主が来られた目的

(ルカ福音書1章79)


ルカの福音書の最初の部分は、神の御前に神殿で務めをすることになったアビヤの組の祭司ザカリヤに子が授けられ、その子の名をヨハネと名付けるように天使によって告げられたことが述べられています。 

年をとっても子のなかった、ザカリヤと不妊の妻エリザベツに子が授けられるという天使のみ告げは、ザカリヤにとって信じがたいものでした。
この知らせを疑ったザカリヤは、天使ガブリエルから子が生まれるまで,ものを言うことができなくなるという宣告を受け、神殿から外にでてきたとき人々にものを言うことが出来ませんでした。

その後、ゼカリヤとエリザベツは家に引きこもっていましたが、エリザベツは天使が告げたとおりみごもりました。
その六か月目が過ぎる頃、ナザレの村で御使いから聖霊によってみごもり男の子を産むことを告げられた処女マリヤが、親類のエリザベツとザカリヤの家を訪れました。
マリヤとエリザベツは3ヶ月の時を一緒に過ごし、マリヤがガリラヤのナザレに戻った直後に御使いが告げたとおり月が満ちてエリザベツは男の子を産みました。

幼子がうまれて八日目に、人々は幼子に割礼をするためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。しかし、母親のエリザベツが人々に「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言ったので 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と言い、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。

ゼカリヤは幼子の名を尋ねられたとき、書き板を持って来させて「彼の名はヨハネ。」と書き、子の名前はヨハネと名付けられ、同時にゼカリヤの口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえました。

このとき、ザカリヤは聖霊に満たされて神を賛美し、聖霊によって処女マリヤから生まれてくる幼子のことを預言して、主が「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」ことを宣言しました。

この箇所のザカリアのメシア預言のなかには、メシアが端的に二つの目的を持ってこの世に来られることが述べられています。

メシアが来られるのは、暗黒と死の陰にすわるわたしたちを照らし、そしてわたしたちの足を平和の道に導くために来られることが宣言されています。

神の御子メシアが聖書の預言どおり、わたしたちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられ、ケパに現われ、それから十二弟子に現われ、五百人以上の兄弟たちに同時に現われた、(第一コリント人への手紙15章3-6)ことによって、ゼカリアが宣言した預言は、すべての人に伝えられるべき素晴らしい福音としてわたしたちにも現実のものとなりました。 

イエスキリストがこの世に来られ、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことが出来、それを豊かに持つことが出来るということ以上に人類に与えられた神の恵み、素晴らしいニュースはありません。

まさに、暗やみの中にすわっていた民が偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々を照らし、わたしたちの足を平和の道に導き、わたしたちに永遠のいにちを与えるためにイエスキリストはこの世に来られました。

イエスの誕生、十字架の贖いが旧約聖書の預言のことばの確実な成就であるばかりでなく、イエスの復活についても五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、歴史は明らかにそれが疑う余地のない事実だということを証ししています。


すべての事実がふたりか三人の証人の口によって確認されることについては、現代に於ける法廷でも多数の証人の証言が一致するとき、ある事実が確定されることによって人々がその事実を確定するうえで信頼性のある方法だということが認められています。

「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」(第二コリント人への手紙13章1)

サタンは、主の御座の前で「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」(ヨブ記2章4-5)と、述べています。

サタンは、人は自分の身体に危害が加えられ、肉体を痛めつけられるような拷問にあうとき、神に対する忠誠よりも自分自身の保身を選ぶはずだと主張しています。

しかし、復活を否定すれば拷問と死から免れるようなときでさえもも多くの弟子たちがイエスの復活を証しし、保身よりも、自分たちの命を投げ打ってイエスが復活のメシアであるという証言を変えなかったという歴史的な事実を知るとき、サタンの主張とは異なり、イエスの復活、福音が疑う余地のない証しによって裏付けられていることを確認できます。 

最初の殉教者として新約の使徒書にも記録されているステパノ、ゼベダイの子ヤコブ、福音書を記したマタイ、ヨセフの子、イエスの兄弟で新約聖書のヤコブ書を記したヤコブ、イエスを売り首をつって死んだユダのかわりに十二弟子の一人にくじによって選ばれたマッテヤ、使徒アンデレ、新約聖書に手紙を残し、福音書にも生前のイエスのそば近くに仕えた使徒ペテロ、新約聖書における大半の手紙を記述した使徒パウロ、ユダ書を記したユダ、十二弟子の一人バルトロマイとトマスなど、イエスの死と復活を目撃した使徒や弟子たちは、イエスの十字架と死、死からの復活によって信じる人々に永遠の命が与えられるという証言を、自分たちの命を投げ打っても変えることはありませんでした。

イエスがこの世に来られたこと、弟子たちの多くの殉教の証し、預言のことばの確実な歴史的成就によって、イエスを信じるすべての人々に永遠のいのちと神からの恩恵を体験することができる道が開かれ、与えられています。


イエスは、光として来られました。

イエスをメシアとして個人的に受け入れる人々は、この偉大な光を見、暗黒と死の陰にすわるわたしたちに光が照らされます。(マタイ福音書4章16参照)

聖書は、一貫してイエスが初めから神とともにおられ、すべての創造をされ、この方にいのちがあり、このいのちが人の光であることを証ししています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ福音書1章1-5)

イエスはこの世に人々を照らす光としてこられました。
光として来られたイエスを否定し続け、暗闇に留まるものには滅びがもたらされます。

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ福音書3章19-21)

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ福音書12章46)

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ福音書12章46)


イエスは、人々の足を平和の道に導くためにこの世に来られました。

イエスの贖いによって、わたしたちは神に対する背きの罪を赦され、神が差し伸べられている和解の御手を受け取ることが出来ます。
そしてイエスの贖いに信頼して人生を歩む人々には、平和の道に導かれ、あらゆる状況のなかで、わたしたちの思いを超えた神の平安に守られることが約束されています。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ書26章3)

「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。(イザヤ書57章21)

「 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ書4章6-7)

生ける神に信頼するとき、わたしたちがどんなに不安に駆られる状況のなかでも、主は状況をこえた平安と平和の道を与えようと励まされておられます。

旧約聖書のなかでもいくつかの箇所でそのことが述べられています。

主はその夜、イサクに現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」 (創世記26章24)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 」(イザヤ書41章10)

「 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。」(イザヤ書43章5)

「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。・・主の御告げ。・・わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」(エレミア書46章28)

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23章4)


聖書には、様々な箇所に主が来られた目的が述べられています。

主が来られたのは、失われた人を捜して救うため、(ルカ福音書19章10)御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため、(ヨハネ福音書3章17)羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため、(ヨハネ福音書10章10)律法や預言者を成就するため、(マタイ福音書5章17)、罪人を招くために来られ(マタイ福音書9章13)イエスを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないために来られました。(ヨハネ福音書12章46)

イエスがこられたのは、暗黒と死の陰にすわるわたしたちを照らし、わたしたちの足を平和の道に導くためです。

この素晴らしい福音を受け取り、光に照らされ平和の道に導かれ、状況をこえた平安に守られる恩恵を受けるのか、イエスキリストの福音を拒否し、自分自身の力だけに頼って状況のなかで恐れと不安に駆られ、最終的な滅びに至る道を選ぶのか、わたしたちは最も大切な人生の選択を迫られています。



 
ルカの福音書のメッセージ


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