ソロモンは、箴言のこの箇所で、主の御名について述べています。
主の名は、神をあらわしています。神は初めから他のいかなるものにも依ることなく永遠に存在する方です。同時に、神は、「わたしは『あってある』」という御名によって歴史をとおして序々にご自身をあらわされ、昔も今もこれからも永遠に変わらない方、わたしたちにとって、必要なすべてとなられるお方です。
イスラエルの民の父祖アブラハムは、年老いて百歳のとき、妻サラとのあいだに約束の子イサクを授かりましたが、神はアブラハムを試練に会わせられ、モリヤ の地で神がアブラハムに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげるように言われました。
アブラハムは、告げられた場所にイサク と共に行きました。着くと、祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いて、手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろう としたその時、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたし は、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せられました。このとき、アブ ラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいたのでアブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけに えとしてささげました。
このとき、アブラハムは、「神は備えられる」(ヤーウェ・イルエ)יְהוֹוָה יִראֶה Yhovah yireh (yeh-ho-vaw' yir-eh')と神の御名を呼び、神の導きに信頼して歩むときに、神ご自身が備えてくださる方と呼びました。(創世記22:14)
エジプトを出てイスラエルの民がマラという場所に来たとき、苦くて飲むことができない水が甘くなり、その所で主はモーセに、おきてと定めを授け、試みられたという出来事がありました。
そして、「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守る なら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」と言われました。
神は、神の声を聞い て、それに耳を傾け、神の正しいと見られることを行うなら、エジプトにあったような病気をイスラエルの民の上に下さないと言われ、神は、神ご自身がいやし となってくださる方、ヤーウェ・ラファרָפָא רָפָה יְהוֹוָה Yhovah (yeh-ho-vaw') rapha' (raw-faw') (or raphah {raw-faw'}) であると、言われました。(出エジプト15:26)
イスラエルの民がモーセに率いられて約束の地に向かう途中、アマレク人が来て、レフィディムでイスラエルと戦いました。このとき、神は、神ご自身が、戦いのときの、イスラエルの旗印、戦いの力の象徴(アドナイ・ニシיְהוֹוָה נִסִּיYhovah nicciy (yeh-ho-vaw' nis-see'))と、となられる、といわれました。(出エジプト17:15)
イスラエルの民が神の約束された地に入り、ヨシュアに率いられてカナンの地を占領したにも拘わらず、神から離れ、そのためにミデヤン人に圧迫され、周辺他国の国々からも略奪を受け、人々が神に助けを求めていた時代、神はミデヤン人から逃れていたギデオンにあらわれました。神がイスラエルの民をミデヤン人の 圧迫から解放し、救うようギデオンを遣わされましたが、そのとき、ギデオンは自分のような弱い者が、どうしてそんなことができるでしょうか、と答え自分が 神によって遣わされているしるしを見せて欲しいと求めました。
神は、ギデオンにヤーウェ・シヤローム、神ご自身が平安となってくださる、といわれました。
יְהוֹוָה שָׁלוֹםYhavah shalowm (yeh-ho-vaw' shaw-lome') (士師記6:24)
詩篇を読んだダビデは、有名な詩篇23編の冒頭で、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。と、詠んでいます。 神は、わたしたちを愛をもって導かれる牧者、ヤーウェ・ローハイです。יְהוֹוָה רָעָהYhavah(yeh-ho-vaw' ra`ah (raw-aw')(詩篇23;1)
エレミヤはメシアが王として御国を建てられ、そのときには神ご自身が人々の義となられることを預言し、神は、わたしたちの義となられる方だと宣言しています。ヤーウェ・シィドカヌ、יְהוֹוָה צִּדקֵנוּYhovah tsidqenuw (ye-ho-vaw' tsid-kay'-noo)(エレミヤ記23:6)
エゼキエルは、後の日になって、この地上に神の国が出現するとき、神は、人々と共におられる方だと宣言しています。ヤーウェ・シヤマ、יְהוֹוָה שָׁמָּהYhovah shammah (yeh-ho-vaw' shawm'-maw)(エゼキエル書48:35)
イエスという御名は、ヤーウェ・シュア、יְהוֹשׁוַּע יְהוֹשׁוַּעYhowshuwa` (yeh-ho-shoo'-ah) (or Yhowshua {yeh-ho-shoo'-ah})神が救う、神がわたしたちの救いとなってくださるという意味です。
イエスがこの世に来られることについて、そして、その御名がイエスと名付けられることについて、それが現実のものとなる700年以上も前に、共にわたしたちと居られる主の御名を預言してイザヤは、次のように述べています。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ書7章14)
マタイの福音書には、この預言が現実となったときの様子を次のように述べています。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ福音書1章18-23)
天地を創られた神、主とは、わたしたちの贖いと救いの備えとなられ、わたしたちを癒し、戦いのときの旗印、平安を与え、わたしたちを導かれる牧者であり、義となってくださり、共におられるお方である救い主イエスです。(より詳細は、メッセージ「神の御名」を参照)
ソロモンは、この箇所で、主の御名は堅固なやぐら、と述べています。
やぐらは、城郭に防御用あるいは物見用に建てられた仮設または常設の建築物で、古代にも、城郭や街をめぐらす壁と壁のあいだに建てられ、敵が攻めてくるとき、遠くから敵を見つける物見の役割と同時に外敵との戦いにおいて、やぐらは敵に対して圧倒的な有利を確保することのできる場所でした。
敵が攻めてくるときも、敵の投げる槍や、放つ弓矢も堅固なやぐらに篭っている限り届くことはなく、逆にやぐらから放つ槍や弓矢は攻めてくる敵を容易に倒すことができました。
古代の戦闘においても常に城へ逃れ、やぐらに篭って、たとえ不利であった戦いでも、それを有利なものとし、味方の勝利を導くことができました。
箴言の他の箇所で、ソロモンは「この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。」(箴言30章24)と述べ、その小さいもののうち岩だぬきについて「岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。」と述べています。
岩だぬきと日本語で訳されている小動物は、肉食の山猫や、狼に襲われると、なすすべもなく、その餌食となってしまう弱い動物ですが、身を守るために、急な絶壁の岩場に住んでいます。
わたしたちも、わたしたちの敵、終局的には霊的な戦いにおける敵、この世の君であるサタンにまともに立ち向かえば、その餌食となって滅ぼされてしまいます。自分の状況に捉われ、自分自身の力や能力により頼むとき、わたしたちは、絶望的な状況にしばしば直面します。
しかし、どのような敵から攻められ、どんなにどん底に思える状況のなかでも、その御名が堅固なやぐらであるわたしたちの救い主イエスに走り行く者は安全を確保することが出来るのです。
新約聖書ピリピ書のなかで、使徒パウロは「イエス・キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 」(ピリピ書2章6-11)
と述べて、イエスの名がすべての名にまさる名であり、イエスの御名によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられると宣言しています。
イエスの御名は堅固なやぐら、もっとも讃えられるべき方、この方に依り頼むとき心に喜びをもたらす御名です。
わたしたちの救い主イエスに信頼し、そこに走り行くとき、どのような敵から攻められ、どんなに追い詰められたと思える状況のなかでも、それらの状況をはるかに超えた永遠の神であり、昨日も今日もこれからも変わらない堅固なやぐらにあってわたしたちは安全を与えられています。
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