生きることはキリスト、死の恐れからの解放

(ピリピ人への手紙1章21)


聖書には、「人間には一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが定まっている。」と宣言されています。
あなたにとって聖書のこの宣言は、反発と恐れをもって聞かなければならない宣言であり、定めでしょうか。

すべての人にとって死は避けられない現実であり、わたしたちは死にたいする自然な恐れの感情を持っています。
この自然な恐れの感情は、多くの場合、わたしたちが愛する人との別れを体験したくないという思いからきています。この世で人が互いに愛し合う関係を与えられ、愛する人との関係から引き裂かれることに打ち砕かれ、悲しみに襲われます。(私はよみがえり、いのちです 参照)

愛する人との関係から引き裂かれることにわたしたちは恐れを抱きます。しかし、わたしたちが死に対する恐れを抱くのはそれだけではありません。

誰にとっても「いのち」ほど大切なものはありません。人は最も大切に思うものを「いのち」ということばで表します。例えば、「わたしにとって、子供は、わたしのいのちです。」「わたしにとって仕事は、わたしのいのちです。」などと言う場合、その人にとって子供や仕事が最も大切だと思っている。ということになります。

従って、誰にとっても最も大切な自分の「いのち」を失うこと、肉体の死、からだの滅びが自分の「いのち」を失うことを意味しているように思われるために死に対する恐れとなるのです。

わたしたちが死を恐れるのは、肉体の死の後で待っている未来がどのようなものなのかについて知り得ないという不安、肉体の滅びの後で裁きを受けるということを直感的に知り、その裁きにたいする恐れが死にたいする恐れの原因となっています。

作り出した神ではなく、人創造された神は、人を神に似せて愛を与え、愛を受け取ることのできる存在、自分で自分の方向を決め、自分の意志で選択をすることのできる存在、もともと、道徳的に不義や罪を拒否し、聖なる存在、神との交わりをすることのできる存在として創造されました。

神は人を霊的な存在として創造され、人が神に似せて造られた性質をあらわすことができるように、人に肉体を与えられ、その霊的な性質をあらわす意志、または魂を与えられ、霊によって創造者である神との交わりを持つことのできる存在とされました。

人の存在の本質は霊であり、その人の魂であって肉体ではありません。

人は、霊と魂と肉体にあって一つのものとして創造されています。わたしたちにとって、問題なのは、霊と魂と肉体はそれぞれが密接に関連しあっているため、どこまでが霊、魂、肉の思いなのかが自分でも明確には識別できないことです。

わたしたちは、肉体をとおしてわたしたちの感情、魂の思いを表現していますが、時の経過やいろいろな事故、疾病、疾患によって肉体が衰え、人の魂、霊の思いを肉体をとおして表現することができなくなり、肉体は、はじめに意図され、デザインされた機能を果たすことが出来なくなくなると、人の本質である霊または魂はその人の肉体を離れます。

福音を聞いたことのない人々、福音を聞いてもそれが直接自分に向けられた創造者である神からの恵みであることを信じられない人々、すなわちイエス・キリストの十字架と復活が創造主である神から離れ、ないがしろにしている、というわたしたちの罪の贖いと創造主との交わりの回復のための恵みなのだということを信仰によって受け取ることが出来ない人々にとっては、死後に起こる裁きが肉体の死以上の恐ろしい漠然とした未来にたいする不安となって、それが死にたいする恐れの原因となっています。

しかし、イエス・キリストの十字架と復活が自分の神にたいする背きの罪、裁きの責めの贖いと栄光ある未来の神の国、永遠の新しいいのちとキリストの霊による父なる神との交わりの回復を信じる人々にとって肉体の死は決して恐ろしいことではありません。

使徒パウロがこのピリピの人々へ宛てた手紙でも述べているように、肉体の滅びはキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましいことなのです。

パウロはピリピの人々に宛てたこの手紙の箇所で、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」と述べたあとで、「しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。」と述べています。


わたしたちのからだは暴力的に他から損傷を加えられたり、遺伝子貯蔵の仕組み自体が汚染され、欠陥を持ち、わたしたち自身では制御不可能な先祖からの劣性変異によって受け継がれた遺伝子と不完全な代謝と再生によって、誰でも歳を経るにつれ加齢によって衰え、滅びます。

