十字架のキリスト

(ルカ福音書23章33)


イエスはゴルゴダ(訳すと「どくろ」)と呼ばれている場所で二人の犯罪人に挟まれ十字架にかかられました。

イエス・キリストが十字架に架かられた様子についてはルカの福音書ばかりでなく、他のマタイ、マルコ、ヨハネの福音書にも詳細が記されています。

その様子について、イエスが十字架に架かられる約千年前にダビデも聖霊によって、十字架の上で神の救い、栄光の御子が言われることばを正確に預言しています。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」(詩篇22篇1-2)

人類に十字架刑のような残酷な極刑が考えられていなかったとき、十字架刑の正確な様子、手と足を釘で十字架に打ちつけ、彼は水のように注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、彼の心臓はろうのように胸のうちで溶け、彼の力は陶器の破片のようにかわき、舌はあごにつき、釘で十字架の木に打ち付けられた手と足が刺し貫かれ苦痛を余すところなく味わい死に至る、という人類が考えうる最も酷い見せしめの死刑の様子が正確に描かれています。

イザヤもイエスが十字架に架かる約七百年前に「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」と、イエスが祭司長、議会、ローマ総督の申し立てや尋問にも黙っていて、何もお答えにならなかった様子、イエスがローマの拷問刑、むちうち刑を受けられ、いばらの冠りを頭に被せられ、兵士の嘲りのなかで十字架の極刑に架かられ、「 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(イザヤ書50章6)と、その様子が克明に描かれ、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53章5)と、預言されています。

そして「 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。 」(イザヤ書53章12)と、罪のないイエスが罪人たちとともに数えられること、多くの人を義とするために、自分自身には暴虐がなく、口に欺きがなく罪のないイエスがいのちを罪過のためのいけにえとされたことの詳細を預言し、

「彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが、しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(イザヤ書53章9-11)と述べて、
多くの人を義とするために、自分自身には暴虐がなく、口に欺きがなく罪のないイエスがいのちを罪過のためのいけにえとされることを描いています。

全能ですべてを創造された神は、世界の基の置かれる前からわたしたちをキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ人への手紙1章4参照)

イエス・キリストの十字架、贖いは、神に似せて創造された人々が罪の呪い、束縛から救われ、永遠のいのちを持ち、想像を超えた素晴らしい喜び、平安、愛に満ちた世界が出現するために、父と御子と聖霊の一体にして唯一の神が創造のはじめから決めておられた方法と計画です。

このような、聖書が述べているキリストの十字架を、神の永遠のご計画のなかで、聖霊によって受け取り、その意味を知るとき、わたしたちは、より一層、神の愛の素晴らしさを深く噛みしめることができます。


神が最初から意図されたように、人々が永遠のいのちにあづかり、喜び、平安、愛に満ちた完全に贖われた世界は必ず出現します。
しかし、イエスが最初にこの世にこられたのは、人の罪の代価を支払って贖われ、メシアを信じるすべての人が罪の縄目、サタンの束縛から解放され、救われるためでした。

イエスは、ご自分が神の御子キリスト、メシアであることを弟子たちに肯定された直後、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められました。

1、神の一方的で自発的な行い                  

十字架に架かられるためにガリラヤからエルサレムに向かわれ、エルサレムに近いベタニアの村近くでイエスは弟子たちに「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」と言われ、イエスが十字架にかかられるのは、この世のどのような強制的な力にも依るのではなく、ご自身が自ら進んで架かられることを宣言されておられます。

イエス・キリストの十字架は、イスラエル議会や祭司長、律法学者たちが画策したために起こった出来事でもなく、ローマ帝国の圧力によって行われたことでもなく、最初から創造者である父なる神と御子イエス・キリストの完全に一致した意思によって定められたことであり、イエスご自身が自発的に十字架に架かられることを決めておられたことでした。

