この箇所のことば以上に簡潔に聖書の福音を述べている箇所は他にないといって過言ではありません。
過ぎ越しの祭りの時期にイエスがエルサレムの都におられたとき、パリサイ派の議員ニコデモが夜イエスを訪ねてきたときのことを弟子のヨハネは記録し述べています。
当時のイスラエルの民は、民を代表する七十人の議員によって律法の運用、その間に起こるいろいろな取り決めが定められていました。
ニコデモは、イスラエル議会を代表する議員として律法にも精通し、律法を行う正しい人でした。
議会を代表する議員たちの大半は、イエスの奇跡と民衆の人気を認めながらも、妬みによってイエスが約束されたメシアであることを認めようとしませんでした。
イエスに従う人々に与えられる喜びと状況を超えた平安、イエスが愛をもって癒しの業をされる様子に深い感銘を受けたニコデモは、多分、自分がイエスに反対する議会の議員であるという立場をはばかって夜イエスを訪ねました。
ニコデモは、イエスにある喜びと平安と愛に満ちた質の高いいのちを認め、「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言って、どのようにすればイエスが持っておられる質の高いいのち、永遠のいのちが得られるのかという疑問を投げかけました。
イエスは、ニコデモの心のうちを見られ「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と核心について答えられました。
ニコデモの「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」という質問に、
イエスは、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と答えられました。
神は人を霊と魂と肉体を持つものとして、霊的な存在として創造されました。人の存在は本質的には霊であり意識を持ち、物質的な肉体をもって生きています。
植物は一次元的な存在であり、土壌から栄養を摂取し、空気や光などの周囲の環境によって,時には昆虫などを葉で捕らえる特殊な植物を含め、成長すると、遺伝子の組み込まれた種によって再生し自然循環のなかで繁殖、衰退をしてゆきます。
動物の場合は、植物に比べて二次元的な存在です。動物も物質的な部分だけでなく意識、あるいは本能を持っています。
特に哺乳動物の場合は生存を維持するために、植物や他の動物を食べることによって栄養を摂取成長し、雄の精子と雌の卵子に組み込まれる遺伝子によって受精することによって繁殖してゆきます。
動物は植物に比べて、意識をもっていることと、自ら移動することが出来ることで飛躍的に異なる次元の生命体であるということができます。
人は、もともと霊と意識を持った魂と物質的肉体を持つ三次元的な存在として創造されました。人も哺乳動物と同じように生存を維持するために植物や他の動物を食べることによって栄養を摂取し成長し、雄の精子と雌の卵子に組み込まれる遺伝子によって受精することによって繁殖しますが、霊を持っていることで創造主である神を知り、神と交わりを持つことが可能な存在として創造されました。
イエスはサマリヤの女にご自身をあらわされたとき、「 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 (ヨハネ福音書4章24)と言われました。
人は霊的存在です。
人は父なる神と子と聖霊の一体である唯一の神に出会い、神との交わりをもつことができる存在です。このことからも人間が動植物と比べて飛躍的に異なる次元の生命体であり、神の特別な創造であることがわかります。
はじめに人は神との交わりのある素晴らしい環境に置かれました。
しかし、神のことばに信頼し従うか、あるいは誘惑者のことばに従うか、という選択に迫られたとき、人は目に美しく、食べるに美味に見え、食べると賢くなるように思われた木から実をとって食べ、肉の思いを霊の思いに優先させ、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という神のことばに背き、誘惑者に従い、それに隷属するものとなり、そのときから人の霊は死んだ状態となりました。
そのためにすべての人が、そのままでは人の意識、魂は肉の思いに支配され、魂が霊の思いによって霊である神との交わりをもつことが出来ない状態となってしまったのです。
(創世記3章参照)
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ人への手紙2章1-3)
イエスは、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」(第一ペテロの手紙1章8)質の高いいのち、永遠のいのちを得るためにどのようにすればよいのか、というニコデモの問いに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と、答えられ、目に見ることが出来ない霊のいのちの新しい誕生をしなければならないと宣言されました。
使徒パウロも、同じことを霊にある新しいいのちを持たない者は、神のみこころのことを知り得ないと述べています。
「 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(第一コリント人への手紙2章11-14)
イエスはニコデモに、人は誰でも肉の誕生の後に、霊にある新しい命の誕生をしなければ神の国を見ることは出来ないと言われました。
ニコデモのイエスにたいする質問は、人がどのようにして新しい霊のいのちの誕生をすることができるか、というものでした。
イエスは、このニコデモの質問に、エジプトから解放され、モーセに率いられて荒野を旅したイスラエルの民の歴史に起こった出来事を引用されました。
エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民が解放され、約束された乳と蜜の溢れる土地へ向かって民が荒野を旅するあいだ、神は 食糧を捜し求めなくとも人々が飢えることのないように、天からマナを降らせ日々の食糧を荒野でも与えられました。
しかし民は、荒野をさまよい同じ食糧マナを毎日食べることに飽き、途中でがまんができなくなって、民を率いるモーセに逆らって「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」とつぶやきました。
