人を漁る

(ルカ福音書5章1-11)


ルカの福音書には、他の福音書に描かれていないペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスの弟子となった詳細がこの箇所に描かれています。
イエスの評判は、ガリラヤ地方の至る所に広まり、イエスの行くところには御ことばを聞こうとして大ぜいの人の群れがみもとに群がり集まって来ました。

群衆がイエスに押し迫るようにしてイエスのことばを聞こうとしていたとき、イエスはゲネサレ湖とも呼ばれていたガリラヤ湖の岸べに立っておられました。
湖の岸べにはガリラヤ湖で夜通し漁をしていた漁師たちが、明け方に漁から戻り、舟から降りて網を洗っていました。

現在もイスラエル北部、ガリラヤ湖畔には漁を生業とする漁師たちが漁をする姿を岸辺からみる ことができます。
彼らは湖で二千年前と変わらない漁方で網をおろしています。
ガリラヤ湖の漁師が使う網は、舟や岸辺の浅瀬からひろげた網を水面近くを泳ぐ魚の群れにむかって輪のように投げ、投げられた網が水面を打ったあとでパラシュートのように網を留め口ですぼめ、網のなかの魚を捕るという、投げ網漁方という熟練を要するものでした。

通常、魚の群れは夜間に湖面近くを泳ぐために、収穫を期待する漁師たちは、魚が活動し大漁が期待できる真夜中に漁に出て、陽が昇ると魚の群れが網の届きにくい水面から深いところを泳ぐため、明け方には漁を終えるのが通例であったようです。
ベテランの漁師であったシモン・ペテロは、その仲間のヤコブ、ヨハネと共に大漁を期待して、真夜中から明け方まで夜通し湖で舟を漕ぎまわりながら魚の群れを求め網をおろしました。
しかし、その夜は一向網に魚がかからず一晩の労働は徒労に終わりました。

彼らが明け方になって岸辺に戻り、舟から降りて網を洗っていると、群衆が岸辺に向かってイエスに触れようと押し寄せて来ました。

イエスは、押し寄せる群衆から離れ、岸辺に戻った二そうある舟のうちの一つの、シモン・ペテロの舟にのり、陸から少し漕ぎ出し、すわって舟から群衆を教えられ、生ける神について群衆に語りはじめました。

湖は丘陵に囲まれ、岸辺から少し漕ぎ出して群集に語りかけることで、ちょうど自然の劇場のなかで観衆に語りかけるように群衆はイエスの御ことばに聞き入ることができました。  

傍でこれを興味深く聞いていたシモン・ペテロは疑いなく彼の語られる希望のことば、その意味、人を愛され救いたいと願われるすべてを創造された神の慰めのことば、イエスが語られた教えを聞いた群衆がそのことばの真実に魅了される様子に深い感銘を受けたに違いありません。

そして、イエスは舟から群衆を教えられ話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。  

このときペテロは、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と、敬意を表しながら辻褄を合わせて、イエスの言われたことばに半信半疑で応答をしました。

このペテロの応答は、「先生、神についてあなたが話された教えに感銘を受けました。あなたは疑いなく素晴らしい教師です。でも、あなたは漁師ではありません。神についてあなたは知っておられ、素晴らしい教えをされています。しかし、魚を捕ることについては自分の生業で、わたしもよく知っています。
本日はあきらかに漁に適したときではありません。わたしたち漁師仲間は一晩中穴場を探し網をおろしましたが一匹の魚も捕ることができませんでした。わたしたち漁師は魚の習性を知っています。今日は漁をする日ではありません。
でも、あなたのおことばですから、網をおろしてみましょう。」という思いであったに違いありません。

このときペテロは、一晩中網をおろしても魚を捕ることのできなかった自分の能力不足を認めながら、内心、家に早く帰って明日の鋭気を養いたいという思いを抑え、イエスに敬意を表してそのことばに合わせました。
 
わたしたちも自分が得意と思っている事柄に取り組んで、何一つ思ったような成果が上がらず、すべてがうまくいかないと思うような日を過ごすことがあります。 
一日中努力したことが徒労に終わり、その日を振り返って今日は一体何をしていたのだろう、その日の努力がまったく無駄であったと思えることがあります。そのようなとき、なんともいえない挫折感に襲われ、最初からその事柄に取り組むより一日寝ていればよかったとさえ思います。

多分シモン・ペテロも夜通し働いて魚一匹捕れず、そのような感情に襲われていたに違いありません。そのようななかで、魚を漁したことなど生涯なさそうな、網の投げ方や魚の集まる穴場など知ることもない漁師の経験のない教師が、網を投げる場所まで指定したうえに、もう一度網を投げて見なさいと言うのです。

ペテロは、イエスの言われることに若干抵抗を感じながら、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と答えてイエスに従いました。

