人生の優先順位

(ルカ福音書12章22-23、31-32)


イエスは御顔をエルサレムに向けて進まれましたが過ぎ越しの祭りの直前、ヨルダン川を渡って、洗礼者ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在されました。(ヨハネ福音書10章40、マタイ福音書19章1、参照)

そして、イエスがメシアであることを受け入れないパリサイ人たちの偽善を厳しく戒められ、人の子に言い逆らう者が赦されても、聖霊を汚すものが赦されることのないことを警告されました。

その後にも、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになりました。

イエスはまず弟子たちに対して話しだされ、あらゆる貪欲に警戒し、この世の人々が人生で目的とする富について、譬えで、ある金持ちの畑が豊作であった、という話をされました。

この男は、心の中で『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』と言いながら考え『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』と言いました。
しかし神は『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』と彼に言われた後で、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」と言われました。(ルカ福音書12章16-21)

イエスはこの譬えをとおして、人生におけるわたしたちの優先順位、最も大切な目標がどこにあるかを問いかけられています。

多くの人々が、最も大切な目標が何なのかを考えることなく、しばしば無為な人生を送ります。


イスラエル王国の王として比類のない栄華を享受したソロモンは、人として考えられる日の下の知恵、富、栄誉、建造物、快楽のすべてを追求し、それを手に入れました。
しかし、この世で得られる知恵、 富、栄華、建造物、快楽のすべてを追求し、それを得た後で達した結論は、空の空、すべては空、日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう、というものでした。

わたしたちを創造された生ける神から離れた人の知恵や目的は、それがどんなに素晴らしいもののように思えても、所詮は空しく、愚かなものとなります。
      
どのように知識を増し、人の知恵によってこの世の物事を処し、快楽を追求しそれを得、偉大な建造物を造り、手に余る富と財宝を手に入れても、所詮は死によって自分のものとはなりません。                      

神から離れた人生を送るとき、時の経過と共にすべてが忘れ去られ、富める者の人生も貧しい者の人生も、賢い者の人生も愚かな者の人生も、どんなにこの世での苦労をしてもすべてが無に帰し、風を追うように虚しく、この世のことは、すべて空の空であるというソロモンの結論は、わたしたちも、真剣に考えるべき人生への問いかけです。 

イエスは、このような虚しい人生に対して、汲めども尽きない泉の水のような満足を得、永遠のいのちを得ることのできるわたしたちの人生の目標について述べておられます。


本当の優先順位が何かを知り、目標をたてることはわたしたち一人一人に問われている人生の課題です。

「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。 」

わたしたちは、しばしば目に見えるもの、自分の肉の快楽をもたらすものに心を捉われ、何を食べようか、何を着ようかと心配することで人生の大半を過ごしています。
しかし、人生において、最も大切な優先順位は、食べることや着ることではありません。

食べること、着ることは、わたしたちが生存してゆく上で必要なことは言うまでもありません。神は、生命体を与えられたすべての被造物に目を留めておられ、その生存に必要なものが何なのか御存知です。

イエスは、わたしたちにとって、大切な人生の最優先順位は、神の国と神の義を求め、天に宝を積むことだと言われています。  
「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」(ルカ福音書12章24-30) 

人生において一時的なものではなく、永遠に残るものを目標とすることほど大切なことはありません。

イエスは、「神の国を求め、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。」と言われ、そうすれば、わたしたちの肉体の生存に必要なすべてはそれに添えて与えられる、と宣言されています。

鳥や野のゆりの花にとって神は創造主ですが、イエスの贖いを受け入れイエスを主として人生を歩む人々にとって創造主である神はわたしたちの天の父です。
天の父は必要を知られるだけではなく、子であるわたしたちの最善を望んでおられます。


多くの場合、人は自分の努力や知恵、悟りによって人生に向き合うことで、どんな目的にでも向かうことが出来ると考えています。
しかし、わたしたちは、自分たちの努力や知識、悟りだけに頼って、永遠に残る自分の人生の終局的な目的を見出すことは出来ません。

あらゆる宗教的な誤りは、人が自分たちの努力や知識、悟りによって、自分の人生の終局的な目的を見出すことが出来ると錯覚することに起因しています。
わたしたちが自分の側から自分の努力や知識、悟りに頼って永遠の目標、神に届くと思うことは誤りです。
しかし、聖書の神はわたしたちをはるかに超えた外側から、御言葉をとおして、わたしたちの内側に触れてくださいます。

