これら以上に愛するか?

(ヨハネ福音書21章14-15)


イエスは、聖書に預言され、十字架に架かられ贖いの業を完成される前にイエスが何度も宣言されたとおり、三日目に復活され、ご自分が生きていることを弟子たちに現されました。

シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、そしてヨハネとヤコブは、復活されたイエスに再び会うために、復活の日の朝、「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」(マタイ福音書28章10参照)と、復活のイエスが女たちをとおして弟子たちに伝えたことばに従って、エルサレムからガリラヤ湖畔に戻ってイエスの来られるのを待ちました。

ところが、イエスがなかなか来られないので、もともと漁師であったペテロは「わたしは漁に行くのだ」と言って、ガリラヤ湖で漁に出かけました。

ペテロは最初にガリラヤ湖の湖畔でイエスに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と、招かれたときにも同じように漁をしていました。 

イエスと出会ったガリラヤ湖畔に戻り、すぐには現れないイエスを待ち続けるより本業であった漁師としての生活に戻ることはペテロにとって現実的な選択に思えたのかも知れません。 

他の仲間も「わたしたちも一緒に行こう」と出て行って舟に乗り、漁に出かけましたが一晩中網を張っても、その夜はなんの獲物もありませんでした。
夜が明けそめたとき、復活されたイエスが岸に立っておられました。
しかし弟子たちは岸辺に立っておられるのがイエスだとはわかりませんでした。

イエスが岸辺から「子たちよ。魚は獲れましたか。」と呼びかけると、彼らは「いいえ、獲れません。」と答えたので、イエスは「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、獲れます。」
そこで、彼らはイエスのいうとおりに網をおろすと、おびただしい魚のために、網を引き上げることができないほどの大漁となりました。

これを見て弟子のヨハネが、ペテロに「あそこにおられるのは主だ。」と叫び、シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海に飛び込みました。
ほかの弟子たちは、陸からはあまり遠くない百メートル足らずの距離だったので舟に乗ったまま、魚に満ちた網を引きながら帰ってきました。

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあって、イエスは彼らに「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」と言われました。
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっており、それほど多かったけれども、網は破れないでいました。

イエスは彼らに、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われ、弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいませんでした。

イエスが用意された炭火にあたり、一緒に朝食の魚とパンを食べるペテロは、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と誓ったにも拘らず、イエスが十字架に架かられる直前に、大祭司の中庭で炭火にあたり門番のはしために「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と問われ、「いや、そうではない」とイエスを三度も否定したときのことを思い起こし自責の思いが再び込み上げていたかもしれません。

あるいは、イエスがガリラヤ湖周辺で宣教をはじめられて間もない頃、夜通し漁をしても何一つ収穫がなく、岸に戻って舟から降りて仲間の漁師たちと網を洗っているところへ、群衆ががイエスに押し迫るようにして岸辺にあらわれ、イエスが自分の舟にのり、陸から少し漕ぎ出して群衆を教えられ、話が終わったときに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われ、半信半疑でイエスのことばに従い、もう一度深みに漕ぎ出してイエスの言われたとおり網をおろしたところ、網が破れそうになったほどの大漁となったときのことを思い出していたかもしれません。(ルカ福音書5章1-7参照)


ヨハネ福音書のこの箇所が記しているように、彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、これら以上に、わたしを愛しますか。」と言われました。

イエスのペテロにたいする問いかけは、日本語の聖書では「これら」という原語の代名詞を「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と、特定して訳しています。
しかし、ギリシャ語の原語τούτων too'-tone 、英語訳these は、「この人たち」という特定ではなく「これら」という代名詞になっており特定されていません。

イエスのペテロにたいする問いかけは、「あなたは、これら以上に、わたしを愛するか。」という訳、英語の欽定訳(King James訳)、「lovest thou me more than these ?」という訳が原語に即した訳ということができます。

イエスが「これら」と言われたとき、ペテロと共にそこに居た他の弟子たちを指して、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」と言われたのか、網のなかでピチピチ跳ねている魚を指して、ペテロが本業としていた漁師を象徴する魚以上に、「あなたの愛する漁師という職業以上に、わたしを愛するか」と言われたのかははっきりわかりませんが「これら」の中味については、いろいろな意味が込められていたと思われます。

