人は死んでも生きるだろうか。

(ヨブ記14章12-14、19章20-25)


富と名誉に満たされ、家族に恵まれ祝福されたヨブは、一瞬のうちにすべてを奪われ、さらに足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物に苦しめられ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわるという、人としてこれ以上に悲惨な状態はあり得ないほどの極限的な状態に置かれました。

ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこれらのすべてのわざわいを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来ました。彼らはヨブとともに七日七夜、地にすわっていましたが、ヨブの痛みがあまりにもひどいのを見てだれも一言も彼に話しかけることが出来ませんでした。

その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろい、深い嘆きを吐露しました。


ヨブの友人たちは、「悲惨な状態に人が陥るのは、罪の結果であって、暗にヨブには隠れた罪があり、それを告白していないために悲惨な状態になったのだ。」
「本当にヨブが神にたいして潔白であるのならば、それを神に訴え、全能の神の憐れみを請うのなら神はそれを聞いてくださる筈ではないか。」 
「もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べ、あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせることをしなければ、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがないはずではないか。」と、
それぞれにヨブが悲惨な状態に陥った理由を探ろうとしてかえってヨブを慰めるより、より苦しめる言葉を繰り返しました。


すべてを失い、家族を奪われ、体中を悪性の腫物に苦しめられ、妻からも神を呪って死んだほうがましだと言われるほどの悲惨な状態で灰のなかに座り、慰めに来たはずの友人たちからも、かえって苦しみを増す言葉を浴びせられたヨブは、苦しみの中から、人生のもっとも基本的な問いかけをこの箇所でしています。

女から生れる人は日が短く、悩みに満ちている。人の一生は、咲き出ててもすぐに枯れてしまう花のように短く、影のようにとび去ってしまう。 
木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。
たといその根が地の中に老い、その幹が土の中に枯れても、なお水の潤いにあえば芽をふき、若木のように枝を出す。しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。

ヨブは、人に死が訪れた後でも生きるということはあるのだろうか。悲惨な状態に陥って死が訪れたとき、人生のすべてが空しく、それですべてが終わり、何も残らないのだろうか。
人の人生は、永遠に記録されないのだろうか。


悲惨な状態のなかから苦悶に満ちた問いかけを発しているヨブの問いかけにたいして、友人たちは誰一人として答えを出すことができず、悲劇があたかもヨブ自身に起因しているかのようにヨブに迫り、ヨブを苦しめました。
ヨブは、このような絶望的な状態のなかで、19章で突然「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを知っている」という決定的な信仰のことばを発しています。

このなかで、「贖う方」と訳されていることばの「贖い」はヘブル語の原語でגָּאַל ga'al (gaw-al') v.ということばが使われており、これは、失った状態を回復する、代価を払って買い取る、と言う意味のことばです。
贖い主であることの条件は、失った状態に陥った人と繋がりのある人、親戚でなければならない、失った状態を回復することのできる富裕な人でなければならない、失った状態となった人の代わりに状態を回復する場合、その人の自由意志で回復をするということが条件でした。
これは、ルツ記に、借金によって財産を失ってしまったルツの姑ナオミの夫アビメレクにかわって裕福な親戚であるボアズが贖い主(ルツ記メッセージ、贖いの物語 参照)となっていることがわかります。 

ヨブは、自分の悲惨で苦悶に満ちた問いかけに答えられる贖う方が生きておられ、後の日に必ず、地上に立たれると言っています。


ヨブの問いにたいして、死に対する人の様々な哲学が生まれますが、人の死に対する哲学は結局のところ、わたしたちに何の回答も与えてくれません。

ヨブの、「人に死が訪れた後でも生きるということはあるのだろうか。人は死んだ後で何も残らず、希望がないのだろうか。人の人生は、永遠に記録されないのだろうか。」と、いう問いかけにははっきりとした答えがあるのでしょうか。


新約聖書ヨハネの福音書を開くと、ヨブの問いかけにたいする、明確な答えが、イエスをキリスト(救い主)として信じる信仰によって与えられることを知ることができます。

ご自身をメシアとして公に示され十字架の贖いをされるためにエルサレムへ弟子たちとともに向かわれようと、時を待っておられたイエスのもとへ、ベタニアの村に住んでいたマリヤとマルタの姉妹からイエスのところに「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられるわたしたちの兄弟ラザロが病気です。」と、使いが送られてきました。

イエスは、マリヤとマルタの家を、何度も訪れていたことが福音書の記述のなかに記録されています。イエスはマルタとマリア、その兄弟ラザロとを愛しておられました。

イエスはこれを聞いて、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」 と言われました。

イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたとき、すぐにはベタニアに向かわず、そのおられた所になお二日とどまられラザロは死にました。

イエスは弟子たちに、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」と言われました。

イエスは、ラザロの死のことを言われたのですが、弟子たちは「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と、イエスがラザロが、文字どおり眠った状態であることを言われたものと思いました。

イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われ、「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 と弟子たちに言われました。

それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていました。そして、大ぜいのユダヤ人がラザロの死について慰めるためマルタとマリヤのところに来ていました。ベタニヤの村はエルサレムに近く、三キロほど離れた所にあります。

マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行き、マリヤは家ですわっていました。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」と、イエスが遅れて来られたことに多分失望の感情を隠せず、しかし全面的な信頼をイエスに寄せてことばを発した マルタに、イエスは「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。

イエスのことばに マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と、イエスに答えました。


このとき、イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と、マルタに問いかけられました。

イエスは、マルタの言ったようにラザロが終わりの日のよみがえりのときによみがえると言われたのではなく、イエスを信じる者は死んでも生きる、ラザロは死んだのではない、と言われたのです。

この問いかけは、過激で、本質的な宣言です。

イエスは、マルタに、「イエスを信じる者は死んでも生きる、墓に入って四日も経っているラザロは死んでも生きている。ラザロはよみがえる。生きてイエスを信じる者は決して死ぬことがない。このことを信じますか。」という、二者択一の答えを迫られる宣言をされています。

同時にこのイエスの宣言を受け入れることは、イエスが神の御子であり、イエスの神性を認めることになります。

イエスの問いかけにたいして、マルタは、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」とイエスに答えています。(ヨハネ福音書11章1-8、11-14、17-27)


もし、イエスがよみがえりであり、いのちであり、イエスを信じる者は、死んでも生き、永遠の命の希望が確かであり、また、生きていてイエスを信じる者は、決して死ぬことがないのであれば、イエスを信じ、永遠のいのちを持つ者が死ぬということは、矛盾し、理屈に合わないことに思えます。

イエスを信じる者に通常わたしたちが「死」と呼んでいる肉体の滅びが訪れた後で、何が起こるのでしょうか。
ラザロが病気のために死んだときも、イエスは、ラザロは眠っていると言われました。

通常、人々は肉体の滅びを死と呼んでいます。
しかし、肉体が滅びても、イエスがいのちであり、イエスを信じる者にとっては、それは死ではありません。肉体は滅びても魂は肉体を離れるだけであって、それで終わりではないからです。


十字架に架かられ、息を引き取るとき、イエスは、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言われました。
イエスは、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」と宣言されておられます。

わたしたちは、イエスを信じて生涯を送る人たちの肉体が滅び、そして、永遠に移行する時のことを知ることができます。

ユダヤ人に、旧約聖書全体をとおしてイエスの栄光の再臨について論証し、論破されて憤ったユダヤ人たちに石を投げられ、新約聖書において最初の殉教者として記録されているステパノは、その最後に神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と述べています。(使徒書7章56)

パウロがバルナバと共に、イコニオム地方で福音の宣教を述べていたとき、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出すということがありました。このときのことについて、パウロは後に、「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。 」(第二コリント書12章2-4口語訳)と、生と死の境界に立った自分の体験を述べています。

これらの聖書の記録の他にも、イエスがよみがえりであり、いのちであることを信じる者に肉体の滅びが訪れ、それらの人々が、生と死の境界に立ちこの世を去って行くとき、ステパノやパウロと同じように、臨終のときに神の栄光に満ちたイエスに迎えられる素晴らしい証言を、身近に聞くことがあります。


わたしたちの肉体は、永遠に続くものではなく、一時的なものです。イエスがよみがえりであり、いのちであり、イエスを信じる者にとっては一時的な幕屋(テント)である肉体が滅びるとき、神が用意してくださる永遠に朽ちない住まいを着ることになるのです。 

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。 」(第二コリント5章1-7) 

天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(第一コリント書15章40-44)


人の本質は、その人の魂であって、肉体ではありません。もし、イエスがよみがえりであり、いのちであり、わたしたちを贖う方であることを信じるなら、ヨブが絶望の彼方から問いかけた、人生のすべてが空しく、それですべてが終わり、何も残らないのだろうか。死後は、もう希望がないのだろうか。人の人生は、永遠に記録されないのだろうか。という問いかけには、すでに答えが与えられていることになります。

わたしたちの魂が神から離れるとき、それが死んだ状態、永遠の滅びに至ります。

しかし、わたしたちが肉体を与えられているあいだに、よみがえりであり、いのちの方であるイエスにわたしたちの魂が結ばれ、聖霊の導きに信頼して人生を送るとき、ヨブのような絶望的な状態に陥っても、人生は空しいものでも、肉体の滅びとともにすべてが終わりになるのでもなく、わたしたちの生涯が永遠のいのちの書に記録される確実な素晴らしい希望が与えられています。

神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせわたしたちのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さいました。(第一ペテロ1章3-4参照)

 



 
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