栄光のキリスト

(黙示録1章の講解)

黙示録 1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
黙示録 1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
黙示録 1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

黙示録の標題が、ヨハネの黙示録となっていますが、これは原典からの写本がラテン語に訳される頃に後世の人が付けた標題で正確ではありません。
何故なら、この本は正確にはヨハネの黙示ではなく、イエス・キリストの黙示だからです。

「 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」と、述べられています。

この箇所で、しもべヨハネは、神がキリストにお与えになったすぐに起こるはずのことを御使いによって示され、それを記していると述べています。

この僕ヨハネが、使徒ヨハネであることは明らかです。

ヨハネは、ゼベダイの子として兄弟ヤコブとともにイエスが公生涯をはじめられて間もなく、イエスに従い、イエスの数々の奇跡や権威ある言葉と教えを直接見聞し、イエスが高い山に登られ、そこで栄光の御姿に変わられモーセとエリヤと話されているのを目撃し、神が約束された栄光の王座に座られる救い主であることを信じ、十字架に架かられるためにイエスがエルサレムにのぼられるときに自分の母親さえ巻き込んで弟子たちのなかで誰が一番偉いかということを議論し合い、イエスが十字架に架かられたとき、イエスからイエスの母を託され、その後もイエスの復活と昇天を目の当たりにし、約束の聖霊が人々に降ったときにも現場に居合わせ、イエスがイスラエルの民に約束されたキリスト(メシア)であり、イエスの十字架の業が人類の神にたいする背きの罪にたいする贖いであったことを伝え、イエスがやがて再臨されることを直接聞いてそれを待ち望みました。

ヨハネはヨハネ福音書と三つの手紙を正典に記しています。

福音が当時の世界中に伝わり、クリスチャンたちが増えるに連れて、当時の世界帝国ローマは、ローマにまで拡がったイエス・キリストを信じるクリスチャンへの迫害の手を強め、皇帝ネロのとき激しい弾圧が加えられ、伝説ではこの頃使徒ペテロも使徒パウロも殉教しています。(紀元57-66年頃)

ローマ帝国は、民族の伝統と独自性を主張するイスラエルに対して、完全な従属を要求し、ネロ帝の将軍ヴェスパスチアヌス(後に皇帝となる)とその息子ティトスのときにイスラエルの民の抵抗拠点であったエルサレムの神殿と城壁が滅ぼされます。(紀元七十年)

このようなクリスチャンに対する迫害と弾圧のなかでヨハネ以外の使徒たちが殉教した後もヨハネは、現在のトルコ、当時の小アジア地方で福音の伝道を続け、クリスチャンの群れを励まし、クリスチャンたちの集まる拠点として七つの地域の教会を牧したとされています。

唯一の生き残りの使徒ヨハネは、ローマ皇帝となったティトスの後を継いだドミシャン帝(紀元九十六年)によって加えられたクリスチャンへの迫害と弾圧の時、エーゲ海の孤島パトモスに島流しにされ、ヨハネはこの孤島に島流しになった時、これからすぐにも起こる、神がキリストにお与えになったことを御使いをとおして示されました。ヨハネはドミシャン帝の死後生還し、(紀元96-99年頃)この黙示録を記したとされています。 

黙示という言葉は、ギリシャ語アポカリプシスという言葉の訳ですが、隠されている事柄を知らせる、啓示するということであり、幕で覆われているものを剥ぎ取る、取り払う、という意味です。

黙示録は、隠されているものを取り払って、イエス・キリストの本来の栄光に満ちた姿を示し、神の遠大なご計画と素晴らしさを示すために記されています。

創造主にして永遠に変わらない絶対で唯一の神は、ご自身がどのようなお方なのかを知らせるために、人類の歴史をとおしてアブラハムを選ばれ、その子孫のイスラエルの民をとおしていろいろな方法で預言者たちによって語られ、時が至って神の御子であるイエス・キリストによって創造の神がどのような方なのかを示されました。

神の忠実な証しであるイエス・キリストによって、キリストが御使いをとおしてヨハネに伝えられたことすべてを記録したものがこの黙示録であると冒頭で述べられています。

そして、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」と述べられているように、この黙示録を読み、聞いて、そこに書かれていることに心を留める人々には特別な祝福が約束されています。

この黙示録に述べられていることは、時を超えた永遠の方がヨハネに啓示された人類が知るべき将来起こる預言であり、これを心に留める人々には特別な祝福が約束されています。

