裁きの日

(ルカ福音書11章29-32)


イエスは、弟子たちをとおして「神の国が、近づいた。」ことを村々で人々に告げられ、御顔をエルサレムに向けて進まれました。 
その途中、イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられ、悪霊が出て行くと、おしがものを言い始め、群衆はイエスの権威と奇跡に驚きました。
しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者や、また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいました。
イエスは、彼らの心を見抜いて「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」(ルカ福音書11章17-19)と言われ彼らを厳しく戒められました。

イエスや弟子たちの周りに群衆の数がふえて来ると、イエスは「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」と、この箇所に述べられていることを話し始められました。

ヨナは北イスラエル王国のヤロブアム二世が王位に就く紀元前780年頃の預言者ですが、神が「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(ヨナ書1章2)と告げられたとき主の御顔を避けてヨッパに下り、船を見つけ船賃を払ってそれに乗り、タルシシュヘ逃れようとしました。

アッシリア軍は、その残酷さで近隣諸国に恐れられ、実際北イスラエル王国は最終的にアッシリア帝国によって紀元前722年に滅ぼされました。
ヨナにとってイスラエルに危害を加え、その残酷さで恐れられていたアッシリア帝国、ニネベの人々が自分たちの悪によって滅びてしまうことはむしろ望むところであり、もしヨナの警告を聞いてニネベの人々が悔い改め、神があわれみによって裁きを思い直されるということは、我慢のならないことでした。
そのため、ヨナは神の御顔を避けてニネベとは全く別の場所、タルシシ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとしました。
しかし、ヨナが乗り込んだ船は海の上で暴風に合い船が沈みそうになったため、嵐の中で水夫たちによって海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれました。
大きな魚の腹の中で生きながら黄泉に投げ込まれるような体験をしたヨナは、ニネベへ行くことを三日三晩拒み続けた後、魚の腹の中から、「 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」と主に祈り、魚はヨナを神が意図された陸地に吐き出し、ニネベに行ったヨナは「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と叫んで回り、このヨナの警告を聞いたニネベの人々は神を信じ、断食をし、身分の高い者から低い者まで荒布を着て罪を悔い改めました。
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、ニネベの人々を滅ぼすことを思い直されました。

そして、「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」と言われて裁きの日により大きな罪に定められることを警告されました。

イエスは、「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」とも言われました。

紀元前985年頃繁栄と栄華の頂点に達っしたイスラエル統一王国は、王国の栄華とソロモンの名声を聞いて南の国のシバの女王が、ソロモンの知恵を聞くために地の果てから来、イスラエルの王座にソロモンを着かせた神を褒め称えました。

しかし、ソロモンよりも偉大な神の御子イエスを見、奇跡を目の当たりにしてもイエスを信じない人々、奇跡を見てもさらにしるしを求める人々にたいして、「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」と言われ、ヨナのしるしのほかにはイエスが神の御子であることのしるしは与えられないことを宣言されました。


ニネベの人々は、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と叫んだヨナを信じましたが、、イエスが神の御子であるしるしを求め悔い改めない人々は、神の愛、イエスに来る人々に対する恵みの奇跡を見たにも拘わらずイエスを信じませんでした。

イエスは、このような人々が裁きの日に必ず罪に定められることを宣言されています。

ある人々は、裁きの日などない、人は肉体が滅び死んだら終わりと主張します。
しかし、聖書ははっきりと肉体の滅び、死が終わりではなく、人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていることを宣言しています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル書9章27)

聖書は、未来に行われる最終的な裁きについて、次のように述べています。

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20章5-15)

イエスご自身も、肉体が滅び死んだ人々が復活すること、そのときが必ず来ることについて言及されています。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。」(ヨハネの福音書5章28)  


わたしたちは、しばしば、この世で行われる不正、不義が必ずしも公平な裁きのもとにはないことを見聞し、体験しています。
この世には不正と不公平な裁きが行われています。聖書の記録にもいろいろな箇所でこの世で行われる不正や不義について述べられています。

ヤコブの息子の一人ヨセフは兄たちの妬みによって無実にも拘わらずエジプトに奴隷として売られ、そこで仕えたポティファルの妻によって再び無実の罪で牢獄に投げ込まれ、そこで何年もの期間を過ごすことを余儀なくされました。

イスラエルの王アハブは、宮殿のそばにあったナボテの畑を王妃イゼベルの悪計によって取り上げ彼を殺してしまいました。(列王記上21章8-16参照)

「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。」(箴言17章23)

イスラエルの裁き司であったエリの息子たちは、父親の裁き司である地位を利用して、神を礼拝しようとしてやって来る人々から不正な利益を自分のために横取りしました。

「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。」(第一サムエル記2章12-14)

イスラエル・ユダ王国が腐敗し、不正と不公平な裁きが社会に横行するのを嘆いたハバククは、

「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。」(ハバクク1章3-4)と、神にこの世の不正と不公平を訴えました。

イエスを売ったユダは、「わたしは、罪のない人の血を売った」といって罪のないイエスを売った自分を後悔して首をつりました。祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めましたが証拠は出て来ませんでした。総督ピラトはイエスが無実の正しい人であり、ねたみから祭司長、民の長老たちがイエスを引き渡したことに気づいていました。
罪を知らない方、罪のまったくない汚れのない方が、ねたみと裏切り、不正によって十字架に架かられました。
 
イエスキリストの十字架を見るとき、世のなかの不義、不公平、不正がすべて凝縮されてイエスに負わされ、これ以上の不公平、不正がないことを知らされます。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント人への手紙5章21) 


この世が不義や不正な裁きに満ちていることについて、ソロモンは「 私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。」(伝道の書4章1)と、詠んでいます。

現代も法の名のもとに多くの不正、不義が行われ、人々はしいたげられています。
しかし、このような不公平、不正を行う人々は裁きの日に必ず報いを受けることになります。

「私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」(ロマ書2章2-5)

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(第一コリント4章5)

神はひとりでも多くの人が滅びへの道を辿ることのないために御子であるメシアをこの世に送られました。
イエスは、預言されたとおり、人々からさげすまれ、のけ者にされ、苦しみに会われ、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、十字架の刑によって殺され、三日の後によみがえられました。
イエスは、わたしたちの罪の責めを十字架の上で負われ、ヨナが黄泉のような大魚の中から三日三晩の後に吐き出されたように、黄泉に下られて三日目に復活され、贖いを完成されました。

イエスがわたしたちに差し伸べられた救いであり神の御子であることを信じ、イエスを主として歩む人々には、すでにイエスがわたしたちの罪の裁きを代わりに受けてくださいました。
しかし、イエスを自分の救い主として受け入れない人々には、どんなにこの世での裁きがないように思えても不正や不義にたいする死後の裁きが必ず行われます。

聖書の様々な箇所でイエスを救い主として受け入れない人々への裁きの警告が与えられています。

「 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。
神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」(ヘブル書2章2-5)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル書10章26-31)

「 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」(サムエル記上2章10) 

「主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。
主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。
主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる。
山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。
だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。」(ナホム書1章2-6)

「 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」 (黙示録11章18)

神はひとりでも多くの人が滅びへの道を辿ることのないために御子であるメシアをこの世に送られました。
イエスの贖いを受け入れない人々には、この世で裁きが行われないように思えても裁きの日、主の御怒りの日を必ず迎え、神の公平な裁きを受けることになります。



 
ルカの福音書のメッセージ


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