贖いの物語(ルツ記4章5-10)

このルツ記は、モアブ人の嫁ルツの姑ナオミの縁続きの裕福なボアズが買い戻しの権利のある親戚の贖い人としてナオミの亡き夫エリメレクと、その息子キルヨンとマフロンのすべてのものを買い取りルツを妻として迎えるという歴史物語が綴られています。


親戚の贖い人

イスラエルの民のなかにいろいろな事情によって貧困となり、その土地財産を売り渡さなければならなくなった場合、その売り渡した土地財産の登記権利証明の写しを保有し、一定期間に、たとえば家屋であれば、そのイスラエルの村々の城壁内の家屋について一年以内であれば、その家屋を同額で買い戻すことができる権利が認められていました。(申命記25:5、6、7、9)
そして、この期間に買い戻しの権利が行使されない場合は、その家屋は完全に買い手の財産となるというものでした。

もし、畑の抵当権を失い、畑の抵当を譲り渡さなければならなくなった場合、本人の家族、親戚が、その畑を買い戻すことのできる権利が認められていました。この場合には、その畑の評価額で、50年の期間のうちであれば、本人が死亡した後でも家族、親戚が畑を買い戻すことができました。しかし、この50年の期間以内に買い戻しが行われなければ、畑の所有権は完全に移ることとなりました。50年以内に畑の買戻しが行われると、畑に関するすべての所有権は、元の所有者に所有権が完全に戻され、その家族も一度失ったもとの畑に戻ることが出来るというものでした。(レビ記25:8-10)

このようにして、神は実際的にイスラエルの民が約束の地で永続的にそれぞれの部族、家族が相続地を継いでゆくことのできるようにされました。

しかし、じっさいに畑を抵当にして、これを譲り渡さなければならなくなった場合、これを買い戻すために必要な金額を用意しなければならず、これは、特に貧困に陥って畑を譲り渡さざるを得なくなった人にとって絶望的なことでした。このような時に本人、あるいは直接の家族の肩代わりをし、失った財産の買戻しをてくれる家族、親戚のことをゴエル、親戚の贖い人とよびました。

畑だけでなく、奴隷として身売りをしなければならなくなった場合も、同様な方法で6年の期間奴隷として奉公し、7年目に解放されることが許されていました。しかし、自分自身を買い戻すだけのお金を貯めるたことができなかったり、奉公先の主人に引き続いて仕えたい場合、自らの意志で奴隷として留まるということができました。この場合にも親戚の贖い人が、奴隷に身売りされた人を買い戻し、自由な者とするということが、権利としてみとめられていました。(出エジプト記21章)

この世を支配し、治める者

さて、この世は、もともとは神のものでした。神はこの世を創造され、それを支配される方です。神はこの世を創造され、人に与えられ、これを支配し、治めるように言われました。

神は、最初の人アダムをこの地に置かれ、祝福して「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28)と、言われ、人が神からの祝福を享受し、より祝福を受けることのできるように、この世の所有権を最初の人にあたえられました。

しかし、アダムは神が与えられた、たったひとつの警告に従わず、サタンの誘惑に乗せられ、サタンの言葉を選び、サタンに隷属する者となってしまいました。
人は、神によって委ねられたこの世をサタンに放棄してしまいました。

わたしたちの見るこの世は、さまざまの悲惨な状況、悲劇に満ちています。しかし、これらの、この世に起きる悲惨、悲劇、人のうえに死がもたらされることは、神の責任ではありません。むしろ、人の罪と、この世がサタンの支配下にあることが悲劇の原因、根本的な問題なのです。 

わたしたちは、賛美歌90番にある「ここも神の御国なれば」(原題「This is my Father’s world」)という曲を歌います。これは二次的な意味においてのみ真実です。一次的な意味では、この世は、いまだにサタンの支配下にあるからです。

サタンはこの世の君です。イエスは、何度も直接的にこの世の君、サタンについて言及されておられます。使途パウロも、サタンがこの世の神であることを言及しています。この世がサタン、暗闇の力の支配下にあることは紛れのない事実です。