ペテロはあきらかに、漁師であることに生き甲斐を感じ、漁をすることを楽しみとしていました。

網のなかで跳ねている魚は、漁をすることが生き甲斐であったペテロにとって自分の職業、経歴での成功を象徴していました。

したがって、イエスはペテロに、網のなかで跳ねている魚を見ながら、彼自身が選択した職業や自分の生き甲斐に成功をすること以上に、イエスを愛するか、と問われたのかもしれません。           

イエスが過ぎ越しの最後の晩餐を弟子たちと共にされたとき、弟子たちの間で誰が一番偉いのかという議論が持ち上がりました。
このときにペテロは、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と他の弟子たちの誰にも増して自分が一番弟子であることを主張しようとしながら試練に会い圧力に負けてイエスを否定しました。

したがって、日本語の聖書訳が訳しているように、「これら」はペテロとともに魚の入った網をひいてきた他の弟子たちのことを指して、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛するか。」ともう一度言われたのかもしれません。

もし、職業や他の人たちとの関係、あるいは自分自身の楽しみや自分自身を喜ばせることのほうが、イエスとの関係以上に大切なものとなるとき、わたしたちは神を愛することを第一とすることを忘れます。

イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と言われ、ペテロはイエスに「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答え、イエスはペテロに「わたしの羊を牧しなさい。」と言われ、
イエスは三度ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と、言われました。

ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と、言い、イエスは彼に「わたしの羊を飼いなさい。」と、言われました。

イエスが三度も「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたのは、三度イエスを否定したペテロにキリストへの愛を表明する機会を与え、イエスのペテロに対する愛が変わらないものであることを確認する為だったのでしょう。

ペテロは、自分の得意とする漁も自分の努力だけでは、一晩中網をおろしても魚が一匹も捕れないときに、イエスのことばに従ったときに網が破れそうになるほどの大漁となる体験をしました。
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と、自分の思いを表明してもイエスを否定してしまった体験をしました。

イエスが復活されたとき、ペテロは復活を最初に知らされた弟子の一人でした。それにも拘わらず、なかなか来られないイエスを待ち切れず、「わたしは漁に行くのだ」と言って、ガリラヤ湖で漁に出かけてしまったペテロに復活のイエスは会われ、炭火を起こしパンを用意して朝食を共にとられました。

復活の主はペテロに問いかけられたように、わたしたちにも「これら以上にイエスを愛するか。」と、直接自分と関わりのある人との関係や、自分が情熱を傾ける経歴や職業、自分自身を喜ばせることなどの「これら」以上にイエスを愛するか問われています。

神は、わたしたちが神との意味のある愛の関係を持つ者へと変えられ、この世の思いと妥協する「これら」へ心を引き込まれること以上にイエスを愛する者となることを願われています。


イエスがペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたときにも、イエスが言われている愛はἀγαπάω ag-ap-ah'-o ということばが使われました。これは霊的な次元の愛を意味しています。

ギリシア語では、肉体的なレベルの愛をあらわすエロスということばや、感情的なレベルの愛をあらわすフィレオΦιλέω Phileoやストーゲということばが、すべて日本語では愛ということばに訳されています。 

マタイの福音書には、ある日、律法学者が最も大切な戒めについて尋ねたときの問答が記録されています。
律法学者がイエスに「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と尋ねると、
イエスは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(ἀγαπάω)』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ( ἀγαπάω)。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ福音書22章36-40)と答えられています。

神のわたしたちにたいする戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(ἀγαπάωアガペ)」ということばに要約することができます。

神は、わたしたちが他の全てに優って生ける創造者である神を愛するものとなることを求めておられます。

イエスが、ペテロに対して問いかけられたのは、ペテロがイエスとの深い愛を持つものとなることを望まれているからです。
イエスはペテロに愛という言葉を使われるとき、霊的な次元の愛、アガペ( ἀγαπάω)という言葉を使われました。

