イエスは安息日にシロアムの池で生まれつきの盲人の目を開かれました。
このとき、イエスは地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗って「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われ、盲人はシロアムの池で目を洗うと見えるようになりました。
このため、パリサイ人、宗教指導者たちは、盲人の目が開かれたことより、安息日に癒しの業を行い、安息日に(盲人の目を開くため)泥をこねるという労働を行なったイエスの行為が律法の伝統的な解釈と規定に違反している行為であると言ってイエスを非難しました。
イエスをキリストと告白する者を会堂から追い出すことに決め、目を開かれた盲人を追い出したパリサイ人、宗教指導者たちに対して、イエスは、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。」と戒められました。
それは、彼らが神の定められた律法を知っていると言いながら、自分たちの解釈によって神の律法を曲げていることへの厳しい警告でした。
さらに、イエスは、比喩によって「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」と述べています。
イエスは、このようなパリサイ人、宗教指導者たちが、門からはいらずにほかの所を乗り越えて来る盗人、強盗だということを比喩によって言われています。
イエスがメシア、キリストであることを認めないパリサイ人、宗教指導者たちは、律法を人の伝統や慣習に従って解釈し、宗教的に律法を守ることだけが神に義とされる方法であり、盲人の目が開かれることよりも、安息日の律法を伝統によって守ることが大切だと主張して、自分たちの利益と人々を組織的に支配することに固執しました。
イエスは他の箇所でも、エルサレムの神殿で犠牲の捧げ物となる牛や羊や鳩を売り、民の神にたいする宗教心を組織的に利用し、神殿を商売の場所として独占的に利益をあげる行為に対して何度も「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われ、そのような宗教的な伝統と組織によって利益を上げる行為が盗人の行為であると厳しく戒められています。
イエスが非難されているように、現代に至るまで人々を支配したり、金銭的な利益をあげるための道具として宗教が利用され、そして宗教的なものの中に人々を欺くものがあります。
イエスに対決したパリサイ人や宗教指導者たちと同じように、多くの偽預言者が過去にも出現し、現代でも出現しています。
彼らは、人々の宗教心を伝統的な慣習や宗教的な組織によって縛り、金銭的な利益をあげ、人々の生き方に影響を与え、生きた唯一の創造者である神以外の神々に人々の心を向けさせ、人の善行によって罪が帳消しになり、善意、努力によって人が聖なる神の前で義とされると思わせる欺きを続けています。
神ご自身が定められた救いの方法以外の方法で、神の国に入ることが出来ることを人々に教え、自分が律法を守ることや、わたしたちの努力によって、聖なる神の前に義とされるという欺きを主張する宗教指導者たちを、盗人であり、強盗だとイエスは言われています。
そして、盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためだと宣告されています。
他の箇所でもイエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と宣言され、イエスを見た者は、父なる神を見たのだと言われています。
イエスを信じる信仰ではなく、伝統的な宗教的慣習や自分が律法を守る努力によって、神の国に 入ることが出来ると教える宗教指導者は、門からはいらずにほかの所を乗り越えて来る盗人、強盗のようなものだと比喩されています。
イエスは、このような宗教指導者たちは、雇われ人の羊飼いのように、囲いの中の羊の群れを守らずに、羊毛を刈り取り自分の利益を得ることだけに関心があり、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げてしまい、羊は狼に奪われ、散らされてしまうことを比喩で語られています。
雇われの羊飼いは羊のことを本当には心にかけていません。
良い羊飼いは羊のためにはたらき、羊を守り群れが養われて肥えることに心を注ぎます。
わたしたちが神の国に入ることが出来るのは、宗教指導者たちの言うことを聞いて律法を守ることではなく、イエスを信じる信仰によって新しく生まれ、神の国に入るものとされます。
「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。」(ロマ書9章30)