神の御子キリストがこの世に来られ、創造の神に背を向け、罪に陥り滅びに向かう人々の罪を十字架の上で贖われ、死んで葬られ、復活されヨハネを含む使徒たちや多くの弟子たちに現れ、天の御座に昇られ多くの人々のとりなしをされている恵みと救いのときに生きる人々にとって、神がご計画されている神の国が実現するときに起ることが、すぐにも起るべきことだ、とヨハネは述べています。

黙示録 1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
黙示録 1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
黙示録 1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

ヨハネは、黙示録を記した当時、ローマ帝国が小アジアと呼んでいた現在のトルコの地で長老として教会を牧しましたが、その当時、アジアにある七つの教会以外にもすでにイエスをキリストと信じる集まり、教会が存在していました。例えば、コロサイ、ガラテヤなどの教会が当時小アジア。と呼ばれる地方に存在していましたし、その他の地域でもローマ、コリント、ピリピ、アンテオケ、テサロニケ、アレクサンドリア、などにも多くのキリストの福音を信じる人々の集まりが存在し、黙示録に述べられている七つの教会がこれらの教会に比べて特に重要であった訳ではありませんでした。それでは何故ヨハネは「アジアにある七つの教会へ」とここで特定しているのでしょうか。勿論、黙示録に挙げられているアジアにある七つの教会がヨハネの直接牧していた教会であった、ということがその大きな理由であったでしょう。しかし、ヨハネは何故ことさらに七つの教会へ、と強調したのでしょう。聖書は預言に関して七という数字をしばしば用いていますが、七という数字は特別な意味を持っていることに気付かされます。ダニエルの述べたイスラエルの民とエルサレムの都に関するメシア預言も七〇週が預言の完成を示す周期として言及されています。(”神の訪れの日"のメッセージ参照
このように、七という数字は全体とか完成とかを示す数字として使われています。これは、わたしたちの周りにある様々な事象についても見ることができます。
例えば、一週間は七日ですし、音階は七つの音の組み合わせから成っています。虹の色も七色です。七つの教会は、直接的にはヨハネが当時牧した小アジア(現在のトルコ)の七つの教会であり、地域的にもこれらの地を結び合わせると、七つの周期の形をしています。

七つのこれらの教会は、実際にヨハネが長老として牧した教会というだけでなく、全体、完成を表しているという意味ですべての時代、すべてキリストの福音の対象となる地域の人々に宛てた手紙だということもできます。つまり、この黙示録はすべての人々に宛てたメッセージだということがわかります。黙示録のなかでも七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢というように、神の裁きの完全性とその全体の様子が描かれています。

永遠に生きておられる唯一の神は、この世界とその中にある万物とを造られ人を神ご自身に似せて、愛を与え、愛を受け取るときに、心が溢れ、喜びで満たされる存在として、さらに、自分で自分の方向を決め自由な意志で選択できることができる存在として、はじめに、人を穢れの無い聖なるものとして、人が神との交わりのなかに生きることができるように人を創造されました。

この創造主である神は、父と子と聖霊という三つの人格をもった一つの神としてご自身をわたしたち人類に示され、表わされています。

ヨハネは、このメッセージが常にいまし、昔いまし、後に来られるかた、その御座の前におられる七つの御霊から、また忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者、わたしたちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、わたしたちを王国とし、祭司として下さった方からのものだ、と述べています。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。

この世に来られたイエスは、わたしたちが目でみることの出来ない創造の神の証しであり、わたしたちを愛し、すべての人の罪の代価を十字架の上で流された血によって完全に支払い、わたしたちを罪から解放し、死んで三日後に、死者のなかから最初によみがえり、天の御座に昇り、イエス・キリストの贖いを信じる人々の心に聖霊で証印を押してくださり、遍在される聖霊のはたらきによって人々に神が御子イエスによってわたしたちに永遠のいのちを与えられたことの確証を与え、聖霊が持っておられる七つの御性質、すなわち、知恵、知識、悟り、深慮、才能、主、主を恐れる霊によって人々を導いておられます。
そして来るべき神の国においてわたしたちをキリストと共に治め、人々にたいする祭司としてキリストを代表する者としてくださったのです。  

ヨハネは自分が若い頃、イエスの弟子として従い、自分が直接聞き、目で見、よく見て手で触れ合うことの出来た方が、永遠の創造の神、栄光の神だということを実感したヨハネは、キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。という感嘆の声を禁じ得ませんでした。

黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
黙示録 1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

キリストは再臨されるとき雲に乗って来られます。この雲が文字どおりの雲だという見方もできますが、ヘブル人への手紙にイエスをキリストと信じる信仰によって義とされ、天に上げられた多くのキリストの証人が雲のようだと述べられているように、聖徒たちのことを指していると考えられます。
キリストは復活された後で多くの弟子たちの前にあらわれ、彼らが一緒に集まっているとき、彼らの目の前で天に上げられ、雲に迎えられて天に昇られました。このとき、彼らが天を仰いで立っていると、白い衣を着たふたりの人が「ガリラヤの人、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。と、宣言しています。

