの帰還をすることを預言しています。
ダニエルは、バビロニア帝国が征服され、滅ぶ様子について預言し、ミード・ペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国の出現についても詳しく預言しています。
わたしたちは、これらの事柄が歴史的事実として実現されたことを知るとき、神の言葉の詳細な預言が文字通り実現していることに驚嘆せざるを得ません。
イエス・キリストは、十字架の上でわたしたちの贖いを完成され、死んで復活をされ、天の御座に昇られました。そして、わたしたちのとりなしをされています。イエス・キリストは、人類の歴史の終末にこの世に再臨され、神の国を来たらせます。
                    
すでに、現実に起こった歴史上の十字架の贖い、復活と昇天の出来事が、その詳細についてイザヤ、エレミア、エゼキエル、ダニエル、ミカ、ゼカリヤたちをとおして語られた預言の現実的な成就であることを知るとき、これから起こる終末の預言も、現実に起こる出来事であることは、疑う余地がありません。

     
終末の預言

終末の預言、すなわち、キリストがその花嫁として教会を取られ(携挙され)、栄光のうちに再臨され、御国が到来し、神の選びの民であるイスラエルが完全に回復し、すべての被造物が滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ、その後、想像を絶する素晴らしい天と地が新しく創造されるということも、個人的な霊的比喩としてだけではなく文字どおり成就する出来事です。
終末についての預言を理解し、神の約束が霊的な側面だけでなく、現実に実現するものであることを知ることは、わたしたちの信仰の確信を一層強くするものとなります。
ヨハネ黙示録に述べられていることをみてゆくとき、終末の時代にキリストが再臨され、そのときに、携挙、患難、再臨 がどのようにして起こるのかを理解することが出来ます。

黙示録

今日のわたしたちにとって、聖書の黙示録ほど将来に対する疑問に答えてくれる書物はありません。
黙示という言葉の意味自体、隠されている事柄を知らせる、啓示するということであり、幕で覆われているものを剥ぎ取る、取り払う、という意味です。

黙示録1章3節に「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」と述べられているように、この黙示録を読み、聞いて、そこに書かれていることに心を留める人々には特別な祝福が約束されています。

わたしたちは、イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、人類が恵みの福音を受け取ることのできる恵みのとき、救いの時代の終わりのときに生きています。

神は、すべての人が福音を受け入れ、神の恵みと救いにあずかり永遠のいのちを受けることを望まれています。
しかし、人類が創造の神に背を向け、神の恵みと救いを受けることを拒み、聖霊の導きを受け入れないとき、わたしたちの知っているこの世は自滅の道をたどることとなります。
このような、自滅の道をたどるこの世を洗い直し、完全なものへと変えられるために、神は、エレミアも預言している「引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわされる」(エレミア書1章10)地球全体のひっくり返るような時、人類が経験したことのない、「恐るべき大いなる日、比べるものもない日、それはヤコブにも苦難の時」(エレミア書30書7)を用意され、完全な神の国をもたらされるご計画を持たれています。 

わたしたちは、まさに時の近づいている時代に生きています。

黙示録には、その中に書かれていることの概略が示されています。

1章19節には、「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」と述べられているように、この黙示録を記したヨハネが、イエスの復活と昇天の後、ローマ帝国の皇帝ドミシャン帝によってパトモス島という地中海の孤島に島流しにされるという迫害を受けたときに、栄光のキリストによって、幻を示され、ヨハネの見たこと、今あること、この後にあることが区分されて示されています。

1章にはヨハネの見たことが、2章、3章には今あることが、4章からはこの後起こることが描かれています。

黙示録の記述

黙示録はキリストの僕、ヨハネによって記されました。

ヨハネは、ガリラヤ湖で多分漁師たちの網元であったゼベダイの子として兄弟ヤコブとともにイエスが公生涯をはじめられて間もなく、イエスに従いました。
イエスの数々の奇跡や権威ある言葉と教えを直接見聞し、イエスこそイスラエルの統一王国の王ダビデの末として神が約束された栄光の王座に座られる救い主、メシアであることを待望しました。
この期待に反して、イエスがローマ帝国の極刑である十字架に架かられた後も、イエスの復活をいち早く知り、キリストの昇天、イエスが生前約束された聖霊の降臨の体験などをとおして、栄光のイエスの再臨と、イスラエルの栄光と神の国の実現にたいする強い期待と確信を抱くに至りました。

ヨハネは、生涯、王として再び来られるイエスに対する期待と、イエスに関わる自分の人生の様々な事柄が忘れることの出来ない体験としてヨハネの脳裏にも焼き付いていたにちがいありません。

ヨハネは、イエス・キリストの福音が伝わりローマ皇帝のクリスチャンたちへの迫害が激しくなり、キリストの復活を目撃した使徒たちが殉教し、ローマの軍団によってエルサレムの都が崩壊、焼失していった後も、ローマ帝国が小アジアと呼んでいた現在のトルコの地で長老として教会を牧しました。
紀元90年ローマ帝国の帝位についたドミシャンは、最後の生き残りの使徒ヨハネに迫害の手を伸ばし、当時絶海の孤島であったパトモスにヨハネを島流しにしました。

黙示録1章1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」 と、ヨハネが記しているように、黙示録は、生ける神キリストがみ使いをつかわしてヨハネに神の御計画、これから起こることを記したものである。と述べられています。

黙示録には神の御計画が完成し、すべての被造物が滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ、その後、想像を絶する素晴らしい天と地が新しく創造されてゆくまでに、人類が経なければならない終末のときの様子が描かれています。


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