心が燃える

(ルカ福音書24章32)


イエスキリストの救いを信じる人々にとって、最も大切な記念すべき出来事は、キリストの降誕と十字架、そして復活です。

イエス・キリストがこの世に降誕されたとき、主の使いが野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに来て、主の栄光が回りを照らし、彼らに「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2章11)と告げた人類にとって歴史的なときを記念して、わたしたちは今でも毎年クリスマスを迎えるごとに、全世界でその日を祝います。それは、まさに

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネの福音書3章16-19)

という聖書の宣言が現実のものとなった歴史的な出来事でした。

この世に来られたイエス・キリストは、イスラエルの民がエジプトの隷属から解放され、死の使いが犠牲の子羊の血塗られた家を過ぎ越された日を祝う過ぎ越しの祭りの日に、罪による滅びから人類を救う神の子羊として十字架に架かられました。

イエス・キリストの十字架は、人々が罪の呪いから解放され永遠のいのちを得るために、神が用意された救いの方法でした。

「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。 」(イザヤ書53章12) 

「彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(イザヤ書53章9-11) 

そして、イエス・キリストの復活について、ルカは復活の日に二人の弟子がエマオへ向かった旅の途上起こった出来事を詳細に記録しています。 


イエスが十字架に架かられた日から三日目の朝、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く道々、イエスの十字架の出来事について互いに語り合っていました。

一人の弟子はクレオパという名であったと記され、もう一人の弟子の名は聖書に記されていません。クレオパについては、ルカの福音書のこの箇所以外にどこにも記されていないため、どのような人物であったのか一切わかりません。

しかし復活の日の朝、イエスが、十二弟子ではないこの二人の弟子に現れ、その日の大半を共に過ごされたことは注目すべきことです。 

イエスは、この二人の弟子と復活の日の大半を過ごされたように、イエスに希望を持ちイエスに従おうとする人々と共におられ、そのような人々が自分の理解できる限られた状況に捉われ、希望を失いそうになるときに特別な方法で励ましを与えてくださいます。

この二人の弟子は、数日前まではイエスがこの世に平和と喜びと愛に満ちた神の国を建てるために来られたメシアであることを信じ、期待に胸を膨らませ、心を燃やし、イエスに従う人々の群れのなかにいました。
しかし、彼らは十字架に架かったイエスを見、息を引き取られるイエスの様子を目の当たりにして、神の国の希望と期待が崩れ、無力感と喪失感で心の火が消され、失意のなかにありました。

このような二人の弟子がエルサレムの都からエマオへ向かう途上に、復活のイエスご自身が近づいて彼らと共に歩かれました。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、その人が復活のイエスだと言うことに気づきませんでした。

イエスが「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」と言われると、ふたりは暗い顔つきになって立ち止まり、そのひとりのクレオパという者が、「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」と答えました。  

人には不可能と思われる奇跡を起こされ、群衆が常につき従い、人々が救い主メシアと期待したイエスが、過ぎ越しの祭りの日にローマの十字架刑に架かり息を引き取ったという衝撃的なニュースは、当時の人々の誰でもが知っているはずの出来事でした。
しかし、この二人と共に歩かれたイエスは、あたかもご自分の十字架の出来事を知らないかのように「どんな事ですか。」と聞かれました。

わたしたちが、もう分かり切ったことだと思っていることについて、イエスはその事柄のなかに潜んでいるより深い神のご計画を、わたしたちが気付くことのできるようにしばしば質問を投げかけられます。
イエスが問いかける質問に答えようとするとき、それによってより深い本質についての理解を自分で深めることが出来ます。

この二人の弟子も、彼らが期待し、理解していたナザレのイエスについて、「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。」と、説明をしはじめました。

実際イエスのような人は現れたことがありませんでした。歴史のなかでイエスほど人類に影響を与え、インパクトを与えた人が現れたことはありません。

イエスによって、悪霊につかれた人々がいやされ、口のきけない人々がものを言い、盲人が見えるようになり、多くの人々が癒され、死人がよみがえり、ほんのわずかなパンと魚で群衆の空腹を満たされ、誰にも出来ない数々の奇跡を起こされました。
イエスに反対する祭司長、パリサイ人がイエスを捕らえようと役人を送ったときも、イエスを捕らえることが出来ず手ぶらで戻ってきた役人たちは、「なぜあの人を連れて来なかったのか。」と問われ、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」(ヨハネの福音書7章45,46)と、証言しています。
ナザレ人イエスのように、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある人は現れたことがありませんでした。

「それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になります。」(24章20,21)と、彼らは続け、

朝早く墓に行った女たちが、イエスのからだが見当たらないので戻って来たこと、
女たちが御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げたことも女たちの呟きだと思い、実際仲間の何人かが墓に行ってみたが、女たちの言ったとおり、イエスは見当たらなかったことを述べました。(24章22-24)