しかし、神が最初に土のちりから人を創造されたとき、人の魂もからだも完全であり、罪によってこの世が支配されるまでは、神はわたしたちの肉体も欠陥のない、素晴らしい機能を持つ完全な再生と代謝の機能を備え、遺伝子にも汚れや欠陥のない永続するものとして創られたに違いありません。
もともと人は創造されたとき、滅びるものとして創られたのではなく、永遠に生きるものとして創造されました。
何故なら、天地を創造され無から有を産み出される全能の神は不完全な創造はされなかったからです。

しかし、最初に創られた人は神の意志に従うか、神に敵対するものに従うかという選択に迫られたとき、神の警告に反抗し神に敵対する誘惑者の言葉を選びとった結果、人が創造の神に敵対する者に隷属する者となってしまったために、この罪によって、今、わたしたちの見る世界、わたしたちの知っている世は、はじめに神がすべてを創造され、神がすべてを良いとされる完全な状態からは程遠い状態となり、この世にあらゆる醜い悲惨な状況がもたらされ、人と被造物は死と滅びに至るものとなりました。
そのために人は「いのち」を失うことに非常な恐れを抱くのです。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ人への手紙5章12)


神は神のかたちに似せて創造された人の死と滅びの原因となった罪の問題を解決するために、御子イエス・キリストを人のかたちとしてこの世に送られ、人の罪の問題、すなわち、誘惑に出会い欲望に惹かれ束縛から逃れることができなくなり、破滅に至るという問題を十字架の上で帳消しにされ、人の罪のためにその裁きの責めをご自分の身に負って死なれ、復活されて栄光の御座に昇られ、わたしたちに新しい栄光の永遠のいのちを与えられました。

紀元前700年頃にイザヤによって預言された旧約聖書の「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」という預言は、歴史上イエス・キリストによって現実のものとなりました。

イエス・キリストがこの世に来られたのは、わたしたちの滅びの原因となった罪の問題を解決するために、罪のないキリストがわたしたちの罪のすべてのなだめの供え物として代わりに十字架の上で血を流され、贖いを完成されることだけでなく、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためでした。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル人への手紙2章14,15)

使徒パウロはコリントの人々へ宛てた手紙のなかでも「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(第一コリント人への手紙15章55-57) と述べて、キリストが死のとげである罪を取り除き、死の効力を虚しいものとされたと宣言しています。

わたしたちは、毒へびに咬まれるることを恐れます。それは、毒蛇は毒液を顎の近くの毒腺に貯蔵していて咬み付くことによって牙から毒液が獲物の血液に注入され、この毒によって身体中に毒が廻り、死に至るからからです。しかし、毒を抜かれた蛇は恐れる必要がありません。それは咬まれても、その牙に毒がないために致命傷とはならないからです。

これと同様に、イエスによってすでに死のとげ、死の毒は取り除かれているのです。

キリストの十字架と復活を信じる人々にとって肉体の滅びは致命的ではなく、むしろ栄光の新しいからだを与えられる期待に満ちた出来事なのです。 

神が人類に成して下さったこの栄光の永遠のいのちは、信じるすべての人々にとってすでに成就された事実です。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ人への手紙2章8,9)

イエスが弟子たちと共に最後の晩餐をされ、弟子たちの足を洗われてからこれから起こる十字架の予告をされたとき、弟子たちは心を騒がせ、イエスがどこへ行ってしまわれるのか不安に駆られました。 

このときイエスは、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」と言われて、イエスに従う人々のために場所を用意をする約束をされました。

イエスが約束されている父の家、新しくわたしたちに用意される場所は土からとられた肉体ではなく、キリストの復活の栄光のからだに似せて神が用意してくださる栄光の新しいからだです。

福音を信じるということは、キリストにあってすべての人が栄光の新しいからだにすべての人が生かされるという栄光の約束を確信することに他ありません。何故なら、キリストが眠っている者の初穂として、すでに死人のなかからよみがえられたからです。(第一コリント人への手紙15章12-22参照)


神はこの世に御子イエスを送られ、イエスの十字架の贖いによってイエスの救い、神の恵みを信じるすべての人々に永遠のいのちを与えられ、御子イエスが死の苦しみを味わわれ、復活され栄光とほまれと冠りを与えられ人の死の苦しみと恐れを取り除かれたばかりでなく、御子によって神が初めから御計画された栄光の神の国を完成され、万物を彼によって服従させてくださいました。

