私はよみがえり、いのちです

(ヨハネ福音書11章25-27)


人類が始まって以来、人は何故、誰でも死を経験しなければならないのか。人のいのちは、肉体の滅び、死によって終わるのだろうか。人にとって、死後の世界が存在するのだろうか。死後の世界が存在するとすれば、それはどのような世界なのだろうか。という尽きない人生の大きな疑問を心に突きつけられてきました。

聖書で最も古い時代に編纂されたとされるヨブ記のなかには、ヨブが自分の子供たち家族を悲劇的な事故によって失い、財産をも失ったばかりか足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で苦しみに突き落とされたとき、「 しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。(14章10) 人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。(14章14)死後の世界は存在するのだろうか。死んだ後はまったく別な世界なのだろうか。死がすべての終わりなのだろうか。死んだ後でもいのちは続くのだろうか。」という問いかけをしています。

ヨブは、疑問の問いかけのなかでも「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」(19章25,26)という心のうめきを吐露しています。しかし、ヨブは、死後の世界と復活について、確たる信仰の基盤を持っていた訳ではありませんでした。

ダビデは、
「地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。」 (詩篇22篇27-30)
と、墓に下りちりとなった人々も、すべての者、天上のもの、地上のもの地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、神が主であることを告白せざるを得ないときが来ることを述べています。

さらに、詩篇23篇でダビデは、「死の影の谷を歩くことがあっても、神がともにおられますから私はわざわいを恐れません。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」と述べ、

詩篇49篇では「神は私のたましいをよみの手から買い戻される。」と述べています。
 
ダニエルは、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。 」(ダニエル書12章2、3)と、死後の世界を経て、ある者は、そしりと永遠の忌みに、ある者は世々限りなく、星のようになり目をさますことを述べています。

イザヤは、「 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。」(イザヤ書26章19)と、死んだ後にも、それが終わりではないことが述べられています。

ホセアは、「 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」(ホセア書13章14)と、死が力を持つことのないときが来ることを述べています。

このように、旧約の時代にも、いのちと死後の世界、よみがえりについて述べられている箇所は幾つか見られます。しかし、多くの箇所は聖霊が働いてそれぞれの人々が記述をした結果であって、彼らのはっきりとした死後の世界の確信に基づいたものではありませんでした。

旧約聖書が正典として編纂され、新約聖書が正典として編纂されるまでの、紀元前430年頃から紀元100年の期間、特に紀元前4世紀頃から興ったギリシア哲学は、人の思索によって人生の意味や人の存在の意味、死後の世界と死後の存在について追及を試みました。
そのようなギリシア哲学は、人類の思索に様々な問題提起をしましたが結局は満足な結論をもたらすことはありませんでした。


イエスは、この世に来られ人々の病を癒し、盲人の目を開き、足の立たない者を立たせ、群衆の空腹を満たし、嵐の湖を静め、波立つ水の上を歩き、様々な奇跡をもってご自身が神の御子、キリストであることを示めされました。

イエスは、このヨハネ福音書の箇所で人生の意味や人の存在の意味、死後の世界と死後の存在についてはっきりとした宣言をされています。

イエスは、オリブ山からユダヤの荒野へ向かうエルサレムから3キロ程離れたベタニアの村に住むマリアとマルタの姉妹、ラザロの三兄弟を愛しておられ、度々彼らの家を訪れ、強い絆で結ばれていました。

ラザロが生死の境を彷徨う病にかかったために、マリアとマルタの姉妹はイエスのところに、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と、使いを送って言いました。

この報告を聞いても「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と言われ、イエスは、そのおられたヨルダン川流域の場所になお二日とどまられました。

イエスがベタニアのマルタ、マリア、ラザロの家に着いたときには、すでにラザロは死んで墓に葬られ、死後四日が経過し、マリアとマルタが悲しみのうちに喪に服し、友人、知人たちが集まってラザロの死を嘆き悲しんでいました。
イエスがやっとエリコから山を登って、彼らの家に来られたという知らせを受けて、マルタは、マリアを家に残し、数人の喪を嘆く人々と共に外に出て到着しようとしているイエスを見て走りより、多分失望と多少の憤りを含んだ語調で、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」と、言いました。
マルタがイエスに言ったのは、「主よ、ここへ来られるのに何故こんなにも時間がかかったのですか。わたしたちが一刻も速く救ってくださいとお願いした使いは届いているはずです。わたしたちが、主を最も必要としていたとき、どうしておいでくださらなかったのですか。」という意味が込められていました。