ペテロは、自分の感情や思いからは賢明と思えない、自分の思いでは無意味と思う、自分の知識、経験ではなく、「でも、おことばどおり、」と、イエスのことばを盲目的に信じ従いました。

ペテロはイエスのことばに従って行動することが、自分の思いや判断とは相反するものであったにも拘わらず、イエスが直接ペテロに言われたことばに合わせて深みに漕ぎ出し、魚をとるために網をおろしました。


ペテロがイエスのことばに従って行った結果は、彼ら漁師たちの想像を遥かに超えたものでした。
網にはおびただしい魚の群れがはいり、網が破れそうになりました。
網が破れそうになったため、別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼み、彼らがやって来て、魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうの舟とも沈みそうになるほどの大漁となりました。

勿論ペテロは漁師にとって夢のようなこの大漁に興奮したことでしょう。
ペテロだけでなく、ペテロの漁師仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも漁師生活のなかで、いままでにこれほどの大漁を経験したことがありませんでした。
このとき、ペテロは、イエスがただ素晴らしい教えをする教師ではなく、ただものではないことに気付きました。

ペテロはきっとこの瞬間、最初に圧倒的な光に照らされ、イエスの本当の姿を垣間見たのだと思います。
ペテロの見た光は、後にピリポカイザリヤでイエスが「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と尋ね、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 と答えた六日後に、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られ変貌されたときに完全な姿をとって彼らに現れることになります。

ペテロは、イエスのことばに従い、想像を超えた結果がもたらされたのを目の当たりにしたとき、イエスが只者ではなく、この世に来られた真の光の姿を見ました。

イエスがメシアであるという啓示は、ペテロがイエスを見た最初のときから神によってペテロの心に与えられましたが、自分の思いや経験を超えてイエスのことばに従ったことによって目の前に現実となった奇跡を見、イエスがまことにメシアである啓示をはっきり見ることになりました。

そして、これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。
興味深いことに、イエスの本当の姿、真実の光を少しでも垣間見た人々は、ペテロと同様の反応をしています。

人は、イエスの本当の姿、真実の光に照らされなければ自分自身の本当の姿をも見ることができません。
人は誇りや他の人々との比較によって自分自身を欺き、自分の本当の姿を見失っています。

わたしたちは、栄光の神の御前で自分を誇ることのできるものなど何一つありません。

「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。 」(ガラテヤ書6章3、4 参照)
神を見、神の光に自分自身の本当の姿を照らされた人々は、神の栄光の御前で自分自身の暗さ、醜さ、矮小さ、汚れ、罪深さに気付かされるという体験をしています。

聖書をとおしてそのような体験をした人々がいくつもの箇所に記述されています。(ヨブ記42章5-6、ダニエル書10章8、使徒書9章1-5、ヨハネ黙示録1章17-18 参照)                     
イザヤ書にはイスラエル南ユダ王国の祭司イザヤが、ウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた天の御座に圧倒的な栄光の主が座っておられるのを見、この栄光の主、神に触れられたときに神の御前でいかに自分が汚れ、汚れた民とともに住んでいる存在であることに気付かされました。

イザヤも「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」ということばを発しています。(メッセージ“ああ。わたしは、もうだめだ。”参照 8-28,’11)              

神を見、神の光に照らされた人々は自分の罪深さを知り、神の慈しみと恵みを心から求めることになります。

わたしたちの問題は、わたしたちの光によってお互いを見ていることにあります。
他の人の光、他の人や人の持っている基準によって自分を見るときには、自分自身はそれほど醜くはなく、自分がそれほど罪深いものだということに気づきません。

薄暗い照明のなかで自分の姿を鏡に映し出し満更でもないと思うことがあります。
殊に若し目が悪ければ、誰でも自分の取り柄になる部分だけをおぼろげに思い出して自分自身を納得させるのです。
しかし、光輝く白日のもとに自分の姿が映し出されると、自分で善いと思っていた部分の欠点や醜さが晒されます。

わたしたちがどのような光のもとで自分を見ているかによって自分自身の評価は変わってきます。もし、イエス・キリストの光に照らされて自分自身を見ると突然、あらゆる欠点、醜さ、汚れ、罪深さ、が白日のもとに晒されます。そして、人は、そのときに真実を見ます。

シモン・ペテロもイエスの光に照らされて自分を見、真実にはじめて気づきイエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。

イエスは、光に来ようとしない人々について、悪の行いを続けているために光を憎み、行いや心の動機が明るみに出されることを恐れて光のほうに来ない、と言われています。

光のもとに来ようとしない人々は、暗闇のなかにとどまり、光に照らされて彼らの本当の姿に直面しようとしません。そして、残念ながら今もそのような多くの人々が存在します。