サタンは、この世を支配し、イエスキリストとの関係のなかにコミットするもの以外のすべてを滅びに引き込んでいます。

イエスがこの世に来られた目的

イエス様がこの世に来られたのは、失われた人を救い、この世を神のものへと買い戻されるためでした。
イエス御自身 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:16-19)


贖いについて

新約聖書全体をとうして贖いという言葉を見つけることができます。この贖いということは、イエスキリストの流された血の代価といつも結びついて出てきます。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1書7)

イエスキリストの流された血によって、わたしたちが贖われたこと、この世を買い戻すための支払いの代価を完済してくださった。ということが一貫した聖書のメッセージです。

この世の所有宣言

キリストはこの世を贖われるために、その流された血によって贖いの代価の支払いを完済してくださいました。しかし、キリストは未だにこの世の所有の宣言をされておられません。これが、この世のあらゆる問題です。

この世は、テクニカルにはイエス様のものですが、まだ、イエス様は来られてご自分のものであるこの世の所有宣言をされておられません。

わたしたちは、キリストが来られこの世の所有宣言をされることを切に祈っています。わたしたちは、そのことを切望するからこそ、「あなたの御国がきたりますように。御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれますように。」と常に祈るのです。

人の努力や決意だけではこの世に本当の平和はもたらされない。

わたしたちは、切に、愛と義と平安に満ちた神の国の到来を待ち望んでいます。しかし、世界の歴史をみても、国々は覇を競い、個人同士でも争いは絶えません。残念ながら、どんなに政治的努力によっても、プラカードを掲げ、平和の到来を念じ、行進をしても、(平和を願いプラカードを掲げる人たちの純粋な思いには全面的に賛成しますが---。)キリストが再びこの世に来られ御国を建てられるときまでは、本当の世界平和も、愛と義に満ちた世界も出現することはありません。

信仰によって完全にイエスキリストに従い、この世の光、地の塩と変えられることによって愛と義と平安が部分的にもたらされるかもしれません。しかし、それはあくまで部分的であり、不完全なものです。わたしたちが、この肉の身体にあるうちは、肉のうちに罪が内在し、この世がサタンの支配下にあるかぎり、わたしたちがどんなに人道的な努力をしても完全にこの世が愛と義と平安にみちたものとなることはありません。

キリストのなされたこと、サタンの囁き

イエスは、悪魔の業を打ち破られ、神の御国をもたらされ、この世を買い戻すために来られたました。
イエスが来られた時、サタンは高い山の上にイエスを連れて、めくるめくようなこの世の栄華を見せ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4章9)と申し出ました。
サタンは、イエスに、もしイエスが、十字架などに架かることを止めてサタンを拝むのなら、インスタントにこの世の栄華をあげましょう。と、申し出たのです。
これに対してイエスは「御言葉に書いてあるとおり---。」と言われ、サタンの巧みな誘惑に乗らず、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』「さがれサタン」と言われました。

サタンは、今もわたしたちに同じような申し出をしています。あらゆる手で、あなたを誘惑し、偽りの囁きかけをし、あなたを欺き、束縛しようとしているのです「自分を他のために犠牲にすることなどやめて、自分の満足だけを考えたらどうだ。」「わたしたちは、皆、自分自身の満足のためにだけ生きればいいのだ。」「キリストを信じることなど馬鹿げている。」「この世の思いのなかで、わたしを拝め。」「インスタントの快楽のために、この薬を飲んだら、この酒をのんだら、セックスをしたら、金儲けをしたら、等など-――。」

自分自身を否定することは誰も自分の努力で出来ることではありません。

しかし、神は、古い肉の自分を死んだものとみなし、自分の十字架を背負ってキリストに従う道こそが本当にあなたを満たす道なのだと宣言されておられます。
「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9章24)

イエス様は、神のご計画された道、十字架の上で血を流され、わたしたちを罪から贖い、この世のサタンの支配から神の支配のもとへと移してくださいました。

贖いの完全な完成

ヘブル書の著者は、「神は、人となられたイエスを、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」(ヘブル書2章7,8)と、述べています。
これは、言い換えれば、信仰によって、霊的に贖いが完成されていても、未だにわたしたちのからだも、目に見える被造物も、完全には贖われておらず、サタンの支配下にこの世があることを示しています。