しかし、わたしたちは神が御子イエスによって成就してくださった永遠のいのち、栄光の神の国、イエス・キリストが神の国の王として万物を彼によって服従させられている事実を見ていません。

使徒パウロは、イエスをキリストと信じることは、キリストが罪を背負われて十字架の上で死なれたように、わたしたちの古い罪の性質もキリストとともに死に、復活されたキリストとともに、わたしたちも新しい栄光のイエスに似たものへと変えられて永遠のいのちに生き、主であるイエス・キリストによって服従させられた万物を治める者とされる約束を確信することだと宣言しています。

わたしたちにとって神の約束はあまりにも栄光に満ち、その約束が現実のものとなることは、人の思いや想像を超えた不可能なことのように思えます。
しかし、わたしたちが、神の約束を疑うことなく、また神が約束を成就することが出来ると信じるとき、主はわたしたちの信仰を見られ、これを義と認めてくださいます。

神は、その約束されたことをわたしたちがどんなに不可能と思えるときにも、わたしたちの思いや計画を超えて、神ご自身の計画を御子イエスによって実現してくださいます。

「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8,9)  

神は、神のことばを信じ、信仰によって強められ、栄光を神に帰したアブラハムをその信仰のゆえに義とされました。

アブラハムだけでなく、人の思いや方法を遥かに超えた神を信じ、神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、信仰によって強められ、栄光を神に帰すとき、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、神は義と認めてくださるのです。
 
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」 (ヘブル人への手紙11章1参照)

わたしたちは、信仰によって新しいいのちに生きていますが、滅びるべきわたしたちの肉体が新しい栄光のからだに変貌するときまで、わたしたちの内に住む肉の思いと、キリストの霊とのせめぎあいを続け、肉のうちに住む罪の性質に惹かれる性癖を完全に拭い去ることはできません。

しかし、わたしたちが自分自身には解決のないことを認め、肉の自分をキリストの十字架と共に死んだものと見做し、わたしを超えて自分ではできないことを可能にして下さる神の力に助けを求めるとき、わたしたちの思いや計画を超えた復活のキリストにある新しいいのちの霊にある体験をすることができます。まさに、わたしたちが生きるのはキリストと共に生きることなのです。


福音を信じた人々が栄光の主イエスに引き出され復活の栄光のからだに変貌される約束は変わりません。   
そして福音を受け入れた信仰者にとってキリストが治められる神の国の実現が間近いことを期待し、与えられた人生を「生きることはキリスト」として歩むことは本当の希望に満ちた人生です。

この世の滅びゆく状況のなかでどのような試練にあっても、キリストに似せて変貌させられキリスト・イエスにおいて、上に召して下さる神の賞与を得るという栄光の目標を与えられていることを証しし、わたしたちが肉体をもってこの世で生かされていることが「生きることはキリスト」ということの意味だということを、この手紙のなかで使徒パウロは宣言しています。   

使徒パウロは、福音を証しするために、この世で肉体をもって生かされていることと、肉体が滅びても主と共に永遠に生きるということについて、「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。」
そして、「 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 」(第二コリント人への手紙5章2-9)と、
肉体を持って福音を伝えることの大切さ「生きることはキリスト」であることを認めながら、肉体が滅びても自分の本質である霊と魂が主イエスに引き出されることについて、それが言葉に言い表すことのできない栄光に満ちたものであることを実際の自身の体験からも確信をもって語っています。

これはパウロが、伝道旅行の途中で人々から石打のリンチに遭って気絶し、死んだようになったとき
に、肉体から魂が引き上げられ、主のまぼろしと啓示とについて第三の天にまで引き上げられ、口に言
い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた自分の体験を第三者の体験のようにコリントの
人々に宛てた手紙のなかで語っていることからも明らかです。(第二コリント人への手紙12章1-5
参照)

わたしたちは、死を恐れる必要がなく、死の恐れから解放されているのです。
キリストは死のとげである罪を取り除かれ、死の効力を虚しいものとしてくださったからです。
そればかりでなく、わたしたちの肉体が滅びてもわたしたちの本質、霊と魂とは主イエスに引き出され
口に言い表わせない栄光が与えられ、やがて栄光のからだに変貌する保証が与えられています。

イエス・キリストによってこのような確実な保証を与えられているわたしたちは、パウロと共に「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ人への手紙1章21)という勝利と栄光に満ちた生き方を選ぶことができるのです。


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