恐れからの解放  

(詩篇23篇1-6)


この詩篇23篇でダビデは主はわたしの羊飼いであると宣言しています。

新約聖書を開くとイエスは「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ福音書10章14-15)と、宣言されておられます。

ダビデが「主は、わたしの羊飼いです。」と、いうとき、それは、きっとわたしたちが「主は、わたしの羊飼いです。」というより以上に深い意味が込められていたことでしょう。

わたしたちのほとんどが牧場で羊を飼うという経験はありません。しかし、ダビデは、羊飼いが羊をどのように世話をしなければならないか、その務めについての体験を持っていました。そして、ダビデが「主は、わたしの牧者です。」というとき、この宣言は、特別な慰めの響きをもっていたことでしょう。

ダビデは、外からの侵入者、猛獣から羊を守ることが羊飼いの務めであることを、身をもって知っていました。
実際、羊は自分を守るための手段を何も持っていません。自分を守るためにできることといえば、走ることぐらいしかないのです。全面的に羊飼いによって他からの侵入者や猛獣から身を守ってもらわなければ生きてゆけないのです。
羊飼いは牧草地、水飲み場に、羊を導いてゆかなければなりません。そのまま放っておくと、羊たちは自分たちで牧草地や水を見つけることができず、ついには飢え乾いて死んでしまいます。
羊たちは、自分で牧草地を見つけるセンスがまったく欠けており、しかも彼らは、水の流れを見るとパニックになり、汚い水はのむことができません。水が湧き出し、しかも澄んだ水でないと飲めないのです。
羊は、自分では何もできない大変手の掛かる、弱い、そして頑固な動物です。
ダビデは、羊の習性をよく知っていました。羊の群れの健康や幸せは羊飼いによって左右されます。

主はわたしの牧者です。主はわたしたちを滅びに至らせる者から守られ、わたしたちの必要を備えてくださいます。羊飼いである主は、主の群れの羊が迷い出ることのないように見守られます。主がわたしたちの牧者であれば、羊は、肥えて繁栄し、幸せな群れとなります。


羊には帰巣本能がないので、放りっぱなしにされると、どのようにして家に戻ったらよいのかわかりません。
多くの動物、家畜が帰巣本能を持っています。例えば犬や猫にも、帰巣本能があるのをわたしたちは知っています。犬や猫を別の街につれてゆき、そこへ放りっぱなしにしても、彼らは家に戻ってきます。

ろばにも帰巣本能があって、聖書のなかで「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。」(イザヤ書1章3)と、言っています。
ろばでさえも、持ち主の飼葉おけを知って、家に戻ってきますが、羊は自分の場所にさえ戻ることができず、迷ってしまうのです。羊は羊飼いなしには何もできません。
羊飼いは、羊の世話をし、必要のすべてを備え、養い育てます。 

ダビデが、「主はわたしの牧者です。私は、乏しいことがありません。」と宣言するとき、主が牧者として、ダビデを忘れることなく、いつも見守り、世話をし、養ってくださり、乏しいことがありませんと実感をもって言うことができたのでしょう。

詩篇の他の箇所では、羊よりもはるかに強いライオンでも乏しくなり、飢えることがあることについて述べています。
「 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」(詩篇34篇10)
わたしより、はるかに強く、賢いものも、乏しいことを経験することがあります。しかし、主がわたしの牧者であれば、わたしには乏しいことがないのです。
主は完全にわたしの人生のすべての必要を満たしてくださいます。
主は、わたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水際に導いてくださいます。


フィリップ・ケラーの著作「詩篇23篇に見る羊飼い」には、四つの条件が満たされないと羊は伏すということがないことが述べられています。
第一は、羊に恐れがないこと、もし、羊が何かに恐れているときには、決して伏すことがありません。
第二は、羊が他の羊と摩擦やいさかいのあるときには、伏すことがありません。羊はときに、他の羊といさかいを起したり不和な状態になり争うことがありますが、そのようなとき、羊は決して伏すことがありません。
第三は、はえとか虫に悩まされている羊は、伏すことがありません。はえや寄生虫に悩まされている羊は、落ち着くことがなく、伏すことがありません。
第四は、羊は満腹の状態でないと伏すことがありません。お腹の空いた羊は伏すことがなく、食糧を探し続けます。

主は私を緑の牧場に伏させます。ダビデが言葉によって描写している牧者である主が、羊であるわたしたちを緑の牧場に伏させている光景を思い描くとき、何とその情景は美しいことでしょう。

ここでは、何の恐れも、争いもなく、満腹で、虫やハエに煩わされることのない状態で緑に囲まれた牧場に羊が安らかに憩っているのです。 


主は羊であるわたしたちを、いこいの水のほとりに伴われます。

羊飼いの務めは、羊の群れを良い場所、きれいな水の湧き出る場所に導くことです。

主イエスは、わたしたちをいこいの水のほとりに導かれます。

乾いた人生、乾いた魂は、イエスにあって生けるあたらしいいのちの水を見出すのです。

ある日、神殿の丘で、イエスは群衆に向かって「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7章37-38)と、大声で言われました。

