終わりの日の警告

(ルカ福音書17章32)


イエスの言われた「ロトの妻を思い出しなさい」というこの短いことばには、人々が神の国に招かれ、永遠に神の国の人として留まり、人生を歩むために必要な警告が要約されています。

イエスは弟子たちに、イエスの再臨される前に起こる、「人の子の日」、旧約聖書の様々な箇所に預言されている終わりの日の「主の日」について述べられた後で、最後にロトの妻を思い出しなさいと言われました。

イエスは弟子たちに御自身がまず多くの苦しみを受け、その時代に人々から捨てられ、再びこの世に来られ、神の国がこの地上にもたらされるときに、預言されているその日、「人の子の日」あるいは「主の日」に起こることについて述べられました。(ルカの福音書17章22-30参照)

「主の日」は創造主である神の怒りの時、定められた裁きの時、神の報復の時です。
人類にとって、その日が必ず到来することは、旧約、新約の預言にも再三にわたって警告されています。

例えば、イザヤ書には、「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」(イザヤ書13章4、)
「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする」とあります。(イザヤ13章6)
エレミア書には、「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日」(エレミヤ46章10)
エザキエル書にも、「その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。」(エゼキエル30章3)と述べられ、
ヨエル書には、「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」
「さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ」(ヨエル書1章15、3章14、)
新約聖書のなかにも、コリント人への手紙には、「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(第二コリント人への手紙15章5)
テサロニケ人への手紙には、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」(第一テサロニケ人への手紙5章2-7)
そして、ペテロの手紙には、「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(第二ペテロの手紙3章10)など、終わりのときに主の日が来ること、その日の様子が旧約、新約に預言されています。


その日には、ちょうどノアの日に起こったと同様のことが起こります。

ノアの日には、人が地上にふえ始め、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き、神の前に堕落し、暴虐に満ちた状態になりました。このため、地はノアとその家族、すべての生き物の各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ雄と雌二匹ずつを残して、いのちの息あるすべての肉なるものが、全地球を覆う大洪水によって滅ぼされ、地上のすべてのものは死に絶え、新しい地球環境と、それまでとは異なった人類の歴史が始まりました。
このとき人々は、地球を揺るがす大洪水によって裁きと滅びが来る日まで、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりして何時もと変わりなく過ごし、神の裁きの時が来ることを真剣に受け止めることはありませんでした。


さらに、「主の日」、「人の子の日」が来るときには、ロトの時代に起こったと同様のことが起こります。

カルデヤのウルの地から神に引き出されたアブラハムは、甥のロトを連れて、神の約束された地へ向かいました。アブラムとロトは、カランの地を出、加えられた人々を伴い、カナンの地に入り、この地に飢饉が激しかったのでエジプトにしばらく滞在するために下り、その後エジプトを出てネゲブへ向かいました。
神は彼らを祝福され、金と銀と家畜に富み、彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなくなり、またアブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。 
そこで、アブラムはロトに「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言いました。
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていたので、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動し、彼らは互いに別れ、アブラムはカナンの地に住み、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張りました。

ヨルダンの低地帯ソドムとゴモラの地は肥沃であったため、人々は食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしないばかりか、快楽と偶像を求め、同性愛がはびこり、そのために神はソドムとゴモラの地とそこに住む人々を滅ぼすことを決められました。

神がアブラハムにあらわれ、ソドムとゴモラを滅ぼすことを告げられたとき、アブラハムは、「公平な神が正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるような不公平はなさらない筈ではないのですか。もし、少なくとも10人の正しい人がいればその町を滅ぼさないでください。」 というとりなしをしました。
神の裁きは不義に対して行われます。神は、神に信頼し、神に心を明け渡す者を、必ず試練のなかから救われ、神の裁き、怒りに定められることはありません。

アブラハムのとりなしによって少なくとも10人の正しい人を見つけ、ソドムとゴモラの地を滅ぼすために御使いがやって来たときにも、人々の悪は極限の状態であり、ロトが自分の家に御使いを招き入れたとき、同性愛者たちは彼らに襲いかかりました。御使いがロトとロトの家族に「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」と言っても、彼の婿たちには、それが冗談のように思われました。
夜が明けるころ、ロトは御使いたちに「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」 と促され、その人たちにロトの手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかまれて町の外に連れ出されました。
これは、主の彼に対するあわれみによりましたが、外に連れ出され、御使いのひとりに「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」とせかされ、ロトと彼の妻、二人の娘がツォアルに着いたとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました。

