イエスはあなたにとって誰なのか

(ルカ福音書9章11)


イエスの評判は、ガリラヤ地方の至る所に広まり、群衆は押し迫るようにしてイエスのことばを聞こうと、常にイエスと弟子たちの周りに群れ集まってきました。

イエスはガリラヤ湖畔の村ベツサイダから湖を渡ってカペナウムの村へ戻り、様々な癒しの業をされた後群集から離れ、弟子たちを連れてイスラエル最北ヘルモン山の麓ピリポカイザリヤの地へ行かれました。
ピリポカイザリヤは、バニヤンとも呼ばれ、近くにはヨルダン川の源流が岩から湧き出し、2千年近く経った今も、当時の面影を残しています。

ルカの福音書には、他の福音書に描かれていないイエスの祈りの姿が記録されています。
人の子としてこの世に来られたイエスでさえ常に祈られたことを思うとき、わたしたちが人を創造された神に祈ることの重要さが、強調しすぎることのないほど重要であることがわかります。

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、イエスは彼らに言われて、「群衆はわたしを誰と言っているか」と尋ねられました。

弟子たちは、群集がイエスのことを、ヘロデによって首を切られ殺された洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、あるいは、旧約聖書の最後のマラキ書の預言に述べられている「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ書4章5)という預言の成就としてエリヤがこの世に来たのだと言っている、と答えました。

群集、そしてイエスに反対するパリサイ派やヘロデ党、律法学者やサドカイ派の人々たちもイエスの行われる素晴らしい業が通常の人間わざではなく、何人にもなし得ない、イエスが普通の人を超えた方であることを認めていました。

イエスが悪霊につかれた人々をいやし、口のきけない人々がものを言い、盲人が見えるようになったのを聞いたパリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言って、イエスがキリストだということを否定しながらもイエスのされる業が超自然な人知を超えた業であることを否定できませんでした。

イエスは弟子たちに群衆がイエスのことを誰だといっているか、と聞かれた後で、また彼らに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と、人の意見ではなく彼ら自身がイエスを誰だと思っているのかを、問いかけられました。
このイエスの問いかけにシモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。
イエスは、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われ、ペテロの告白は、ペテロ自身の肉の思いではなく神の霊による啓示だと宣言されました。


イエスが誰なのかということについて、今日では多くの人々が、歴史的な奇跡を起こされた超自然な方というよりも、イエスが偉大な教師、思想家、宗教家、あるいは、正しい義人という見方をしています。             

しかし、これらの見方は、天地とそのなかのすべてを創造された唯一の聖なる神を、創られた被造物である人間と同一のレベルに引き下げ、イエスを人の理性によって説明しようとすることになります。

従ってイエスがされた奇跡も人が説明できる範囲で理解しようとすることとなり、超自然な創造の生ける神の存在を否定し、イエスの神性、イエスが人を超えた超自然な方であることを否定することになります。

イエスが行われた数々の歴史的奇跡について、理性的な理解によって奇跡を説明しようとする人々は、超自然な創造の神の業を認めずに、イエスが普通の人以上に自然の物事に対する観察力、注意力に優れた人であったために、人々の出来ないことをなし得たのだという説明をします。

たとえば、夜通し漁をしても魚を捕ることのできなかった漁師に、ガリラヤ湖畔の崖の上から湖を見ていたイエスには魚影をよりはっきり見ることが出来たために、もう一度反対の方向へ網を投げるように言われたのだ、というように人の理性によって奇跡を説明し、そのような人々は超自然的な神の奇跡を認めません。

さらに、五千人の男たちと女や子供たちの多くの群衆が五つのパンと二匹の魚によって満腹になるまで満たされた奇跡についても、二千年前当時人々は袖の長い上っ張りを着ており、イエスに従っていた群衆はそれぞれパンや魚などを弁当のように持ち歩いていたが、小さな子供が袖のなかにあったパンと魚を分けようと弟子に提供するまでは、自分たちの袖の中にあったパンと魚を人前で食べることを躊躇していたのだというような屁理屈のような説明をします。

イエスが死んだヤイロの娘を生き返らせた奇跡についても、娘は実は昏睡状態に陥り、人々が死んだと思っていたのを、より鋭い観察力を持っていたイエスが娘がかすかに息づいているのを認め「タリタクミ(娘よ、起きなさい。)」と囁き、娘がこの囁きを聞いて起き上がったのだというように、あくまでも人の理解の範囲のなかで奇跡を説明しようとするのです。

イエスの神性、超自然な力を認めないでイエスのされた奇跡を、人の理性や観察し得る科学によって説明しようとすれば、イエスにたいする見方は、聖書の記述とは一貫性のない馬鹿げたものとなります。

イエスご自身が、神のひとり子であることを宣言され、「 わたしと父とは一つです。」(ヨハネ福音書10章30)と言われ、天地を創造された唯一の神とイエスはひとつであり、神を父と呼ばれ、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16)と言われ、イエスがこの世にこられたのは「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ福音書3章16)と、明言されています。