シモン・ペテロがイエスの光を見、真実にはじめて気づき自分の罪深さを認めた途端、イエスは、 罪を赦し、慈しみと恵みに満ちて、人を漁る(すなどる)ものとなるようにペテロの人生をより高みに引き上げられる招きをされました。

イエスはシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、そこで彼らは船を陸に引き上げ、すべてを捨てて、イエスに従いました。

神が、神の国のために人々を選ばれ、人を漁るものへと変えられるのを見るとき、わたしたちは主の恵みの豊かさに驚かされます。神は必ずしもこの世の洗練され教育の高い人々よりも漁師や、どこででも見つけることの出来る、むしろ人々が蔑むような人を招いて彼らが人を漁るものへと変えられる招きをされます。

使徒書の2章には、聖霊に満たされて使徒ペテロが、復活のイエスを大勢の群衆に証しし、この証しを聞いた三千人以上の人々が罪の悔い改めと聖霊を受けたことが記録されています。さらに、使徒書4章ではペテロとヨハネが民を教え、イエスの福音、死者の復活について聞いた人々が信じ、その数が男たちだけで五千人にもなったことが記録されています。

イエスの招きに答えてイエスにすべてを捨てて従ったペテロやヨハネが、イエスのことばどおり、魚ではなく人を漁るものへと変えられ、現代でもペテロやヨハネにあやかったおなじ名を多くの人々が付けています。

ガリラヤ湖畔には現代にいたるまで漁師として湖の魚を捕ることを生業(なりわい)として人生を過ごした多くの人々が存在しました。現在もイスラエルのガリラヤ湖畔を訪れると漁を生業とする漁師たちが漁をする姿を岸辺からみることができます。
ガリラヤ湖畔で明け方近くに網を投げる漁師の姿をみるとき、今日でも、美しい湖には、聖ペテロの魚と呼ばれる魚を食することができ、二千年前のペテロやヨハネも生涯のひと時をあのように漁をしていたのかという感慨に迫られます。

二千年の期間に何千という漁師たちが数え切れない数の魚を捕り、漁に明け暮れながら人生を送りました。彼らは漁で生計を立て、彼らの人生は特に歴史に名をとめることはありませんでした。

しかし、ガリラヤ湖で漁をし、生計を立て人生をおくっていた四人の漁師たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレは、イエスの招きに応じてイエスに従ったことで、人々の魂をイエスへと誘(いざな)う漁師として人々の心を捉え、歴史に名をとどめています。
彼らが現在でも使徒として人々の心を捉えるのは、彼らが特別であったということより、イエスの招きに応え、イエスのことばに従って人生をまっとうしたからでした。

イエスのことばに従ってもう一度湖の深みに漕ぎ出し、網をおろしたペテロは、網にかかったおびただしい魚の群れを見て、大漁がもたらされたのは自分の技量でも経験でもないことを知っていました。漁師としての成功は、イエスのことばに従った結果でした。


わたしたちも、自分だけの知識、経験、技量に頼って人生を送るとき、夜通し働いても捕ろうとする魚が自分の投げる網に一匹もかからず、自分の努力が徒労に終わることがあります。
しかし、イエスが直接わたしたちの人生のなかで語られることばを聞くとき、それがたとえ自分の思い、理解を超えることであっても、イエスの言われていることばに従って行う一歩を踏み出すことで、主はわたしたちの思いを遥かに超えた本当の成功をもたらしてくださいます。

イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネ、を弟子として招かれた詳細を知るとき、たとえイエスがわたしたちの人生のなかで直接言われていることばが自分の感情や思いからは賢明とは思えない、自分の知識、自分の経験による能力とは相反するように見えるときでもイエスに信頼し、イエスのことばを行うとき、主は、わたしたちのイエスにたいする信頼を遥かに超えた恵みによってわたしたちを祝福し、人生をより高みに引き上げる招きをされます。

わたしたちの人生はキリストの光によって、わたしたち自身の醜さや罪深さが照らされなければなりません。
わたしたちがキリストの光に照らされてイエスの足もとにひれ伏し、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と、罪の告白をするとき、イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われてわたしたちの罪を赦し、贖い、恵みのうちに招き、漁師たちを招いたように、どのような人をも資格を問わず招いてくださいます。
使徒パウロも、「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリント人への手紙1章27、28)と述べて、わたしたちが神のことばに聞き、神が直接語られることに信頼し、それを行うとき誰でもが神に招かれ本当の人生の成功を味わい、神ご自身の栄光が称えられることを証ししています。

イエスの招きに答えてすべてを捨てて従ったペテロやヤコブ、ヨハネにとって、もはや大漁になることよりもイエスに従うことが本当の人生の成功となりました。
わたしたちにとっても、すべてに増してイエスの直接言われることばに従い、人生をまっとうすることが本当の人生の成功なことは間違いありません。



 
ルカ福音書のメッセージ


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