イエスの宣教

(ルカ福音書4章16-22)


御霊の力に満ち溢れてガリラヤに帰られ、イエスの評判がその地方一帯にひろまった後でイエスはご自分の育ったナザレに行き、安息日に会堂にはいり、イザヤ書の「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(イザヤ書61章1参照)とこの箇所を読まれ、みなの目がイエスに注がれるなかで「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と宣言されました。このとき、人々はイエスをほめ、口から出てくる恵みのことばに驚きました。

イエスは、イザヤ書に書かれた預言「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。
まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。
彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」(イザヤ書61章1-11)という、
イザヤの預言の最初の部分を読まれ、この箇所、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げ知らせる。」という部分の預言がイエスのことばを聞くすべての人々に実現したことを宣言されました。


イエスは、イザヤ書の預言のすべては引用されませんでした。
この箇所は、最初にイエスがこの世に来られたことによって実現するイエスキリストの宣教と、イエスの宣教を受け取るすべての人々が受ける恵み、イエスキリストの恵みのときが如何に豊かなものであるかが示されています。

イエスがイザヤ書のメシア預言のすべてを引用せずに一部だけを引用されたのは、メシアが最初に来臨された目的をはっきりと知らせるためでした。
「神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」という部分、
神の復讐の日が告げられ、イスラエルの完全な回復と被造物の完全な贖いの完成することについては、再びメシアがこの世に来られるときであり、最初の来臨の目的が人類にたいして主の恵みの年を告げ知らせることであることを明確に分けて宣言されるためでした。

イザヤは、南ユダ王国がヒゼキア王の頃、北イスラエル王国を滅亡に至らせたアッシリア帝国の侵略を受け、国家存亡の危機にあった約紀元前700年頃、ユダ王国だけでなくイスラエル王国の民を含めたイスラエルの民がメシアによって救われ、回復される預言をしました。

イザヤがこの預言を述べたときには、誰もメシアが最初の来臨と再臨という二度この世に来られることについて理解している人は存在しませんでした。

イエスが、会堂でイザヤ書の預言の一部だけを引用したのは、メシアとしてこの世に一度来られるだけでなく二度目に再び来られるときに、この預言のすべてが成就することを示唆しています。そして、このとき、引用された預言の一部が、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々に向けられていることがわかります。


イエスがイザヤ書の預言の一部を読まれ、宣教の目的を述べておられる箇所を注意すると、洗礼者ヨハネの宣言した内容との明らかな違いを見ることができます。

洗礼者ヨハネは「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」というものでした。
このヨハネの宣言は悔い改めを迫る激しい内容ですが、それ自体、本当の意味で善い知らせ、福音とは言い難いものでした。

これにたいして、イエスの宣教の目的は、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」という文字通り善い知らせ、溢れるイエスの霊を受け取り、状況を超えた平安と喜び、愛に満ちた人生を送るものへと変えられる栄光に満ちた福音でした。

メシアであるイエスがこの世に来られたことでわたしたちに告げ知らされた恵みがどのようなものなのかが、この箇所に端的に示されています。


イエスは、「わたしの上に主の御霊がおられる。」といわれています。
イエスキリストのこの世での生涯のすべてに聖霊が豊かに注がれ、人としてこの世に来られたイエスは聖霊によってすべての業を行われました。
すべての創造者である神のわたしたちに対する御心をイエスによって知ることができ、生ける神があらわされていることをわたしたちは聖霊のはたらきによって知ります。

イエスは「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。」と続けておられます。
イエスとともにおられ、豊かに溢れるように注がれている主の霊によって、貧しい人々に状況を超えた平安と喜び、愛に満ちた人生、永遠の命が与えられることが伝えられました。

イザヤが預言し、イエスがこの箇所で述べられている“貧しい人々”というのは、どのような人々のことを意味しているのでしょうか。

“貧しい人々”と訳される貧しいという原語にはπτωχός pto-khos'という語が使われています。    
この単語の“貧しい”という意味は、相対的に貧しいということではなく、自分の努力や能力では糧を得ることのできない生きる術(すべ)のすべてを奪われ物乞いをして命を繋がなければならないほどの状態をいう貧しさを意味する単語です。
従って、この箇所で“貧しい人々”ということが、必ずしも物質的な意味で貧しい人々のことを言っているのではなく、霊的な貧しさについて言われていることがわかります。