天と地とそのなかにあるすべてを創造された神とひとつの方、イエスだけが神をあらわされ、「 わたしと父とは一つです。」(ヨハネ福音書10章30)と言われています。
聖書はイエスを否定する者は、神を否定し、イエスを受け入れる者は神を受け入れる者だと宣言しています。

イエス が神に至る唯一の道であり、神が人類に差し伸べられている救いです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ福音書14章6)

もし、イエスが単に偉大な教師、思想家、宗教家、義人だというというのなら、イエスは義人でも教師でもあり得ません。なぜなら、イエスの宣言は、自分と唯一の神がひとつであり、イエスが真理であり、いのちであり、神のみもとに来る唯一の道はイエスであり、教え、思想、宗教によって神にくることはできない、イエスを信じること以外には父なる神に来ることができないという宣言だからです。

もしイエスと唯一の神がひとつの方ということが間違っていれば、イエスは自分自身がすべてを創造された全能の神に等しいと名乗り、人々を欺く誇大妄想のペテン師ということになります。

イエスは、教えや思想や宗教によって神に来ることはできない、と言われています。
イエスの宣言は人の教え、思想、宗教とは相容れません。

イエスが律法と預言を成就されたことが歴史的真実ではなく、奇跡がすべて恣意的な自分のために世人の目をひく偽りであるとすれば、イエスの奇跡は単にまやかしということになります。

神聖な神を冒涜し、偽り、欺きを公に宣言し、まやかしによって人目を惹く人のことばは道徳の基準などになり得ません。
そのような人をどうして偉大な教師、偉大な思想家と呼ぶことが出来るでしょう。

神が唯一の創造主であり、聖なる方であるとすれば、イエスが誰かということについて、イエスは、生ける神の御子キリストか、神を冒涜する稀代の偽りによって人々を欺くペテン師というどちらかひとつしかないということになります。 


キリストということばはギリシャ語の言語Χριστός khris-tos'の英語読みのことばです。
ギリシャ語の言語Χριστός khris-tos'ということばの本来の意味は、油注がれた者という意味です。このことばは、ヘブル語のמשׁיח maw-shee'-akh、(メシア)油注がれた者という意味のことばからの訳となっています。

メシアということばが油注がれた者という意味は、イスラエルが王国となってゆく時代、王が任命されるとき、油の壷から王となる者の頭に油が注がれたことに由来しています。
このように、油を頭に注がれる者、Χριστόςキュリオス、またはמשׁיחメシアは、神によって王とされ、民を治め、支配することを任命された者という意味をもっています。

メシアについて、ダビデの村ベツレヘムで乙女から誕生し、病める人々を癒し、捕らわれている人を解放し、盲人の目を開き、唖の口を開き、人々からさげすまれ、のけ者にされ、暴虐を行なわず、その口に欺きはなく、子ロバに乗ってエルサレムの城壁に凱旋され、銀貨三十枚でその友に裏切られ、偽証による裁判を受け、暴行を受け、罪人たちとともに十字架につけられ富む者の墓に葬られ、罪過のためのいけにえとなることが預言されていました。 

しかし、同時にメシアについて、メシアが来られるときは油注がれた王として神の国をこの世にもたらし、鉄の杖をもってこの世のすべてを支配し、義をもって治められ、人々は平和と安全のうちに栄光に満ちた喜びを享受することになることも預言されていました。


聖書に描かれているこれらのメシアの姿は、相反し矛盾しているように思われます。
一方では人々からさげすまれ、のけ者にされ、苦しみに会われ、他方ではすべてを支配され栄光に満ちてこの世を治められるメシアの姿が描かれているからです。
詩篇のなかにも、人々にさげすまれ、嘲られる姿と栄光に満ちた姿の相反する姿が同時に描かれています。

ペテロがイエスのことを、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したとき、明らかに彼はイエスが栄光のうちに力ある権威をもってこの世を治められる王、メシアとしてこの世に来られた姿を、イエスに思い描いていました。
弟子たちはイエスに従う弟子たちのなかで誰が一番偉いのかということを常に議論していました。
それは、彼らが、イエスが義と栄光のうちに権威をもってこの世を治められるとき、誰が最も側近くに仕えるのかということについて、お互いに自分こそがという思いがあったからでした。

ペテロが抱いていたイエスにたいするこのようなメシアの姿にたいして、このとき、イエスはこの世に来られた最初の使命をよりはっきりと告げられるために、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないことを告げられました。 
しかし、このイエスの宣言はペテロをはじめ弟子たちにとっては受け入れ難いものでした。

自分の思い、肉の思いによって神のご計画、神の意図を理解できなかったペテロをイエスはたしなめられ、イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえられることが神の意志であり、ご計画だということを明らかにされました。
そして、死からよみがえられた後で、人の子は父と聖なる御使いの栄光を帯びて来られる(ルカ福音書9章26)ことを告げられました。