使途パウロも、ロマ書8章において、「 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(19節‐23節)
と言っています。

わたしたちは、うめきとともに産みの苦しみをしていることを知っています。そして、すべての被造物も共に、完全な贖いの完成を待ち望んでいます。

栄光の確実な約束

黙示録には、わたしたちのからだが贖われ、被造物すべてが完全に贖われることが描かれています。

イエスが、この世の権利書である巻物を、御座にすわる方の右の手から、受け取るとき、天の栄光の御座のまわりの大群衆とともに、わたしたちが新しい歌を歌うとき、そのことが実現します。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」(5:9‐10、12、13) という新しい歌を歌い、キリストと共にこの世を治める者となるのです。

わたしたちは、キリストと共にこの世を治めるため、再びこの地上に戻ってきます。

どんなにか、わたしたちはこの日の来ること、わたしたちのからだが贖われ、キリストがこの世の所有権を宣言され、完全な被造物の贖われる栄光の日を待ち望んでいることでしょう。
わたしたちは、このことを祈り、わたしたちの人生は、まさにこの目標のために生かされています。

わたしたちは、この世に死がもたらされたこと、この世に悲惨な状況が存在すること、この世に人々が飢餓で苦しむことが存在し、いたいけない赤ん坊が、ハンデキャップをもって生まれてくること、これらのことが現実であることを知っています。

これらのすべての悲惨、悲劇は、神がはじめに意図されたものではありません。わたしたちは、神がはじめに意図され創造された世界とは異なる調和のとれていない世界を見ているのです。

あなたが、わたしたちの贖いと、この世の贖いが完成されることを信じようと信じまいと、いずれ必ず、世界は神がはじめから意図され、調和のとれた素晴らしいものとなります。

完全にこの世が贖われるとき

この世が完全に贖われ、イエスがこの世を治められるときの世界がどのようなものかについて、
「 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ書2:4)
「 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(ミカ書4:3)という世界が出現します。

その時には「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(イザヤ書35:5-10)
という預言は文字通り実現し、ハンデキャップの者も、病に悩む者も、痛みや悲しみのない世界が実現します。

キリストの贖いに信頼する人々への約束

わたしたちは、愛と義と平安に満ちた世界を享受し、サタンが暗闇の黄泉にとじこめられている千年の期間、キリストと共に、この世を支配し、治め、サタンが完全に滅ぼされ永遠の新しい世界で主と共に永遠に生きるものとなるのです。

わたしたちには、このように、栄光に満ちた神の御国で、この世を治める者とされることが約束されています。これが、わたしたちが神の子とされることの希望です。

このことが実現するのは、わたしたちの親戚の贖い主が、その花嫁である教会を愛し、彼の花嫁を買い戻すために、売り渡されてしまった畑、すなわちこの世を、流された血の代価をもってわたしたちのために贖いの支払いを完済してくださったたことによるのです。

結論

キリストは、あなたを愛しておられます。キリストは罪による滅びからあなたを救われるために、サタンの欺きによって捉われている人々を闇の支配から神の支配に移すために贖いを完成してくださいました。



「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

キリストはその花嫁である教会を買い戻されるために、人によってサタンに所有権を放棄されてしまった畑を買い戻すための支払いを完済してくださいました。すなわち、この世を贖うための支払いは完了しているのです。なんと素晴らしい贖いがわたしたちのためになされていることでしょう。 

‐このルツの実際の贖いの歴史物語をとおして、わたしたちは、キリストの贖いを絵巻物を見るように知ることができます。

裕福な親戚の贖い主であるボアズは、ルツを愛し、彼女を花嫁として迎えるために、エリメレクとルツの姑ナオミの財産、畑を買い戻しました。キリストも畑に隠された宝である教会をキリストの花嫁として迎えるために、そのいのちさえ惜しまれず、この世を買い戻されました。
キリストが贖われたすべての所有宣言をされる日は、いますぐ目の前にせまっています。


このことを、信じるのは、あなたの選択です。



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