イエスは、“貧しい人々”と言われたとき、物質的な貧困、貧民街で暮らす人々、預金も貯金もない人々のことについて言われたのではありません。
イエスはこの箇所で“貧しい人々”と言っている人々のことを他の箇所で“心の貧しい人”とも言われています。(マタイ福音書5章3参照)
心の貧しい人々とは、どのような人々なのでしょうか。心の貧しい人々は心の驕った人々ではありません。聖書全体をとおして神が心の驕ったものを嫌われることが述べられています。 

「 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」(詩篇10篇4)
「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」(箴言8章13)
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言18章8)
「そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者」(ロマ書1章30)
「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になる。」(第二テサロニケ人への手紙3章2)

心の貧しい人々というのは、必ずしも謙虚でおとなしい性質、善い性質をもっている人のことでもありません。心の貧しさはその人が生まれつき持っている性質ではありません。

イエスが言われているのは、神の国の人々のことであって、わたしたちの努力や能力、性質によって得られるものではありません。
心の驕るもの、自分が他に比べて善いと思い、それだけで神の国に入ることが出来ると思っている人々は、神の光に照らされて自分のうちにある醜さ、暗さ、罪深さを認めることがありません。わたしたちは自分の努力や能力によって自分自身を救うことはできませんが、心の驕る人々は救いを必要としていることに気付きません。

他の人々や世の中の光ではなく神の光によって照らされるとき、自分自身の本当の姿、栄光の神の御前で自分を誇ることのできるものなど何一つないことに気づき、神の救いを必要とする人々が、イエスの言われる“貧しい人々”です。

貧しい人々が、溢れるイエスの霊を受け取り、状況を超えた平安と喜び、愛に満ちた人生を送るものへと変えられることほど素晴らしい知らせはあり得ません。

さらに、イエスは、「主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と、述べられました。
 
メシアが最初にこの世にこられたのは、人の罪の代価を支払って贖われ、メシアを信じるすべての人が罪の縄目、サタンの束縛から解放され、救われるためでした。 

「盲人には目の開かれることを告げるために。」と、イエスは述べられています。
この世の惑わしによって、わたしたちの目が開かれずに福音の素晴らしさが人々には隠されています。
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つことのできる素晴らしさに気づかないのは、わたしたちの目が開かれずに光を見ることができないからです。

使徒パウロも、福音の宣教の目的が、「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒書26章18)と述べています。
 
イエスは、さらに「しいたげられている人々を自由にし、」と述べられています。

この世におけるすべての問題は、わたしたちが個人的にも社会全体としても、生ける神のご計画、目的に背き、自分の目的や欲求を優先し、自分の知識や知恵、人々の目に賞賛されることを追い求める人生を歩み、生ける神との関わりから離れ、滅びへの道を辿ることに起因しています。
この世で美しいと思うものや、人生の成功を追い求めしようとしても、それらに虚しさを覚え、むしろ自分の目標や追い求めていること自体が重荷となり、挫折を覚え魂の平安を得ることができない惨めな状態におかれている人々、この世が提供する肉の思い、欲求に捉われることから解放されたいと願う人々が真の解放を願い、生ける神との関わりから離れていることに気づき、キリストの光に照らされて、自分の醜さ、暗さ、罪を告白し、悔い改めるときイエスはわたしたちを真に自由なものへと変えてくださいます。
 
主が来られたのは、罪人を招くために来られ(マタイ福音書9章13)失われた人を捜して救うため、(ルカ福音書19章10)御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、羊がいのち を得、またそれを豊かに持つため、永遠のいのちを持つため、(ヨハネ福音書3章17、ヨハネ福音書10章10)律法と預言を成就するため、(マタイ福音書5章17)、イエスを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないために来られました。(ヨハネ福音書12章46)

このような素晴らしい恵みの年が、イエスが来られたことによって与えられています。

このような恵みの年が残されているあいだに、わたしたちは、キリストの光に照らされ自分が貧しいもの、救いようのない罪人であることに気づき、罪の告白と悔い改めによって素晴らしい福音を受け取ることができます。
もし、心を驕らせ救われる必要に目を開かれずに暗闇にとどまるならば、福音を受け入れることがありません。彼らには必ず神の報復の日が告げられ、永遠の滅びに至ることになります。
恵みの年に福音を受け永遠のいのちを持つものとされるか、福音を拒否し暗闇にとどまり、神の報復のときに永遠の滅びに至るかの選択がわたしたちひとりひとりに与えられています。



 
ルカ福音書のメッセージ


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