わたしたちも、自分の愛する人の死に直面するようなとき、しばしば、神である主が救ってくだされば、悲しみと悲惨から逃れることができるのに、何故、死という現実を容認されるのですか、という祈りをします。

イエスがマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」 と、言われときも、マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えています。

マルタは、終わりの日の神の裁きのときの復活を信じていました。
しかし、マルタの願っていたのは、終わりの日に神の前ですべての人が復活する終わりのよみがえりの時にラザロが復活するということではなく、彼の病が癒されることでした。

このマルタにイエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と、宣言されています。

イエスのこの宣言ほど根本的ではっきりとした宣言はありません。
イエスは、すべての復活のもとがイエスご自身だと宣言されています。
イエスはイエスご自身が復活そのものだ、と宣言されているのです。
言い換えれば復活といのちは、イエスによってもたらされ、よみがえりといのちの権威がイエスご自身だと言われているのです。
それは、イエスの権威が終わりのときにすべての人が復活させられるために不可欠であるばかりでなく、現在もイエスを抜きにして復活ということがあり得ないことを意味しています。

イエスは、ここで、いのちと死後の世界について非常にはっきりした宣言をされています。
わたしたちは誰でも終局的に、この宣言を全面的に受け入れるか、完全に拒否するか、という
二つに一つの選択を迫られています。


マルタはイエスのこの宣言に「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と答えています。

このあとでイエスは、ラザロが葬られている墓に来られ、墓の入り口の石を取りのけさせようとしました。
マルタが「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と言ったので、イエスは、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われ、墓の前に立って大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれました。

もし、ここで何も起こらなければ、イエスの宣言はまったく意味のない空しい欺きであったということになり、イエスが述べられた素晴らしい希望も偽りであったということになります。

人々は固唾を呑んでこの緊張の一瞬に起こる事態を見守ったことでしょう。

人々は、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来るまでイエスが叫ばれた言葉の意味を本当には呑み込むことができず、その現場に居合わせました。

墓から出てきたラザロの顔は布切れで包まれていたので、イエスは彼らに「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言われ、ご自身の宣言を証明されました。


わたしたちが、イエスの「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」という宣言に答えるとき、聖書をとおして死ということに二通りの意味があることを理解する必要があります。

聖書全体をとおして、息絶えてとか、息を引き取ったという表現によって死をあらわす箇所をみることが出来ます。
霊、意識が肉体から離れる状態になり、息を引き取るときを死と呼んでいます。

「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、
イサクは息が絶えて死んだ。
ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」(創世記25章8、35章18、29、49章33参照)

聖書が死と呼んでいるもう一つの意味は、人の霊、または意識が創造者である神から離れているとき、その人は霊的に死んだ状態であると述べています。

創造主である神への関心を全く持たず、この世の流れにしたがって、空中の権威を持つ支配者と今も不従順の子らの中に働いている霊に従って自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、考えにも意識のなかにも、創造の神、わたしたちに関心を持っておられる生きた神から離れている状態のとき、その人は霊的に死んだ状態だと聖書は述べています。 

「 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ人への手紙2章1-3)

イエスは、息を引き取り、霊、意識が肉体から離れる状態と、霊、または意識が創造者である神から離れた状態との二通りの状態について、死ということばを使われていますが、イエスを信じる者は、もし、肉体から霊が離れ死んでも、生きると宣言され、その人はイエスとともにいのちを持った者となると言われています。

そして、生きていてイエスを信じる者は、その人の霊が創造の神に結ばれ新しく生きるものとなると宣言されています。

イエスは、わたしたちが、この肉体を持って永遠に生きるとは言われていません。

「 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 」(第一ヨハネの手紙5章11,12)


