イエスの祈り

(ヨハネ福音書17章1)


この箇所には聖なる栄光の父なる神に、人として来られた御子イエスが親密に祈られている祈りが記述されています。

わたしたちがイエスの祈られている内容を見るとき、あたかもモーセが柴の炎のなかから語られる神のことばを聞くときに靴を脱いだような、あるいは、天の至聖所に招き入れられ、それを垣間見るような栄光と荘厳さに打たれます。 

弟子が祈っておられるイエスを見て「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」という願いに答えた祈りは、「主の祈り」(マタイ福音書6章9-13、ルカ福音書11章1-4参照)としてわたしたちが祈るときのモデルとして知られています。

しかし、このヨハネの福音書17章に記録されているイエスの祈りは、実際に御子イエスが父なる神に親密に祈られている最も長い「主の祈り」、聖なる三位一体の唯一の神ご自身の個人的な祈りの内容が記録されています。

イエスにとって祈ることは、わたしたちが食事を摂ること以上に自然なことでした。

福音書にはこの世に来られたイエスが常に祈られていた様子、夜通し祈られ、日が昇る前、朝早くから祈られていたことが記録されています。

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ福音書1章35)

人の子としてこの世に来られたイエスが描かれているルカの福音書には、人としてイエスが祈られた様子が他のどの福音書にも増して詳しく描かれています。

イエスがバプテスマのヨハネによって洗礼を受けられたときにもイエスが祈られ、その結果、聖霊が、鳩のような形をして、下られるのをご覧になったことがルカの福音書には記述されています。(ルカ3章21 参照)

イエスのガリラヤ地方でイエスのうわさが、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来たときも、イエスご自身がよく荒野に退いて度々祈られた様子(ルカ5章15,16)、イエスが祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた様子、(ルカ6章12)ひとりで祈られ(9章28)、弟子たちを送り出し、彼らが帰ってきたときにも祈られ(ルカ10章21)、常に祈られ(ルカ11章1-2)、弟子の信仰がなくならないように祈り(ルカ22章32)、十字架の試練に会われる直前にもゲッセマネの園で汗が血のしずくのように地に落ちるほどに切に祈られ(ルカ22章42-45)、大祭司たちに捕らえられローマ総督ピラトの前に立たれ、ローマの鞭打ちの拷問の後でローマ総督官邸の広場からゴルゴダの丘までの道を、群衆の好奇の目のなかを歩かれ十字架の上でローマ兵から手足を釘に打ち付けられるときに最初に発されたことばは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りのことばでした。

イエスは、十字架の上で最期に息を引き取られるときにも「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と大声で祈られています。

イエスは、宣教の最初から十字架の上で息を引き取られるまで、常に祈られました。

このように、神の御子であるイエスがすべての行動において、何かを決められるとき、食事をされるとき、問題に直面するとき、魂が騒ぐとき、弟子たちが誘惑に陥りそうになるとき、常に祈られているのを見、イエスにとってさえ祈ることが大切であったのをみるとき、わたしたちも、 あらゆる事柄について、すべての状況のなかで、どんな状況に置かれてもまず祈ることが必要であり、その大切さを知らされます。


最初にイエスは、祈りのなかで「父よ。時がきました。」と言われています。
イエスはご自分の時について、ご自分がこの世に来られた使命について、常に敏感に意識されておられました。

ガリラヤ地方のカナで婚礼が行われ、母マリアとともにイエスが招かれたとき、宴席に供するぶどう酒がなくなったので母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言ったときも、イエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ福音書2章4)と、答えられました。

イエスを殺そうとして、エルサレムの神殿にイエスが来られたときユダヤ人たちはイエスを捕らえようとしたときも、だれもイエスに手をかけたものはいませんでした。このときも、イエスの時がまだ来ていなかったからであった、と記されています。(ヨハネ福音書7章30)

イエスが宮で教えられ、パリサイ人たちが、御子イエスの父なる神について献金箱のあるところで話されたときも、イエスを捕らえようとする人々はだれもイエスを捕らえませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからである。と述べられています。(ヨハネ福音書8章20)

過ぎ越しの祭りが近づき、十字架に架かられる直前のエルサレムでのイエスと弟子たちとの最後の会話には、イエスは何度も時が近付いていること、イエスがご自分の使命がどんなものかが明確に宣言され、このヨハネの福音書にはそのことが記録されています。