主は私の乾いた魂を潤し、生き返らせてくださいます。


わたしたちの人生の歩みのなかには、自分だけではとても耐えることのできない、試練、障害、困難に度々出会います。
使途パウロは、福音を伝え、主の召しに仕えてゆくなかで、降りかかってくる試練、障害に出会うとき、「 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」(第二コリントへの手紙3章5)と述べています。

どのような、試練、障害、困難も、わたしたちが自分の力では乗り越えることのできないときに、共におられる主がわたしたちの試練、障害をも乗り越えてくださり、わたしの魂を生き返らせてくださるのです。

多くの場合、わたしたちは、問題に目を向け、問題そのものに捉われます。そして、問題はますます大きなものに思え、心が騒ぎ、遂には自分ではどうすることもできない状態に陥ります。わたしたちが問題に捉われるよりも、すべてを解決することのお出来になる方に目を向けるとき、わたしたちは力付けられ、わたしたちの魂は生き返ります。

主なる神にすべてを委ねるとき、自分の問題だと思っていたことが、自分の問題にしなくともよいことに気付くことがあります。
主の御心に従って歩んでいると思っているときでも、自分では解決しがたい問題に直面することがしばしばあります。しかし、そのようなときも、主がそのような状況を作り出されておられ、主が解決されることなのだと気付き、主のなさる方法に心を決めて信頼するときに、すべての問題を自分で抱え込むことなく、大きな試練、問題のなかでも、魂の恐れと不安から解放され、魂を生き返らせる体験をすることができます。


この詩篇のなかで、主の持っておられる二つ目の側面は、主なる神が、わたしたちの導き手であることです。
主は御名のために、私を正しい道に導かれます。わたしたちは、人生の歩みのなかで、どちらの方向に進めばよいのだろうかという岐路に立たされます。時には、人生の岐路は、どの道が最善の選択なのか解らないことがしばしばあります。このようなとき、「主よ、わたしを最善の道に導いてください。」と、主の道の導きに心を決めて委ねるとき、主はご自身の栄光をあらわす最善の方法で、わたしたちに道を開いてくださいます。

主は、御名のために、私を義の道に導かれます。


主がわたしたちを義の道に導かれることについて述べられた、すぐその後でダビデは、次のように宣言しています。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。」

詩篇の作者は、神がいつかはすべての人を人生の道のりの深い谷、彼が死の陰の谷と呼んでいる谷に導かれることについて述べています。

死は、すべての人にとって現実であり、それから逃れることのできない、通らねばならない深い谷の道です。

この箇所で気付くことは、詩篇の作者が次ぎのように述べている点です。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。死の陰の谷は、そこで留まるのではなく、通って歩む、通過をしてゆくところだといっています。
どんなに人生を走り、生涯を走り続けているように見えても、わたしたちは、人生そのものより早く走ることはできません。いつかは人生そのものに追いつかれ、どんなに走り続けているように見える人の人生も、死の陰の谷を通らねばなりません。

そして、死の陰の谷を歩くことがあっても、あなたが私と共におられますから、私はわざわいを恐れません。

人の一生で、出生の瞬間と、死を迎える臨終の瞬間ほど荘厳なときはありません。
あたらしい命の誕生と、人生を終える最後の瞬間は、人の生涯において人の力や能力を超えたところで、すべての創造者である神が、わたしたちの人生を支配されておられることを最も実感します。

主なる神との信頼関係にあり、主の臨在を覚える人は、この詩篇の作者が言うように、たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、主が共におられ、災いを恐れません。
それは、主がわたしを支え、死の陰の谷を歩む道を共に歩んでくださるからです。

もう一つ、この箇所で気付くのは、「死の陰」と言っていることです。興味深いのは、陰は実体ではないということです。陰には実体となるものは何もありません。
主にあって神の子とされた人々にとって死は何の実体もないのです。

さらに、陰はその反対側に光がなければ陰ができません。陰の反対側に光があるからこそ陰ができるのです。わたしの歩む道には陰が落ちても、永遠の神の御国、栄光の光をとおして陰が映るのです。
主は死の陰の谷でさえ、わたしを導かれます。


詩篇の作者は続けて、あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めですと述べています。

むちは羊飼いが羊の横腹を叩いて、羊の群れを追い使い、杖も羊が群れから迷い出ることのないように使われます。 
羊はときに非常に強情で、自分の行きたい方向にしか動こうとしません。
羊飼いは、羊にとって最も良い道を知っています。羊が自分の行きたい方向を強情に行こうとするとき、羊飼いはむちをもって羊の横腹を叩き、その強情な羊を群れへと戻します。杖も、群れから離れ迷い出ようとする羊を引き戻したり、羊を守るために、最も良い道にとどまるための道具として使われます。