このとき、滅びから逃れたロトたちのなかでロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。

ロトの時代にソドムとゴモラの町の人々は、安逸をむさぼり、快楽と偶像を求め、同性愛がはびこり、無節操な者たちの好色なふるまいによって無秩序と暴力の横行する状態となりました。
人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりして滅びがやってくるまで神の裁きということを気に留めることはありませんでした。
そして、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

人の子の現われる日は、ノアの時代に起こったようなことが起こるだけでなく、ロトの時代に起こったと同様のことが起こります。(ルカ福音書17章26-30)


イエスは、人の子の日に起こることについて述べられ、最後に、一度滅びから逃れたにも拘わらず心をソドムに残し、後を振り返り滅びに至ったロトの妻のことに言及され、「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言われ、イエスキリストの贖いによって神の国への招きにあずかり救われたあとで、心をこの世の誘惑に再び惑わされ、不従順に歩み、滅びに至ってしまうことへの警告をされました。

ロトはアブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こり、アブラムが「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったときも、よく潤っていた肥沃なヨルダンの低地帯ソドムとゴモラの地を選び、目に見える繁栄と安逸に惹かれ、最初は近くに天幕を張り、次にはソドムの地に住むようになりました。

アブラハムにあらわれた創造の神よりも、ロトは肉の思いとこの世の目に見える安楽に妥協し、土地が肥沃であったために食物に飽き、安逸をむさぼり快楽や偶像を求めるソドムの人々と共にその地に住みました。
そして、このロトの妥協によってソドムの町の悪影響は、妻と娘に及びました。

ソドムとゴモラが滅亡した後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山でほら穴の中に住みましたが、娘たちは、「この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」と言って父親に酒を飲ませ、いっしょに父親と寝、ロトのふたりの娘が、父によってみごもりました。
ロトの娘たちがソドムで受けていた悪い影響、道徳観の欠如がソドムでの破滅から逃れた後の娘たちの行動からも、うかがい知れます。

ロトは肥沃に見えたソドムの地に惹かれ、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有し、多すぎるほどの持ち物を所有し、ソドムの近くに天幕をはったばかりでなく、ソドムの人々の安逸を貪り、ソドムの町に住み、ソドムの町の人々の快楽と偶像を求める生き方に妥協することで、神がソドムとゴモラの地に硫黄の火を天から降らせ滅ぼされたとき、すべての財産を失いました。

そればかりかロトは、折角ソドムの町の滅びから救いだされたにも拘わらず、妻をも失いました。


ロトの妻は一度滅亡から逃れ出た後にも、「後ろを振り返るな、」という厳しい警告に不従順で
彼女は、ソドムでの生活、ソドムの町を忘れることができずに後を振り返り、塩の柱になってしまいました。 

わたしたちは、人生を歩むうえで常に二つの争い合う力のどちらかに影響され、そのどちらかを選びとらなければなりません。

イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセは、信仰によって成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル書11章24-26参照)

わたしたちは、イエスキリストの贖いによって与えられている神の国を受け取り、創造主である神、聖霊の導きによって人生を歩むか、この世の富、肉の思いを満足させこの世の快楽と富を求めて人生を歩むのか、というどちらか一方の選択に迫られ人生を歩まねばなりません。

この世が与える最上のものは、罪の一時の楽しみであり、肉体の滅びの後に火と硫黄との燃える池の中にある永遠の第二の死です。
それに対して、生ける神、主に従って歩むとき、人生で受ける最悪のものは、キリストのゆえにうけるそしりです。
しかしキリストの勝利のうちに人生を歩むものには、いのちの水の泉から価なしに飲み、すべての栄光を相続し、生ける創造の神が、わたしたちの父となってくださいます。

イエスも、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ福音書18章13)と言われ、わたしたちが聖霊の導きのなかで従順に歩むのか、自分の肉の思いを優先し、この世の快楽と富みを求めて歩むのか、どちらか一方にしか仕えることができないことを宣言されています。

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21章7-9)

「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(第一ヨハネの手紙2章3-6)

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第一ヨハネの手紙2章15-17)

ロトの妻は、一度滅びから救われましたが、警告に従わずソドムの罪に妥協する安逸で快楽を求めるソドムの町の生活を忘れることができずに、救いの手を差し伸べた神への愛よりも、この世を愛し、この世に心を奪われ、後を振り返り滅びました。

「ロトの妻を思い出しなさい」という警告は、終わりの日の「主の日」が近づいている時に生きるわたしたちにとっても直接的な警告です。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」(ヘブル書6章4-8) 

「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。
この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる。』とかいう、ことわざどおりです。」(第二ペテロの手紙2章15-22)


ルカの福音書のメッセージ


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