聖書は死後の世界について説明するとき、人の存在の本質が肉体ではなく霊であることを一貫して主張しています。人の本質は霊であって、霊が宿る肉体を聖書は幕屋と呼んでいます。

わたしたちは、幕屋、一時的なテントに住んでいるのです。わたしたちの本質的な霊の思い、魂の思いは、一時的なテント、肉体をとおして表現されます。しかし、時の経過やいろいろな事故、疾病、疾患によって肉体が衰え、人の魂、霊の思いを肉体をとおして表現することができなくなり、肉体は、はじめに意図され、デザインされた機能を果たすことが出来なくなります。
そのとき、人の本質である霊、または魂はその人の肉体を離れます。そのとき、人の霊は宇宙のどこかを彷徨っているのではなく神の下さる建物に住むことになります。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

「 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(第二コリント人への手紙5章1)

わたしたちの肉体は精巧な機械以上に精密にデザインされ、それぞれの目的に従って適切に機能しています。

「 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」(詩篇139篇12-15)

人のからだ、肉体ほど複雑で精巧な機能を持った機械はこの世に存在しません。わたしたちは、創造主である神の不思議で素晴らしい、わざによって造られているのです。

しかし、神はそれらの肉体を維持するための欲求に従うことだけを目的として人の肉体をデザインされ創造されたのではありませんでした。

神は人が肉の思いではなく、霊の思いによって生きることを意図されて人を創造されました。

この神の意図は人が神のことばに背き、罪に支配される者となったときから、神の霊と人の霊の思いが絶たれた状態となってしまい、生物的な肉体の思いが人の魂を支配するようになりました。

人は肉体を維持するための生物的な自然の欲求を持っていますが、生物的な自然な欲求だけにわたしたちの魂、思いが支配される存在ではなく、本来、神の霊と人の霊の思いの一致によって霊に支配される存在でした。

この意味で人の存在の本質は霊であり、肉体は霊の思いを表現する存在の一部として創造されています。

もし、わたしたちが生物的な肉体の維持と、肉体の欲求だけに捉われて生涯を過ごすなら、わたしたちが創造された本来の意味を満たすことなく人生を送るということになります。
そのような生涯は、恐れと悩み、心配に満ちたものとなります。

使徒パウロは、生物的な肉体の維持と肉体の欲求だけに捉われた状態について「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ロマ書8章6)と、述べています。


イエスがよみがえりであり、いのちであることを信じる者は、決して死ぬことがなく、死んでも生きるのです。また、生きていてイエスを信じる者は、決して死ぬことがありません。

使徒パウロは、このことについて、

「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(第二コリントの手紙5章2-4)と述べ、 

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」(ロマ書8章22-24)
と、述べています。

時の経過とともに、複雑で精巧なデザインと機能を持つわたしたちの肉の身体は衰え、その活動に制限を感じるようになります。

わたしたちを創造された主である神は、人の手によらない、天にある永遠の住みかである新しい身体に移る準備をされています。

イエスを信じる信仰によって生きるとき、御霊は、わたしたちが肉体にいる間は、主から離れているということを知らされます。
わたしたちに与えられている希望は、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思うことのできる希望です。

神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっています。

イエスがよみがえりであり、いのちであることを信じて生きることは、卵から毛虫の幼虫へ、幼虫から蛹へ、蛹から蝶へと変貌を遂げるように、信仰に歩み栄光の変貌を遂げてゆくことを約束された素晴らしい永遠のいのちの歩みです。

しかし、イエスがよみがえりであり、いのちであることを信じないときに、聖書は死後の世界において裁きを受け、永遠の滅びにいたることを述べています。
イエス・キリストは復活の初穂として死人のうちからよみがえられました。恵みと救いのときにイエスの贖いを恵みとして受け入れた人々は、キリストが再臨され神の国を治められるとき生き返って第一の復活にあづかる者となります。そして、そのほかの死者は千年の終わるまでは生き返りません。
「 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(黙示録20章8)

生きていてイエスを信じる者は、決して死ぬことがありません。
霊、意識が肉体から離れる状態になり、息を引き取ることは、変貌をしてゆくひとつの過程でしかありません。



 
ヨハネ福音書のメッセージ


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