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12章22-24)

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
父よ。御名の栄光を現わしてください。そのとき、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。』」(ヨハネ12書27-28)

このように、イエスは度々イエスの時について言及されています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5章25)

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13章1)

イエスが最も重要な時とされていたのは、十字架に架かり、その死によってすべての人々が神の声を聞くとき、神の御子であるご自身をとおして神の栄光があらわされる、その時を、最も重要な時と述べられています。


イエスが祈りのなかで最初に神に願われているのは、「あなたの子があなたの栄光をあらわすために子の栄光をあらわしてください。」という願いでした。

神の栄光があらわれるために、御子イエスの栄光があらわされるとはどういう意味なのでしょうか。

わたしたちは神の創造された自然の素晴らしさ、壮大さ、被造物の繊細なデザインや精巧さ、美しさに触れるとき神の栄光の素晴らしさを垣間見ることができます。

しかし、神の栄光の本当の素晴らしさを体験することができるのは、神の愛、神の恵みの素晴らしさにわたしたちが触れるときです。

創造者である神が、ご自身の愛する御子を犠牲にし、その血を流されてまで、わたしたちの背きと罪の責めのそしりを代わりに受けられたことに気付き、それを体験するとき、わたしたちは被造物を見てその壮大さや繊細さ、精巧さ、美しさに感動すること以上に、御子イエスの十字架と復活の業をとおして直接、神の愛、神の恵みに打たれ神の栄光を讃えることができるのです。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』
また御使いについては、『神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが、御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。』」(ヘブル書1章1-8)

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ書1章15-20)

この17章の1節でイエスは、十字架の贖いと罪の赦し、恵みの業をとおして神の栄光があらわされるように、と祈られています。

イエスの栄光があらわされたことによって、わたしたちは神の恵みを受け取り、永遠のいのち、神の国に住むものとされる確信を与えられています。

イエスが来られたのは、暗黒と死の陰にすわるわたしたちを照らし、そしてわたしたちの足を平和の道に導くためでした。

イエス・キリストがこの世に来られ、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことが出来、それを豊かに持つことが出来ること以上に人類に与えられた神の恵み、神の栄光があらわされることはありません。

イエスの神への祈りは、父と子のわたしたちに対する愛のゆえに、父なる神と御子イエスが苦しみと犠牲を共有することをとおして神の栄光、愛の深さが人々にあらわされるようにという祈りでした。

この祈りは、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。 父よ。御名の栄光を現わしてください。」(ヨハネ福音書12章27,28)という祈りとも共通している祈りです。 

イエスが求めておられる栄光は、イエスをとおして父である神が讃えられることを願う栄光でした。

イエスは、ユダが出て行ったとき、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」(ヨハネ福音書13章21,22)とも言われました。

そして、この祈りをされる直前に弟子たちに「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ福音書14章13)と宣言されています。

神の栄光が、御子イエスの栄光があらわされたことについて、使徒パウロは、「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
「それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(エペソ書1章6、12)と、述べています。

使徒ペテロも同じように、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(第一ペテロの手紙1章8)と述べて、十字架の犠牲の贖いによって、神の愛と恵みを体験するとき、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることが出来ると宣言しています。

わたしたちは、天において御座に立たれるお方、栄光のキリストを仰ぎ見るとき、彼に十字架の傷跡のあることを認め、わたしたちの罪を贖われるために支払ってくださった代価の大きさを改めて知ることが描かれています。

後に使徒ヨハネが聖霊に満たされて見た幻をとおして、イエスが、天において御子が王の王、主の主として群衆から賛美を受けておられる光景の記述を黙示録のなかで見ることができます。

ヨハネが天において見た光景は、神が御座におられ御座のまわりに二十四の座があって二十四人の長老が座についており、御座のそば近くには、神の被造物である生き物、ケルビムが夜も昼も絶え間なく創造主である神の聖なる永遠の性質、愛と恵みの性質について賛美しているというものでした。

二十四人の長老たちは、冠りを御座の前に投げ出して「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、(喜びのために)万物は存在し、また造られたのであります」と、宣言します。(黙示録4章4-11参照)