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 (第一テモテへの手紙2章4-5)
ヨハネ福音書10章のこの箇所で、イエスは、「わたしは、よい羊飼いです。」とご自分のことを宣言され、「わたしは門です。」と述べています。
この比喩のなかで、イエスは二つのタイプの羊を囲う囲いについて言及されています。
「羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネの福音書10章1-5)と、イエスは言われていますが、ここに比喩として言及されているような羊の囲いは、通常、街の中に見られる羊の囲いです。
街の中の羊の囲いには門番がいて、羊飼いが自分の群れの羊を囲いから連れて出入りするとき門を開閉します。このような羊の囲いは門の中に幾つかの異なった群れのための囲いがあり、羊飼いは牧草地から戻ると羊の群れを連れて自分の群れの囲いに戻り、門番が門を開けて、羊の群れを囲いのなかに入れた後で羊飼いは自分の家に戻り、朝になると群れを連れてゆくために門を叩いて門番が戸を開けるのを待ち、門が開くと自分の羊の群れの囲いを開けて羊を連れ出します。
このとき、羊の群れは自分たちの羊飼いの声を聞き分け、自分たちの群れの羊飼いについて囲いの外の牧草地に向かいます。(イメージ参照)
もうひとつのタイプの羊の囲いは、街から離れた野原に見られるもので、この場合の羊の囲いは街のなかで見られる囲いに比べると、より簡素な囲いです。このような羊の囲いは、塀も門もなく代わりに岩や石を積み上げて囲いをつくり、出入り口となる場所に積んである岩を除き、羊の群れはそこを通って囲いを出入りする、より簡素な羊の囲いです。
羊飼いは、野原の牧草地から群れを連れて戻ると、積んである岩を除いて群れを囲いのなかに連れ帰り、羊の群れがそこを通るとき、一頭づつの羊が怪我や虫に憑かれていないかを調べます。この場合、羊飼いは、羊の群れの安全を確かめ、夜になると羊飼いは岩を取り除けて開いた場所に自分自身が羊の囲いの扉がわりとなって、そこで寝るのです。(イメージ参照)
羊飼いが羊の囲いの扉がわりとなって門のところで寝ていれば、野獣が囲いの中の羊を襲うためにやって来ても、羊飼いを乗り越えなければ中に入ることはできず、羊も囲いの外へでることはできません。
イエスは「わたしは、良い羊飼いです。羊はわたしたの声を聞き、わたしについてきます。」と言われ、「わたしは、羊の囲いの門です。」と言われています。
わたしたちは、この比喩のなかで羊の群れの羊です。
イエスを自分たちの羊飼いとして、その声を聞き、その囲いのなかでイエスが羊の囲いの門となっておられることに全面の信頼を寄せているでしょうか。
イエスは、盲人の目を開き、失われた者を回復し、いのちを与え、またわたしたちがそれを豊かに得るものとなるためにこの世に来られました。
聖書を通して、神と人との関係が羊飼いと羊の関係に比喩されています。
旧約聖書には全能の主なる神が、イスラエルの岩なる牧者(羊飼い)であることが述べられ(創 世記49章22-24参照)、イスラエルの王となったダビデは有名な詩篇23篇で主なる神が「主は、わたしの牧者です。」と告白しています。
(エゼキエル書34章1-19、エレミア書23章1-4、ゼカリヤ書13章1-9 参照)
羊の群れの健康や幸せは羊飼いによって左右されます。
わたしたちがイエスの声を聞き、イエスに従う人生を歩むとき、良き羊飼いであるイエスは、わたしたちを滅びに至らせる者から守られ、わたしたちの必要を備えてくださいます。
羊飼いである主は、羊が、迷い出ることのないように見守られます。主がわたしたちの牧者であれば、羊は、肥えて繁栄し、幸せな群れとなります。
良い羊飼いであるイエスが与えられる喜びは言い尽くしがたく、イエスが与えられる平安は人のすべての考えにまさる神の平安であり、イエスの注がれている愛は人知をはるかに越えたすべてのものにまさる広さ、長さ、高さ、深さをもった愛であり、イエスの声を聞き分け、イエスに従い、イエスを主として人生を歩むとき、イエスがわたしの牧者であることを体験し、ダビデが詩篇に詠んでいる体験をわたしたち自身も体験することができます。 メッセージ「恐れからの解放」(詩篇23篇)参照
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23篇1-6)
イエスがこの世に来られたのは、わたしたちがより豊かないのちを得、豊かな人生を体験することができるためです。
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