預言されているメシアには二つの姿が描かれていますが、イエスが最初にこの世に来られたとき、メシアがわたしたちの罪の贖いをされ復活をされた後に、この世に再度来られることについては誰も理解していませんでした。
イエスが再びこの世に来られるときには栄光にのうちに義をもってこの世を治められることが完全に実現します。
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ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したとき、ペテロは栄光のうちに力ある権威をもってこの世を治められるキリストを思い描いていました。


イエスは彼らに、「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(ルカ福音書9章18)と言われ、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(ルカ福音書9章20)と尋ねられました。
この問いかけは、今日わたしたちにも問いかけられています。わたしたちにとって、イエスが誰なのかということに一人一人が答えを迫られています。

どうしてそのようなことが人生を歩み、生きる上で自分に関係があるのだろうという人がいるかもしれません。
しかし実際には、イエスがわたしたちにとって誰なのか、という疑問に答えることは、わたしたちの生死を分ける問題です。

聖書は、「 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ福音書3章36)と宣言しています。

ここで言及されているいのちは、勿論、霊のいのちについてですが、聖書は新しい霊のいのちについて、新しく生まれなければ神の国を見ることがないと宣言しています。

わたしたちは、みな自然の誕生をし、新しい霊のいのちの誕生をしなければ、神の国を継ぐことはできません。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ福音書4章24)

人々は、生ける創造者である神を否定し、神の救いの御手を受け入れないものが神の国を継ぐことがないという宣言を嫌います。

「イエスが道であり、真理であり、いのちです、イエスを通してでなければ、だれひとり神の国にはいることができない。」「新しい霊のいのちの誕生をしなければ神の国を継ぐことができない。」ということを嘲笑し、冷やかし、永遠のいのちとか滅びが存在することさえ生まれながらの肉の思いによってイエスを見る人々は否定しようとします。
しかし、人々がどのように嘲笑し、拒否しても聖書の述べている真実は微塵も変わりません。

ある人々は、愛の神が人を地獄に送ることなど信じられないと言います。
愛の神は人を地獄に送るようなことはなさいません。人は熟慮の結果、自分の故意な選択によって自分から地獄への道を選びとるのです。

神はあらゆる手を尽くしてわたしたちが地獄への道を選び取ることを阻止されています。
神は人を神ご自身に似せて創られ、人が自分の方向を決める選択の意志を取り去ることはされません。本当の愛の関係はお互いの自由意志による選択がなければ築けないからです。

神は、人が神と本当の愛の関係を持つことを望んでおられます。
わたしたちが地獄への道を選ぶためには、十字架のイエスを足蹴にするような決意が必要です。
それゆえ、聖書には「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル人への手紙10章29)という警告がされています。

恵みの御霊によって、わたしたちも神がわたしたち一人一人を愛されていることを知り、神が御子イエスによって栄光の創造主である神との交わりを回復し、神の国に属するものとしてくださったことが神の救いの御手だということを知ることができます。

わたしたちは、自分の力や努力によって神の国に属するものとなるのではありません。
神はわたしたちのために御子をこの世に送られ、御子の十字架によってわたしたちが栄光の創造主である神から離れ、肉の思いによって犯す罪を一方的に帳消しにし、栄光の神の御国に属する ものとしてくださいました。
このことを信じ、神の救いの御手を受け取るか拒否するかは、わたしたち一人一人の選び取りにかかっています。

ペテロがイエスこそ「神のキリストです。」と、告白した8日後(マタイ福音書、マルコ福音書では6日後)イエスは弟子のペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて共に高い山に登り、そこで御国の栄光に満ちた姿に変貌されました。
イエスの御顔は太陽のように輝き、御衣が光のように白く輝くき、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っていました。

このとき、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がしました。
この雲の中からの声は、イエスが神の唯一の御子キリストであり、イエスが唯一の救いであることを宣言しました。
この声は、神の栄光が御子イエスによって完全に終局的に啓示され、イエスのみがわたしたちの聞かなければならない方だということを示しています。 

イエスは律法を代表するモーセと預言を代表するエリヤとともに現れました。
律法も預言もわたしたちを救うことはできず、御子の十字架の贖いによってのみ、わたしたちの救いが可能となるのです。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル人への手紙1章1-3) 

神はわたしたちがひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。 (第二ペテロの手紙3章9参照)

神はひとりでも多くの人が滅びへの道を辿ることのないために御子であるメシアをこの世に送られました。
イエスは、預言されたとおり、人々からさげすまれ、のけ者にされ、苦しみに会われ、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、十字架の刑によって殺され、三日の後によみがえられました。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント人への手紙5章21) 

イエスは再び来られ、そのときには栄光の神の国の王としてこの世を支配され治められます。
わたしたちがイエスを神の御子キリスト、メシアであることを信じ、イエスを人生の主として歩むという選び取りをする瞬間から、わたしたちは神の国に属するものへと変えられます。



 
ルカ福音書のメッセージ


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