わたしたちは、人生の岐路にあっても永遠に生きる希望を、神のことばによって得ることができます。

わたしたちは初めから存在し、天地とそのなかにあるすべてを創造され、永遠で全知全能のお方が、被造物をとおしてご自身を示されておられることを知ることができます。

「 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」(詩篇19篇1-6)と、ダビデが詩のなかで詠んでいるように、創造の素晴らしさを見るとき、それらの星や太陽、宇宙を創造された創造者である神の存在を容易に認めることができます。

しかし、被造物の素晴らしさを見て創造者が存在することを認めるだけでなく、神の霊感によって書かれた神のことばをとおして、この世に来られたイエスが、神と人を隔てている罪の贖いとなられたことを知ることが出来ます。
自分の人生にイエスを主として受け入れるとき、想像を超え、人知を超えた永遠で全知全能の創造主、神を父と呼び、永遠の方がわたしたちに触れておられることに気付きます。  


神は、御言葉をとおして、わたしたち一人一人が、永遠に残る朽ちない宝を天に積み、神の国と神の義を得るという目標を自分の人生の目標とし、豊かに実を結ぶものへと変えられることを願われています。

イエスは、どのような人々が豊かに実を結ぶものとなるか種蒔きの譬えを話され、その意味について話されています。

さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。

さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かイエスに尋ねた。
そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
このたとえの意味はこうです。
種は神のことばです。
道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカの福音書8章4-15)

イエスのこの種蒔きの譬えは、神のことばがあらゆる人々の上に落ち、大別すると四種類の心の状態の人々に異なった受け止められ方をすることについて述べています。

譬えのなかで最初に、神のことばを聞いても全く関心を示さず、御ことばは道ばたに落ちた種が人々に踏みつけられ、結局鳥についばまれてしまう人々あるいはそのような人の心の状態が描かれています。
 
このような人々にとって、神のことばは、人生を送る上で何の意味も関わりも持たず、御ことばを聞いても、それは道ばたに落ちた種のように人々に踏みつけられ、結局鳥についばまれてしまうように、神に敵対するもの、サタンによって飲み込まれてしまいます。

次に、神のことばを聞いて感激し、しばらくは御ことばを信じますが心の奥深いところに信仰が根付くことなく、誘惑や試練がくると信仰から離れてしまう人々、あるいはそのような心の状態にある人々が描かれています。
そのような人々の心の状態は蒔かれた種が岩の上の薄地に落ちるようなもので、薄地に落ちた種が太陽の光を受けてすぐに芽を出しても岩の上の薄地には根付くことなく、すぐに枯れてしまうようなものだというのです。

三つ目には、神のことばを聞いて信じ、信仰によって人生の歩みをはじめますが、心を決して神の国と神の義を求め、神に喜ばれる人生を選びとるよりもこの世の思い煩い、富などに心を奪われ、自分自身を喜ばせる人生を歩んでしまう人々、あるいはそのような心の状態にある人々について描かれています。
現代でも自分がクリスチャンであると思いながら、この世の流れに妥協し、この世の一時的なものと、永遠に残るものとのどちらにも多くの人が心を決めないような二心の状態にあります。
心を決めて御ことばを人生の最優先順位に置き、神の国を人生の最重要な目標として人生を歩まないとき、日常の一瞬一瞬の歩みのなかでこの世の思い煩いに心を奪われ、目に見えるもの、この世の富が大事なものとなってしまうのです。

このような心の状態にある人々は、いばらの真中に神の御ことばである種が落ち、いばらに譬えられているこの世の心づかい、富や、快楽への思いがいっしょに生え出て、信仰がふさがれ御ことばの実が実ることのない人々です。

そしてこの譬えの四つ目に、正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人々が描かれています。
このような人々の心の状態は良い地に種が落ち、生え出て、百倍の実を結ぶようなものです。

生きた主なる神は、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かず、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人、心を尽くして主を尋ね求める人々に、 時がくると水路のそばに植わった木のようにその葉を枯らさず実を結ばせ、永遠の繁栄をもたらされます。(メッセージ 「幸いへの鍵」参照) 
 
神は、わたしたちが、神の国と神の義を求め、神のことばによって一歩一歩自分の心の状態を吟味し、人生を倦むことなく歩むとき、わたしたちを必ず助け支えてくださいます。 

わたしたちが、神のことばを聞いて心を尽くし主に拠り頼みむとき、主は豊かに実を結ぶものへとわたしたちを変えてくださいます。



 
ルカの福音書のメッセージ


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