さらに、ヨハネは、御座のそば近くの四つのケルビムと長老たちとの間にほふられた子羊のように見えたイエスが、生き物と二十四人の長老たちの賛美のなかで、御座に立って巻物を受け取るのを見ます。そしてこの瞬間、天のすべてが賛美と勝利の合唱に包まれ、万物を創られた神こそが栄光に満ちた崇められ、拝まれるに相応しい方であるという賛美の声をあげます。

あらゆる部族、国語、民族、国民のなかからキリストの血によって贖われた人々はイエス・キリストへの心からの賛美と栄光に満ちた「ほふられた子羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、賛美とをうけるにふさわし」という賛美の歌を合唱するのです。(黙示録5章6-12)

わたしたちが、イエス・キリストの血潮によって贖われ、大天使ケルビムと共に天上の御座のまわりで想像を超えた賛美のなかで、共にこの合唱に加わることができること、これ以上に御子が創造主であり、父である神の栄光があらわされ、子の栄光があらわされることはありません。

御座のまわりに幾万、幾千の何倍もの圧倒的な聖徒たちとともに、わたしを贖われた方を賛美する特権にあずかり、父なる神と、子なるイエス・キリストがすべての贖われた被造物から同様に栄光と賛美とを受けるのです。

また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示録5章13-14)

神ご自身が御子をこの世に送られるときに、「神の御使いはみな、彼を拝め。」(ヘブル1:6)と述べられていることが、このときに現実に実現します。

御子イエスは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 (ピリピ人への手紙2章6-8)


イエスがご自身の血潮によってこの世を贖われたのは、わたしたちが主の栄光を誉め讃え、主の栄光があらわされるためです。

御子イエスが「父なる神の栄光をあらわすために子の栄光をあらわしてください。」と祈られたように、わたしたちも主の栄光をあらわすことがわたしたちの人生の最終的な目標であることは間違いありません。 

イエスは、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と、わたしたちに言われています。

わたしたちが自分のベストを尽くして人生を歩むのは、自分が人々から誉めそやされることが目的ではなく、わたしたちが世の光として主の栄光、主の光を映すことに他なりません。

イエスは、わたしたちが多くの実を結び、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従う人生を歩むとき、(ヨハネの福音書15章8)父である神が栄光を受けられる、と言われています。

使徒パウロは、わたしたちが神の恵み、贖いによってこの世で光として輝くということについて、
「 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第一コリント人への手紙6章20)と宣言し、わたしたち一人一人が「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(ピリピ人への手紙1章11)と、祈っています。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ人への手紙2章14-16)

使徒ペテロも後に手紙のなかで、イエス・キリストの救いを受けた人々に「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。
旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。
そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」(第一ペテロの手紙2章11-12)と述べて、わたしたちの生き方をとおして主の栄光が誉め讃えられるように励ましをおくっています。

多くの人々が自分の栄光を求める人生を歩もうとします。

しかし、人が自分の栄光を求めるとき、それは所詮野心であって、人の目やこの世の価値感からどのように偉大に見えることであってもそれは永遠に続くものではありません。人の栄光は、いつか虚しく忘れられ、本当の栄光である神の栄光、光を映すものとはなりません。
むしろ、本当の光を映す鏡に大きなしみや翳りが見られるように、わたしたちの求める自分の栄光は鏡に張り付くしみや翳りのような逆効果にしかならないのです。

イエスはパリサイ派の人たちが神の栄光を求めていることを装いながら実は人からの栄光を求めていることを非難されています。

イエスご自身、多くの奇跡や癒しの業をとおして、この世からの賞賛、栄誉を受けるということはなさいませんでした。

宣教のはじめにもサタンは、イエスがサタンを拝むのならこの世のすべての栄耀栄華を差し上げようという申し出をしていますが、イエスはご自身の栄光を求めることはなさいませんでした。

すべての人が自分の栄光を求めるか、神の栄光を求めるかという人生の選択のなかで生涯を送ります。
                                
わたしたちが、自分の栄光を求めて行ったことを神は顧みられません。
      
人生を歩む上で、わたしたちは、本当に主の栄光があらわされることを祈りながら人生を歩んでいるのかどうか、一人一人が吟味することを求められています。



 
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