彼らが荒野をさまよい続けることになったのも、もともとは民がモーセをとおして律法を与えられたホレブから、約束の地までの直線距離にして十一日間の道のりを四十年も費やし、不信仰によって約束の地へ入ることを拒んだからでした。
彼らは、神の約束に信頼せず、カナンの地を偵察に行ったヨシュアとカレブの報告よりも、他の十人の「私たちはあの地に住む民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」と、いう報告を選びました。(民数記13章、14章1-10、参照)
イスラエルの民の不平、不満にたいして、このとき主なる神は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。
そこで、民がモーセに「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」と頼み、モーセが祈ると、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」と言われ、モーセが一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけ、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きることができた、(民数記21章6-9 参照)という事件がありました。
イスラエル議会の議員であり律法に精通するラビ(教師)でもあったニコデモにとって、イスラエルの民が約束の地に入るために荒野を旅する途上、不平、不満をつぶやき、燃える蛇にかまれ、この旗ざおの上につけられた青銅の蛇を仰いで癒されたことは、よく知っていた事件でした。
イエスはニコデモの「御霊によって新しく生まれるためにどのようにしたらよいのか。」という問いに、 「 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ福音書3章13-15)と答えられました。
聖書全体をとおして青銅は裁きを意味し、蛇は罪を象徴しています。
旗ざおの上につけられた青銅のへびが、すべての世の罪とその責めをを負われ十字架に架かられたイエスを象徴しています。
肉体をとってわたしたちの間に宿られたことば、人としてあらわれてくださった神、御子イエスは私たちの身代わりのなだめの供えものとして、罪にたいする神の裁きを受けられ十字架に架かられました。
イエス・キリストの十字架は、人類の神への背き、不義、罪に対する神の怒りを完全になだめる犠牲の供えとなるものでした。
燃える蛇にかまれ死にかかっていても、旗ざおの上につけられた青銅の蛇を仰いだ人々は生きることができました。
しかし、旗ざお上の青銅の蛇を仰ぎ見ることを拒否した人々は死んでしまいました。
同じように、十字架に架かられたイエスが、わたしたちの神にたいする罪のなだめの供え物となってくださったことを信仰をもって仰ぎ見、キリストの十字架と復活を自分自身のためであったということを受け取るとき、人は生きるものとされ、新しい霊のいのちに生まれることができます。
罪の報酬結果は死であり、罪を犯した者は死にます。(エゼキエル書18章20参照)
私たちが、十字架のイエスを信仰をもって仰ぎ見、イエスがご自身のいのちを罪過のためのいけにえとされたことを受け取るとき、神はその信仰を見られてその人を義とし、永遠のいのちを与えてくださいます。
信仰をもって十字架のイエスを見上げることでどうして新しい霊のいのちを得、御霊によって新しく生まれることが出来るのかということを理解できなくとも、イエスが罪とその責めをを負われ十字架に架かられたことを信じるものは罪の赦しと御霊によって新しく生まれることができます。
生まれたままの自然の人の霊は生きた状態ではありません。したがって、多くの人々が意識を持った魂と物質的肉体の二次元的な存在として人生を生きています。
このような状態のとき人は霊的な空虚さと、この空虚さを埋め合わせるために物質、あるいは感情を満たすものによって人生の喜びを求めようとします。
しかし、どのようにしても物質や感情によって霊の虚しさを埋めることはできません。
イエスのことばによれば、人は罪によって滅びに定められ、十字架に架かられたイエスを信仰をもって仰ぎ見るとき、永遠のいのちを得、新しい霊のいのちに生まれかわります
イエスは続いてニコデモに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16)と、宣言されています。
イスラエルの民は、荒野を四十年もの間、彷徨(さまよ)い続け自分たちの惨めな状態にたいする不平と不満を神につぶやきました。
しかし、彼らが惨めな状態に陥ったのは神のせいではなく、彼ら自身の頑なさと不信仰によるものでした。
神は彼らをアブラハムに約束された地、蜜と乳の流れる豊かな地に導かれ、彼らが信仰をもって約束の地に入ることを望まれましたが、カナンの地を偵察に行ったヨシュアとカレブの報告よりも、他の十人の斥候の「私たちはあの地に住む民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」と、いう報告を聞いて荒野に引き返してしまいました。
わたしたちも人生の悲惨、心の空虚な状態を恐れ、それが神のせいであるかのように思い、しばしば不平と不満を漏らします。
実際には、神は常にわたしたちが霊にある新しいいのちに生まれ、神との交わりに喜びと状況を超えた平安と愛に満ちた人生を送り、永遠のいのちを得るものとなることを願われています。
罪の報酬は死であり、すべての人がそのままの状態では滅びに至ります。
しかし、神はわたしたちを愛し、わたしたちの神への背きにもかかわらず、十字架に架かられたイエスを信仰によって仰ぎ見、神の愛に気付くとき、わたしたちの背きの罪を赦し、霊にある新しいいのち、永遠のいのちを与えたいと願われています。
永遠のいのちは単に量的ないのちのことではなく質的ないのちでもあります。
霊の導きのなかで神との交わりを持って歩むことほど素晴らしい人生はありません。
神は、わたしたちがイエス・キリストの十字架の贖いを信仰をもって仰ぎ見るとき、誰にでも永遠のいのちを与えられます。
これは、子供にでも分かる単純でしかも奥深い福音の真理です。
子供でさえこのことを信じ、新しいいのちに生まれることができます。
神の愛の奥深さは誰にもはかり知ることができません。ただ信じる選択をした人々はその真理を体験するのです。
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