わたしたちクリスチャンも容易に「この世の何にもましてわたしは、主を愛します。」ということを口先で言い表すことがありますが、ヨハネは手紙のなかで、「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(第一ヨハネの手紙3章18)と述べています。
わたしたちは、イエスとの深い愛の関係を持ち続けるときに霊的な次元の愛、アガペの愛を満たすものへと変えられます。
使徒パウロは、そのような次元の愛こそが聖霊の賜物のうちでよりすぐれた賜物であると宣言し、そのような愛は決して絶えることがなく、決してすたることのないことを述べています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(第一コリント人への手紙13章4-8)

ペテロは「あなたはわたしを愛しますか。( ἀγαπάω)」と尋ねられたとき、自分が「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と主張したのにも拘わらずイエスを三度も否み、復活のイエスにガリラヤ湖畔で待つように言われたにも拘わらず、イエスを待ちきれずに漁に出かけた自分を思い、そのこともイエスがよく知っておられることを承知していました。

したがって、イエスが「あなたは、これら以上に、わたしを愛するか。」という問いかけに、
「はい。主よ。私があなたを愛(Φιλέωフィレオ)することは、あなたがご存じです。」と答えることがペテロにとって精一杯であり、イエスの愛( ἀγαπάω)アガペに応える愛は、自分のうちからは出てこないことを自覚し、イエスにたいする愛がフィレオの愛であることを認めました。

イエスは「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ福音書10章14-15)と言われ、「わたしは、良い羊飼いです。羊はわたしたの声を聞き、わたしについてきます。」と言われています。
この比喩のなかで、イエスは良い羊飼いであり、御言葉を聞いてイエスを信じる人々のことが羊の群れの羊に譬えられています。

イエスはペテロが「わたしがあなたを愛(Φιλέωフィレオ)することは、あなたがご存知です。」と答えたとき、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と最初にペテロを招かれた時と同じ意味で「わたしの羊を牧しなさい。」と言われました。

イエスはペテロが神の求めておられる高い次元に届かない未熟さを持っていることを認めた上で、ペテロに福音を信じる人々を牧す器としての召命とその確認をされてペテロを励まされています。

そして、ペテロの応答に対して、再度「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛( ἀγαπάωアガペ)しますか。」と言われ、ペテロの愛をイエスの愛の高みにまで引き上げようとされました。 
イエスの再度の問いかけにもペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛(Φιλέωフィレオ)することは、あなたがご存じです。」と答え、イエスは「わたしの羊を牧しなさい。」と、彼に言われました。

三度目は、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(Φιλέωフィレオ)しますか。」と、問いかけられましたが、このときイエスは、ペテロが使った(Φιλέωフィレオ)という語を使われてペテロの言った愛のレベル、感情的なレベル、フィレオの愛にまで愛の次元を引き下げられました。


主は、わたしたちが心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、イエスを愛( ἀγαπάωアガペ)するものへと変えられることを願われています。

イエスは、わたしたちがイエスの持っておられる高みにまで引き上げられることを望んでおられます。
しかし、わたしたちがイエスの高みに届かないときでもわたしたちの次元にまで降りて下さりわたしたちと出会い、そこでわたしたちの最善を実現してくださいます。

復活のイエスがガリラヤ湖で漁をするペテロにあらわれ「あなたはこれらよりもわたしを愛しますか。」と尋ね、ペテロを励まされたことは、わたしたちにも絶望の状況や、主が共にはおられないと思えるときにも、復活のイエスが、わたしたちの足りなさ、欠点を知られた上で、生ける創造の神とのより深い関係に招いていてくださることを意味しています。

イエスにたいするわたしたちの愛がフィレオの次元の愛であることを認めたうえで、イエスを愛することを第一として神の次元、高みに引き上げられることをわたしたちが願うとき、神はその賜物を与えてくださいます。

主がわたしたちを助けられ、わたしたちが「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛( ἀγαπάωアガペ)することを知っておいでになります。」と応えることのできるものへと変えられることが、わたしたちの祈りです。



 
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