イエス・キリストの再臨は、世界中のすべての人々が知ることの出来る出来事です。

キリストの再臨は、カルト、エホバの証人の人たちが、「キリストが霊的な目の開かれた人たちだけに見える秘密の部屋に再臨され、そこから神の国を支配される。」と主張するような一部の人々の出来事ではありません。

キリストは、すべての目、ことにイエスを突き刺した者たちが見、キリストがこの世に来られるとき、イエスが十字架に架かられ、傷を受け、血を流されたということが自分たちのためであった、ということを知って地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆くのです。

ダビデの詠んだ詩篇22篇には、イエスが十字架に架かられる預言が、「まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。」(16節)と述べられています。

ゼカリヤは、再臨のキリストを見るとき、イエスがイスラエルの民、ユダヤ人たちが旧約聖書の時代から彼らの待ち望んだメシアであることを悟ることについて、「 わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ書12章10)と述べています。
さらに、ゼカリヤは、イスラエルの民が再臨のイエスに「『あなたの背中の傷は何か』と尋ねるならば、『これはわたしの友だちの家で受けた傷だ』と、彼は言うであろう」。(ゼカリヤ書13章6)と、そのときの預言をしています。

これらの預言は、直接的にはイスラエルの民、ユダヤ人たちに向けられ、すべてのイスラエルの民が再臨のイエスを見て自分たちが十字架に架けたイエスがイスラエルの民ばかりでなくすべての民を救われるために来られたメシアであることをはっきりと気付くのです。
しかし、イスラエルの民、ユダヤ人のすべてが再臨のイエスこそが旧約の時代、モーセに率いられて約束の地に建国したときから彼らの待ち望んだメシアだということを悟る前に、彼らはエレミアが預言したヤコブの苦難のときを経験することになります。

ここで再臨されるイエスが、創造者であり唯一の神、主なる永遠の方だということが再び強調されています。再臨のイエスはヨハネに「わたしはアルファであり、オメガである。」 と、宣言されています。

神は、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者です。御子は、見えない神のかたちであり、万物は御子にあって造られ、御子のために造られ天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

黙示録 1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
黙示録 1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
黙示録 1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

ここで、ヨハネは時間の制約を超えた神の壮大なご計画、霊的な体験、幻によって見せられた事柄をどのように示されたのかという背景を述べています。

「わたしヨハネは、あなたがたの兄弟ともにイエスにある苦難と忍耐のゆえにパトモスにいた。」と述べています。ヨハネはローマの軍団によってエルサレムの都が崩壊、焼失していった紀元70年頃に、ローマ帝国が小アジアと呼んでいた現在のトルコの地、最初使徒パウロが福音を伝えた後にエペソにエルサレムから移り、この地域のキリストを信じる人々の群れを牧していたとされています。

当時の世界で絶対的な権力を握った皇帝たちは、その後もクリスチャンに対する迫害の手を伸ばし、イエスに従った使徒や弟子たちは殉教してゆきました。紀元90年ローマ帝国の帝位についたドミシャンは、最後の生き残りの使徒ヨハネに迫害の手を伸ばし、当時絶海の孤島であったパトモスにヨハネを島流しにしました。

ヨハネは、イエスを信じる人々に向けてこの黙示録を記していますが、自分がそれらの人々と共に、イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。と、述べています。

イエスの生前、ヨハネは他の弟子ペテロ、ヤコブと共に高い山に登り、そのときイエスの顔が日のように輝き、衣が光のように白くなり、旧約聖書のモーセとエリヤが現れ、イエスが彼らと語られているのを目の当たりにするという時間を超えた栄光の変貌の体験をしました。
主の日に御霊に感じ、と述べていますが、この「主の日」というのは必ずしもキリストが復活された週のはじめの日、日曜日というよりもパトモス島に島流しにされているとき、時間の制約を超えた霊的な体験のなかで、幻によって神がご計画されているこの世に対する旧約聖書の預言者たちが述べている「主の日」を体験したのだと思われます。

ヨハネは、「後ろの方でラッパのような大きな声がする」のを聞きました。そして、その声は「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」と言いました。

黙示録 1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
黙示録 1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

