神の御言葉  

( 第二歴代誌36章22-23、)


歴代誌の最後の部分は、バビロン帝国のネブカデネザル王の三度のエルサレム侵攻によって ユダ王国の滅びと神殿の崩壊、民が捕囚となったことが記述されています。

「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」と、ユダ王国の王に、預言者をとおして警告され、神が言われたことが現実のものとなった歴史的教訓が述べられています。


神の言葉は、過去に起こったことが歴史的現実であり、これから起こることも確実に成就するものであるということを確実に示しています。

イエスは十字架に架かられる前に弟子たちに、「そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネ福音書13章19、14章29)と、語られました。

神の言葉が確実であり、信頼できるものであることは、神がこれから起こることについて、そのことが起こる前から詳細に述べられ、その預言が文字通り成就したことによって裏付けられています。

使徒ペテロは、イエスが復活され天の御座に昇られた後で、「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第二ペテロの手紙1章18-21)と、述べているように、実際にイエスが神の御子だという声を天から聞くよりも、預言のことばが確かな神の言葉だと証言しています。

イザヤも、イスラエルの神が、創造の神、真の神ということは、「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」(イザヤ書42章8-9)と、神の言葉が預言によっても明らかなのだ、と語っています。


「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」(第二歴代誌15章2参照)という警告は現実のものです。

神の言葉や繰り返しの警告に真剣に耳を傾けないでいるときに、手の施しようがなくなり悲惨な状況が訪れ、滅びに至ることが現実であることを歴史は物語っています。

あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられ、あなたが主を求めるなら主はご自身を示され、あなたが生ける神を捨てるなら、あなたも生ける神に捨てられる、ということは、自然に見出される科学的な法則と同じように、変わらない霊の法則です。


神は憐れみに富んだ方であり、一人も滅びることを望んでおられません。

「わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33章11)

神が人々を憐れまれ、繰り返し使いを送られ警告を与えられたにも拘わらず、彼らは、 神の言葉に真剣に耳を傾けず、神からの使いたちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしました。
その結果、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、手の施しようのない状態となってしまいました。


「 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」(第二歴代誌36章15-16)

歴代誌は、エルサレムと神殿が滅亡してゆくことが記述の最後となっています。
この最後の部分は、「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。  
ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(第二歴代誌36章22-23)という記述で終わっています。


神は、王国が滅亡してゆく最後のときに、数多くの預言者を起されました。

預言者として起されたイザヤ、ミカは、王国が滅亡に至る百五十年前に、すでに、都は荒れ果て、土地は荒廃することを預言し、民が連れ去られるところがバビロンであることまで予告しています。

「 私が『主よ、いつまでですか。』と言うと、主は仰せられた。『町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。』」(イザヤ書6章11-12)

「 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、』と主は仰せられます。」
(イザヤ書39章6)

「シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。」(ミカ書4章10)  

そして、イザヤは、バビロニア帝国を征服する国がミード・ペルシャ帝国であり、その王がクロスという名であり、クロス王によってイスラエルの民が捕囚から解放されることまで預言しています。

バビロニア帝国でさえ、帝国といえるほどの力を持っていないとき、ミード・ペルシャもこの時点では国としての体裁すら整えておらず、ましてクロスという名の王など存在しなかったときにこの預言がなされていることは、実に驚くべきことです。

「ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。
淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。」(イザヤ書44章27-28) 

「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。』」(イザヤ書45章1-3)
 
エレミアは、ユダ王国の滅亡を宣告し、王国の民の捕囚の期間が七十年の期間にわたり、その後解放され民がエルサレムへの帰還をすることを預言しています。

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年、すなわち、バビロンの王ネブカデレザルの元年に、ユダの民全体についてエレミヤにあったみことば。『この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、・・主の御告げ。・・またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。』」(エレミア書25章1、11-12)  

「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」(エレミア書29章10)

このエレミアの預言は、ダニエルによって、捕囚の地で七十年の期間が終わりを告げることになったことが記録されています。

「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。 」(ダニエル書9章1-2)

ダニエルは、ユダ王国の王家、貴族の一人としてバビロン帝国に連れ去られ、そこで宰相にまでなりました。
ダニエルは、バビロニア帝国が征服され、滅ぶ様子についてダニエル書のなかに記しています。
 
バビロニア帝国の滅亡、バビロン最後の王ベルシャツァルが神からの最後通告を受け、預言されたとおりペルシャの軍隊の侵入を受けて滅ぶ様子は、ダニエル書五章を参照してください。

ユダ王国が神の送られた預言者たちの、神の警告に耳を傾けず、神の言葉のとおりにバビロン帝国によって七十年の期間、捕囚となり、七十年の期間が終わるとき、神の言葉どおりバビロン、難攻不落を誇った帝国は、ミード・ペルシヤの軍によって城門の水路の扉を開かれ征服されました。そればかりでなく、預言されたときには、生まれてもおらず、名前も決まっていなかったクロスというミ-ドの王によってイスラエルの民が実際に解放され、エルサレムへの帰還を許され、これらの事柄が歴史的事実として実現されたことを知るとき、神の言葉の詳細な預言が文字通り実現していることに驚嘆せざるを得ません。


このように、神の言葉が詳細に文字通り歴史の上で事実として実現したことを知るとき、わたしたちは、イエス・キリストが十字架の上でわたしたちの贖いを完成され、死んで復活をされ、天の御座に昇られたことも、神の言葉の成就であることが理解できます。
そればかりでなく、キリストの花嫁としての教会を取られ(携挙され)、栄光の再臨をされると言われる神の言葉も確実に実現することを確信せざるを得ません。

マタイの福音書24章には、キリストが再臨されるときにどのようなことが起こるのかが詳しく記されています。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(マタイ福音書24章37-41)

神の言葉は、キリストがその肢体である教会を取られる時が間近であることを警告されています。

このことは、わたしたちの周り、世界中のあらゆる兆候を見ても明らかです。

人々が神の言葉に耳を傾けず、注意を払わず、警告を無視し続けるとき、ちょうど、ノアの洪水のときのように、ユダ王国の滅亡の時のように、手の施しようのない事態に必ず立ち至ります。

わたしたちが、神の言葉に信頼し、神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてわたしたちのからだを捧げ、光の子として光の中を歩むときがきています。



 
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