昔から人々は、真理とは何なのかを追及し、自由について思考してきました。
すべての人が自由であることを願っています。
アメリカ合衆国では、すべての人々の自由と平等、国民の基本的人権を守ることを目的として憲法が起草されているほどです。
人類の歴史のなかでプラトー、ソクラテス、アリストテレス、ダイオジニス等、現代の我々でさえ名前を聞いたことのある哲学者たちは、真理とは何か、自由とは何かについてキリストがこの世に出現する以前から思考してきました。
しかし、彼らは、哲学や人の思索によっては結局のところ、真理についても自由についても確とした答えを見出すことは出来ませんでした。
何故なら、人の思考によって真理、自由について得られた答えは、或る事柄について、或る人にとって真理であると思われる体験であっても、全く異なる価値観を持つ他の人にとっては、同じ体験が真理とはならず、常に主観的、相対的なものとなり矛盾を常に抱えているからです。
従って、普遍的な真理や自由はこの世に存在せず、時代を超えた普遍的な真理や自由は哲学的な思考によっては得ることができないということが彼らの結論でした。
自分を基準にする限り、真理についての解釈や自由についての体験は人によって異なります。
もし時代を超えたすべての人に普遍的な真理や自由が存在しないのならば、最終的に人々は異なった価値基準によって、お互いに疎外されたものとなります。
イエスがローマのユダヤ総督ポンテオ・ピラトの前に立たれ、ピラトが「それでは、あなたは王なのですか」とイエスに問いかけたとき、イエスは、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」と答えられたのにたいして、ピラトは皮肉な口調で再度イエスに「真理とは何か。」と問いかけています。
現代も人々は自由について、それぞれの主張をしています。
人々は自由な選択をすることができることについて、自由な所有と富の追求、自由なセックス、自由な結婚、自由な離婚、自由な生存権といったことを主張し、人々は歯止めのない貪欲さを追求できることが自由であり、自由にセックスをし、自由に結婚と離婚を繰り返し、自由に人のいのちの生存権を決めることができることが自由であると主張します。
しかし、このような抑えのきかない貪欲と性的な放縦、自由に人のいのちを奪ったり与えたりする拘束力のない生存権の行使は、人々を逆に逃れることのできない束縛に追いやります。
この箇所でイエスは、イエスを信じたユダヤ人たちに、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と、宣言されています。
人々は自由についていろいろな主張をしますが、自分の欲望を制限なく満たすことのできることが自由であるというサタンの欺きとサタンに隷属しているこの世の思いによって、自由を得たいと欲しながらかえって束縛と混迷に陥っています。
この世の思い、わたしたちの肉の思いは、サタンに束縛されています。
「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」(第二ペテロの手紙2章19参照)
イエスは、ユダヤ人に「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」と述べています。
イエスは、彼らが自由を求めながら、真理と自由を得させる神に従うより、自分の欲望に従うことによって隷属と束縛に陥入っていることを指摘されています。
欲望を満足させることではなく、真理に従って不義を行わないという選択をすることの出来る自由が本当の自由です。
イエスが永遠に変わらない神の真理であることを認め、イエス・キリストによるサタンの隷属から解放されることによってのみ真理に従う選択が可能になります。
真理に従い、真理の霊による選びのみが本当の自由なのです。
イエスの「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」という宣言にたいしてユダヤ人たちは、「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」と答えています。
罪にとらわれているとき、人は束縛され、隷属していることにさえ目が曇らされ気付かないのです。
イエスとユダヤ人たちが問答していたその時点で、ユダヤ人たちはローマに隷属し、ローマ兵がイスラエルに常駐し、彼らは自分たちの嫌うローマに税を納めなければなりませんでした。
もし、道で出会ったローマ兵が、ユダヤ人の肩に剣を置いて荷物を運ぶ命令をしたならば、彼らは少なくとも一マイルの道のりを共に歩まねばなりませんでした。
それにも拘わらず、ユダヤ人たちは、「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。」と言っています。
人々は罪や自分の常習的な習慣にとらわれているにも拘わらず、自分たちが自由であり、自分たちの欲望を満足させることが自由だという欺きに惑わされています。
多くのクリスチャンも欺きにとらわれ、この世の思い、自分の肉の思いに隷属していながら、わたしたちはだれの奴隷になったこともない、わたしたちは自由であってわたしたちの権利を主張する自由を持っていると主張します。
これはわたしたちが、偽りと欺きの虜となることに気付かない状態にあるときに起こります。
イエスは、真理のあかしをされるためにこの世に来られました。
わたしたちは一人一人が、二つに一つの選択を迫られています。
真理に属する者となって、御ことばに聞き従うことを選ぶのか、自分たちの欲望を満足させることが自由だという欺きを選ぶか、二つのうち一つを選ぶ選択です。
そしてそれはわたしたちが、夫々に、いのちか死への選択することです。
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(第一ヨハネの手紙5章12)
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ福音書3章18)
イエスが言われるとおり、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
本当の自由はイエス・キリストによってもたらされます。
イエスは弟子たちに、「わたしが真理です。」と宣言されています。
イエスの本当の姿を知り、イエスに信頼して人生を歩むとき、イエスはサタンに支配されたこの世の思い、肉の思いからわたしたちを解放し、本当の自由を得るものへと変えられます。
普遍的で絶対の方、創造の神は、永遠の愛をもってわたしたちを愛され、御子イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、罪と偽りの虜になっているわたしたちを解放されました。
「 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ロマ書8章31-35)
わたしたちに与えられている救いは、わたしたちの努力やわたしたちの正しさ、義によるものではなく神の恵みです。このことは、わたしたちが救われるために負担しなければならない重圧から解放され自由であることを意味しています。
わたしたちに求められているのは恵みを受け取る信仰だからです。
「 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2章8-9)
「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ロマ書6章1-2)
イエス・キリストにあって新しく生まれる体験をするとき真理の霊、聖霊がわたしたちのうちに住まわれます。
「 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(テトス書3章5-6)
真理の霊、聖霊がわたしたちのうちに宿られ、聖霊の導きのなかに歩むとき、わたしたちは人の思い、この世の伝統、習慣、律法の束縛からも解放されます。
聖霊がわたしたちのうちに住んでくださるとき、わたしたちはイエスの本当の姿を知り、イエスに信頼して人生を歩むことが出来ます。
普遍的で絶対の神が、わたしを愛しておられるという確信を持ち、イエス・キリストの再臨と神の国がもたらされるという、栄光の約束と希望が現実のものとなります。
全能で全知の方が、わたしを愛しておられるという確信をもつことが出来ることは、わたしの持っているすべての未来にたいする不安、懸念、心配、束縛から解放されるということです。
そして、それが恵みによるものであることを知るとき、わたしたちは自分の努力や自分の思いにとらわれることからも解放され自由な人生を歩むものへと変えられます。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(第一ヨハネの手紙4章18)
わたしたちは、キリストに聞き、キリストにあって教えられているのならば、まさしく真理はイエスにあるのですから、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るものとなります。(エペソ書4章21,23,24参照)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ロマ書8章11)
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(黙示録11章15)
イエス・キリストにある真理こそが、わたしたちに本当の自由を得させてくださいます。
a:1355 t:1 y:0