ヨハネは、その声を見ようとして振り向くと、七つの金の燭台が目についたというのです。
ヨハネが振り向いたときに最初に目についたのは七つの金の燭台でした。

イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態から解放され、モーセを指導者として約束の地へ荒野を旅するときに、神は幕屋を造ることを示されました。幕屋は、イスラエルの民の荒野の旅路の中心に民を解放された奇跡の神が共におられることを象徴していましたが、幕屋を聖所として、聖所を照らすために細かい指示が与えられ、その指示に従った型によって純金の燭台が造られました。(出エジプト記25章31-39参照)
この燭台は、もともとイスラエルの民がこの世に対して神の栄光を証しし、光となることを象徴していました。この燭台はミノーラと呼ばれ、現在でもユダヤ人の会堂で使われ、わたしたちも見ることができます。

キリストの贖いによって解放された人々がキリストの光を証しすることを求められているように、イスラエルの民は、神によって解放され、神の栄光を世の人々に証しすることが求められていたのです。

イエスは、キリストを信じる人々に「あなたがたは、世の光です。」と、言われています。
そして、それらの燭台の真中に、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が歩むのが見えたというのです。

「人の子」という表現は、神が人として来られたことを示す表現で、ダニエル書に「 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル書7章13、14)と述べられているように、キリストがこの地上に神の国を建てられるときの預言として、メシアがこの世の王として来られることを表現する言葉として使われています。イエスは、最初にこの世に来られたときもご自分のことを「人の子」と、呼ばれています。

ヨハネは、七つの金の燭台のあいだを歩まれるイエス・キリストの姿を見たのでした。

イエスは復活され天に昇られ、イエス・キリストの御名によって集まる人々の群れと共に、今もなおすべての教会の時代をとおして七つの燭台のあいだを生きて歩まれています。

ヨハネはこのとき見た栄光の主イエス・キリストの姿を描いています。

黙示録 1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

前述のダニエル書に述べられている御国の王として裁き主として現れるメシアの姿には、「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。」(ダニエル書7勝9,10)と、この箇所のヨハネが見たイエスの姿と同じ表現がされています。

黙示録 1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
黙示録 1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

ヨハネの見た栄光のキリストは、もろもろの支配と、権威、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に完全に勝利される方の姿でした。

このときにヨハネが見たイエスは、罪を蔽う足までたれた衣を着、胸に金色に輝く真理と正義の帯を締め、滅びへと向かう人々を憐れみ、赦し、緋のような罪を羊の毛のように白くされ、赤く染まった背きの性質を雪のようにされる象徴として髪の毛は、白い羊毛のようであったというのです。
そして、すべてを見通し、判断し、各人の働きの真価をためす燃える炎のような目をされ、罪と穢れを公平に厳しく裁く炉で精錬され光輝く真鍮(しんちゅう)の足を持ち、右手ですべてのキリストを信じる教会を支えられ、霊に満ちた大水の轟きのような声で、心の思いを深く見分けられる鋭い両刃の剣のような言葉を語られ、圧倒的な強く照り輝く太陽のような顔をされていたというのです。

黙示録 1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
黙示録 1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ヨハネは、栄光のイエス・キリストをを見たとき、その足もとに倒れて死者のようになりました。

聖書には、個人的に栄光の神の姿に触れ、出会った人々の体験が記録されています。

ダニエルは、「 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。」(ダニエル書10章8)と、栄光の神に出会ったときの体験を述べています。

イザヤは、栄光の神から召命を受け、栄光の神の御姿に触れて「 そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」(イザヤ書6章5)と、言っています。

イエスの弟子のシモン・ペテロは、イエス・キリストの本当の御姿に触れたとき、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ福音書5章8)と告白しています。

使徒パウロも、サウロという名でダマスコへクリスチャンとなった人々を迫害するため向かう途中、栄光のイエスに出会いその場で倒れた体験をしています。(使徒書9章1-5)

栄光のキリストは、倒れて死者のようになったヨハネの上に右手を置いて、「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」と、言われています。

イエスこそが、死と黄泉との鍵を持たれる栄光の方であり、王として御座におられる方です。

黙示録 1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
黙示録 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

この箇所には、黙示録全体を理解するうえで鍵となる言葉が述べられています。

「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」と述べられているように、この黙示録には、栄光のキリストによって幻を示され、ヨハネの見たこと今あることこの後にあることが区分されて示されています

この黙示録の1章は、ヨハネの見たこと、栄光のキリスト、神の栄光の輝き、神の本質の姿、時を越えた永遠の方、死と黄泉に勝利された方、わたしを愛され、背きの罪の責めを流された血によって帳消しにされた方、かたよりみることのない公平な裁きをされる方、恵みを拒否し続け、逆らう者を裁き、再びこの世に来られ、国々の王として支配され、キリストを信じ待ち望むイスラエルと異邦人のあいだに光として共に歩まれるイエスの姿が描かれています。



 
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