2、神の定めた計画と予知 

イエス・キリストの十字架は偶然に起こった出来事ではなく、永遠のはじめから、父と子と聖霊が決められた救いの方法でした。
このことについては、復活し昇天されたイエスを目撃し、聖霊が降るという体験をした弟子のペテロが、イエスを十字架に架けて殺すことを決めた祭司長、議会の人々の前で「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」と宣言し、イエスの十字架は、神の定めた計画と予知によることを証言しています。
さらに、ペテロとヨハネが、イエスの復活の奇跡が民衆に拡がることを恐れた祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちによって手をかけられ捕らえられた後に、仲間のところに戻ってきたとき、人々が、イエスの十字架が、神の御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことが行なわれたのだ、ということを認めています。(使徒書4章24-30参照)

3、神にたいする罪の犠牲、贖い、なだめの供えもの

創造の生ける神は完全で義であり、罪にたいする厳正な裁きをされる方です。
イエス・キリストの十字架は、神への背き、不義、罪に対する神の怒りを完全になだめる犠牲の供えとなるものでした。このことについて、聖書は、

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ロマ書3章23-26)

「 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブル書2章17)

「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」(第一ヨハネの手紙2章2)

「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネの手紙4章10)

と、述べてイエス・キリストの十字架が、神ご自身が用意された罪のためのなだめの供え物であり、神がイエスを信じる者を義と認めるために用意されたことを証ししています。

4、完全な身代わり

そして、イエス・キリストの十字架は、わたしたち人の罪のなだめとして完全なものであり、完全な身代わりとなるものであることを示しています。

イスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、神はそのご計画どおり、モーセを選びエジプトの王パロに民を解放することを要求しましたが、パロは頑なにこれを拒んだため、神は災害を起こされました。それにも拘わらず、生ける神を拒否し続け、神の民を虐げ、神の警告に心を頑なにするパロに最後の裁きの宣告がされました。
それは、「エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。」というものでした。
そのときに、下される裁き、災いから免れるために、犠牲の子羊の血が身代わりとして流されることで、民が守られるしるしとなりました。
そして、民が奴隷の状態から解放された後に、神はモーセをとおして民が生ける創造主である神に民が近づくためにの罪の身代わりとして、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のささげもの、罪過のささげもの、背きの罪のささげもの、(レビ記9章6-7節参照)など決められた罪の身代わりを捧げることによって天の御座を模した主なる神の御座に近づくことが出来ることが示されました。

イエスキリストの十字架は、イスラエルの民に示された身代わりの犠牲よりも完全な身代わりとして神の子羊であるイエスが、わたしたちとおなじ人としてこの世に来られ、罪のまったくない方が犠牲の血を流され、完全な身代わりとしてわたしたちの罪の責めを受けられたことを示しています。 

「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル書9章11-12)
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル書9章22)

イエスキリストの十字架は、神がモーセをとおしてイスラエルの民に示された罪の身代わりよりはるかに優る完全な身代わりの捧げものとなられたことを示しています。

雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』
すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。(ヘブル書10章4-9)
(注:ここで、後者と言われているのはイエスキリストの身代わりを意味し、前者と言われているのは旧約のレビ記で詳細を決められた身代わりを意味しています。)

5、神と人との和解

キリストの十字架は、神と人との関係を回復する、神の差し伸べられた和解のしるしです。 
罪にたいする神の怒り、裁きがキリストの十字架をとおして完全に行われることで、人が罪のな い状態へと回復され、創造主である神と人との関係が修復されることを意味しています。 

「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ人への手紙1章19、20)
 
「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」(コロサイ人への手紙1章22)

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(第二コリント人への手紙5章18-20)

6、すべての人の救い

キリストの十字架は、特定の民族、地域、文化、伝統、言語、歴史を超えてすべての人類が救いにあずかるための唯一の方法でした。

イエスは捕らえられ十字架に架かる直前、これから会われる試練を前にしてゲッセマネの園で
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカの福音書22章42) と言って汗が血のしずくのように地に落ちるほど切に祈られました。