時に主はわたしたちが主の道から離れてしまうことのないためにその子どもにむちを加えられることがあります。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル書12章5-7)

もし、悪の道を歩み、誰にも咎められずにその悪を行うことができる者は、それこそ、恐れを持つべきです。何故なら、そのような人は、神の子ではあり得ないからです。もし、神の子とされた人は、悪を行うとき、主なる神はあなたを決してそのままに見過ごされることはないからです。


この詩篇の最後の部分で、ダビデは主が栄光に満ちた方法でわたしたちを迎えられる主催者としての側面について詠っています。 

敵の前でわたしのために宴をもうけ、頭に油を注がれる

主は私の敵の前で、私のために宴をととのえられます。 

リーダーシップをとることには、それなりの代価がかかっています。
人々は、そのリーダ-の味方であるか、敵であるかの極端な立場に分かれ、そのリーダーのやり方が、ある人々にとっては受け入れ難い場合が必ずあるからです。
ダビデも、この例に漏れず多くの敵があり、これらの敵は絶えず彼を悩ましました。
ダビデは、「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、『彼には神の助けがない』と、わたしについて言う者が多いのです。」(詩篇3篇1-2、口語訳)と詠っています。
そして、このような中にあって、「主は私の敵の前で、私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」と述べています。

“ハエの季節”と、羊飼いたちが呼んでいる夏がくると、羊の群れをハエが悩まします。ある特別な種類のハエは、羊の鼻の湿った部分に卵を産みつけます。ハエに悩まされた羊たちは、常に頭を振り、草のしげみの中に頭を隠そうとします。もしこのハエが羊の鼻の部分に卵を産みつけることに成功すると、この卵がかえって小さなうじとなり、羊の鼻の部分を這い回り、羊をすさまじくイライラとさせます。卵を産みつけられた羊は、狂ったようになり死んでしまうほどに頭を木に打ちつけます。      
羊をよく世話する羊飼いは、羊が煩わされる状態を知り、油とサルファーを溶かした軟膏を羊の頭から鼻のあたりに塗りつけ、油を注いで、羊が満腹になるような場所で食事をととのえます。

羊につく寄生虫は、通常、羊の頭の部分に寄生し、かさぶたをつくります。このような状態となった羊は他の羊と頭突きをし、こうして、寄生虫は他の羊にも拡がり、この寄生虫は群れ全体に損害を与えます。
このために、羊飼いは、油とサルファーを混ぜ合わせた軟膏を塗って煩わしい虫や、ハエから羊を守り、健康と安全が保たれる世話をします。

「主は、私の頭に油をそそいでくださいます。」

もし人生の細かい事柄に対処することを怠れば、煩わしい問題はどんどん大きくなり手のつけられない状態となってしまいます。主は、そのようなわたしたちの頭に油を注いでくださいます。主は真実な方であり、わたしたちを見ていてくださいます。主はわたしの敵の前で、宴を設けられ、頭に油を注いでくださいます。


主はなんと恵み深くわたしたちを迎えてくださり、わたしの杯をあふれさせてくださることでしょう。
主は、わたしたちの人生、杯を満ちたりたものにするだけではなく、わたしの杯をあふれ出させてくださいます。このことこそ、本当のキリストにある溢れるような経験です。
イエス・キリストにある人生の歩みは格別に素晴らしい人生です。
聖書では、喜びについて語られていますが、この喜びは、単なる喜びではなく、言い尽くすことの出来ない格別な喜びのことについて述べているのです。さらに、平安についても、単にイエスの平安と言っているのではなく、人の理解を超えたイエス・キリストの平安について述べているのです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16篇8-9)

わたしの杯はあふれ出ます。


ダビデは、締めくくりとして、主がわたしの牧者、導き手、わたしたちを迎えてくださり、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょうと述べています。
わたしが、何処へ行こうとも、いつくしみと恵みとが、私のいのちの日の限り、私を追って来るのです。
たとえ、わたしの魂が肉体を離れるときがきても、目ざめるときに私は、栄光の主の 御顔を仰ぎ見、その御姿に満ち足り、永遠に、主と共に住まう者となります。

主に信頼し、牧者、導き手、わたしを迎えてくださる方として人生を歩むとき、死の陰の谷を過ぎて歩んでも、永遠の栄光の光のなかに住まわれる父なる神の家に共に住むことになるのです。

詩篇23篇が、万人に共通して、人々の最も好まれる聖書の箇所としてとりあげられるのも無理からぬことです。

主が慰め、安息、希望を与えられ、牧者として、導き手として、わたしたちを永遠に迎えてくださる方だということを知るとき、わたしたちは、すべての恐れ、不安から解放されます。
主はあなたの牧者、導き手、永遠にあなたを迎えたいと願われています。


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