彼らは、墓に大きな石で封印をし、ローマの番兵が墓の番をしていたにも拘わらず、石が墓からわきにころがしてあり、墓が空になっていたという事実、女たちの「イエスは生きておられる」と告げた証言にも拘わらず、イエスが復活されたことを信じることが出来ませんでした。

この二人の弟子たちは、いかに自分たちがイエスをメシアであることを期待し、その期待が失望に変わったかについて述べ、すべてが終わってしまったことを縷々と述べました。

するとイエスは、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(24章25,26)と言われました。

旧約聖書全体がイエスのメシア預言のことばに満ちています。

この世に来られるメシアは、多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下し、人々はその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わず、平和の君としてダビデの座った王座に座し、鉄の杖をもってこの世を治め、そのときには嫉み、妬み、奢り高ぶり、争いなどの存在しない全くの平和のなかで、心の傷や悲しみを持つ者のない、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の世界が訪れるということが預言されています。(詩篇2篇7-9、イザヤ書9章7、イザヤ書11章4-7、詩篇22篇27-29、ミカ書4章3,4、イザヤ書2章2-4、ダニエル書7章13,14、ゼカリヤ書14章9、等 参照)

この二人は、イエスがメシアであることを信じ、エルサレムに入城されたイエスが、聖書が約束している神の国をすぐにでも建てられ、栄光に満ちた日がすぐに訪れるということを期待し、希望に満ちて胸を膨らませました。

しかし、メシアの預言はこの二人の弟子たちが期待したようには実現しませんでした。
彼らは自分たちのの理解できる部分的なメシア像を描いてイエスに従い、メシア預言の全体を理解していませんでした。

メシア預言には、栄光のメシア像だけでなく、メシアが苦難の僕として私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれ、彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされることも預言されています。

復活のイエスは、創世記からマラキ書の記述にいたるまで、すべて旧約聖書のことばがイエスご自身のことなのだということをエマオへの途上の道々この二人の弟子に説明されました。

イエスは聖書全体にしるされているとおり、神のみこころを行うためにこの世に来られました。

『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』(ヘブル書10章7)


主イエスがわたしたちに直接語りかけられ、聖霊がわたしたちの心を照らすとき、目隠しをして宝探しをしているような状態から、今まで見えなかった宝の山を目のあたりにするように、突然聖書のみことばの素晴らしさと栄光を体験することがあります。

復活のイエスがエマオに向かうこの二人の弟子に聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説明されたとき、彼らの心の目が開かれ、御ことばの素晴らしさに改めて気付き、心の火が燃える体験をしました。 

二人の弟子が復活のイエスと共にエマオの村に近づいたとき、イエスはまだ先に行きそうなご様子であったので、彼らが「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられました。
彼らとに食共に卓に着かれパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されたとき、彼らの目が開かれ、イエスだとわかり、するとイエスは、彼らには見えなくなりました。(ルカの福音書24章28-31)

二人の弟子は、復活のイエスから聖書全体に記されているご自身のことを直接聞きながら旅をする特別な体験をしました。
彼らが心を躍らせ、神ご自身の真実に触れて心を燃やし、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と、心情を吐露したのは無理からぬことでした。

復活のメシア、イエスに直接出会い、御言葉の深さに触れるときわたしたちの心は燃えます。
イエスは、わたしたちを希望に満たし、再び心を燃やしてくださいます。
もしわたしたちが、神のわたしたちに対して持っておられる全体の御計画、愛の深さを知ることが出来たなら、目の前の状況がどんなに理解を超えた不幸な状況のように思えるときでも、心の火を消す事無く神に信頼し、心を燃やし続けることができることを復活のイエスは示されています。

わたしたちが知っていることは、永遠の神のご計画、神の愛の素晴らしさのごく一部です。
わたしたちが、ごく一部だけの知識、理解できることだけに頼るとき、わたしたちの予期しない突然の理解を超えた事態のなかで、状況が一変してしまうように思えるとき、わたしたちは何故神は、神が愛ならば何故という思いに心が占められてしまいます。

わたしたちは永遠の神のご計画のなかで、人生に起こることについてしばしば誤った判断をします。しかし、聖書はわたしたちが先走って判断せず、イエスを主として信頼し、人生を歩むよう警告をしています。

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(第一コリント人への手紙4章5)

復活のイエスが、二人の弟子にエマオへの途上でモーセおよびすべての預言者から始めて聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説明されたように、わたしたちにも神の御ことばの全体を聖霊によって示してくださるとき、より神の計画の全体の素晴らしさに触れて心を燃やすことができます。

復活のイエスは、わたしたちにも、聖霊が共に人生の道のりを歩まれていることを意識し、神の愛をより深く味わい知って心の火を燃やし続けることを望んでおられます。



 
ルカの福音書のメッセージ


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