イエスの祈りは、もし十字架の試練を受けることなく罪がぬぐわれ、人が救われることが可能ならば、この杯を取りのぞいてくだい、という祈りでした。
もし人が律法を守ることや、心を入れ替えて努力することで(御前で聖く、傷のない者とされることが可能なら)、キリストの十字架が必要でなくとも、人が救われることが可能なら、この杯を取りのけてください。という祈りでした。

イエスの汗が血のしずくのように地に落ちるほどの切なる祈りにも拘わらず、イエスは、捕らえられ、目隠しをされ、嘲られ、叩かれ、ローマ兵の鞭打ちの拷問と十字架刑によって死なれました。

ゲッセマネの園のイエスの祈りにも拘わらず、イエスが苦しみの杯を受けられたことは、すべての人がキリストの十字架によって救われ、人が救われるためにはキリストの十字架以外の方法がないことを意味しています。

神は、神の国に不義をけっして招くことはありません。神は完全に義なる方だからです。
わたしたちは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたこと、そしてこのいのちが御子のうちにあることを聖霊の証しによって知ることができます。

聖霊は、人としてこの世に来られ十字架に架かられ、復活され天に昇られたイエスのみが、神の義の基準に達する者なのだということを証しされています。
「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」(第一ヨハネ2章2) 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5章21)  

7、最も残酷で恥辱的な刑

キリストの十字架は、人類の歴史のなかでも個人が受ける刑罰としても最も恥辱に満ちた刑罰であることを示しています。
目隠しをされ、叩かれ、嘲笑され、背中の肉が引きちぎられるローマの鞭打ち刑にあい、茨の冠りを頭に被せられ、生身の手と足に20センチ以上の鉄釘で十字の木に裸で打ち付かれるという、これ以上考えられない屈辱的な方法で、イエスは十字架刑に架かられました。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ人への手紙2章6-8)


神は、世界の基の置かれる前からわたしたちをキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、神に似せて創造された人々が、キリストの十字架という方法によって人の罪の代価を支払い、贖いを達成し、イエスがメシアだということを信じるすべての人が罪の縄目、罪の呪いから解放され、永遠のいのちを得、想像を超えた素晴らしい喜び、平安、愛に満ちた世界を出現させるという計画をたてられました。

イエス・キリストの十字架によって、わたしたちは神が自発的、一方的にわたしたちを愛されておられることを知ることができます。
本当の愛は自発的な選びであり、犠牲を伴うものです。
神は、わたしたちの神への背きの罪を、わたしたちの完全な身代わりとして罪のない人となられたキリストによって罪にたいする罰の代価を支払ってくださいました。

このことは、罪がもたらす悲惨さと、神がいかに罪を憎まれるか、ということを証ししています。
キリストが人類の考え得る最も恥辱的な方法で十字架に架かられたことは、わたしたちがどのように悲惨で恥辱的な状況に陥れられる場合でも、神ご自身がその状況を自ら味わわれ、計り知れない愛をわたしたちに注がれていることを知ることができます。 

「 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル書4章15)

イエスキリストの十字架は、この世に来られたイエスのみが人にとっての唯一の救いであり、わたしたちが神の前に立つとき、神が決められている唯一の裁きの基準は、神の用意された救いであるイエスに対して、生前あなたがどのような選び取りをしたかということが問われることを証ししています。

もし、あなたがキリストの十字架が、神から来られ、神の用意された罪にたいする贖いの代価を支払ってくださったことの証だということを拒否し続けるなら、あなたは創造の生ける神の証しを偽りとしていることになります。

イエスキリストの十字架を、神がわたしたちの罪、滅び、死からの救いのために差し伸べられた御手として受け取るか、拒否するかは、わたしたちひとりびとりの選び取りであり、ひとりびとりが心を決めて選択するべき人生の最も大切な選択です。



 
ルカの福音書のメッセージ


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