イエスにある平安

(ヨハネ福音書16章33)


イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られ、弟子たちを励まし、勇気を奮い起こさせられました。
イエスはご自分が去った後で起こること、弟子たちの歩むべき道、守るべき戒めを与えられ、希望に満ちた約束をされています。
そして、この世でどのような困難があってもすでにイエスがこの世に勝たれていることを伝え、イエスにある平安を弟子たちに与えられました。

わたしたちも、イエスが十字架に架かられる直前に弟子たちに語られたことばを聞くことで、イエスにある平安と永遠の希望を持ち、この世における困難のなかでも勇敢に人生を歩むことのできる秘訣を得ることができます。

すべての人が生まれてから息を引き取るまで常に悩みと困難に出会います。
どのような人生であっても、家族関係のなかに問題や悩みがあり、金銭や財政の問題で頭を痛め、健康について全く問題のない人生はあり得ません。

東の国で最も富豪で人々に尊敬され家族にも恵まれていたにもかかわらず、突然の災害で家族、財産を失い、その上に頭から足の先までを悪性の腫物に打たれ、土器のかけらを取って自分の身をかき、灰の中にすわって苦しんだヨブは、「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。 」(ヨブ記5章7)と述べて、人の一生が生まれたときから苦難に満ちたものであることを告白しています。

イエスが十字架に架かられる直前に弟子たちに親密に語られたことばを記録している14章から16章には、どのような苦難や困難に出会うときにも、それを乗り越えイエスに信頼し人生を歩むことの出来る確実な約束と励ましが示されています。


イエスは、「この世を去って父なる神のみもとへ帰るのは場所を備えに行くためであり、場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(14章2,3参照)という約束を弟子たちにされています。

どのように人生の歩みが困難に思えても、イエスは永遠のいのちと栄光の変貌の約束、再びイエスは来られ、イエスのもとにイエスを信じる人々を迎えることを約束されています。

イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と、宣言されています。

イエスによって復活といのちがもたらされ、よみがえりといのちの権威はイエスご自身のものだと言われています。

神は、わたしたちが人の手によらない、天にある永遠の住みかである新しい身体に移る準備をされています。
イエスがよみがえりであり、いのちであることを信じて生きることは、信仰に歩み栄光の変貌を遂げてゆくことを約束された素晴らしい永遠のいのちの歩みです。  

ダビデは詩篇のなかで、この世の不公平、不義、無法、高慢によって悪や貪欲な者から押しつぶされそうになり、いのちを奪われるようなときにも、目覚めるときに神の栄光の姿を見て満ち足りることを詠っています。

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(詩篇17篇15参照)

わたしたちが主に信頼し続けて人生を歩むとき、どんなに困難に思える状況にも主は共におられ、必ず主の似姿に変貌し、栄光の主の姿に出会うことができます。 


イエスは弟子たちに、「あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」(ヨハネ福音書14章16、18、16章7参照)と言われています。

イエスが去った後も、弟子たちは置き去りにされることはないことが約束されています。

父なる神がイエスと全く同じ、他の助け主となる方を弟子たちのために送られ、その方は時間や場所に制限されずに導き手となって共に人生の嵐を乗り越えてくださるのです。

弟子たちは、イエスのなされた数々の素晴らしい奇跡、らい病人を癒し、盲人の目を開き、歩けない者を立たせ、悪霊にとり憑かれる者を解放し、何千もの人々の空腹をごく僅かな、パンと魚で満たし、嵐の湖を鎮め、死人をよみがえらせました。パリサイ人や律法学者たちの悪意に満ちた質問にも答えを示され、それらを目のあたりにし、イエスと共に歩んだ三年余のあいだにイエスが共に居てくだされば、どんな不安も、どんな困難な問題も、すべての状況を解決してくださることを体験してきました。

イエスが約束された他の助け主は、聖霊です。聖霊には助け主という言葉が使われています。
ギリシャ語の原語では、文字どおり、パラクレトス、παράκλητοςpar-ak'-lay-tos そばにいて助ける者という言葉がつかわれています。さらに、もうひとりのと日本語で訳されているギリシャ語の原語にはもうひとり別のという単語ヘテロスἕτερος het'-er-os ではなく、全くおなじもうひとりという意味のアロスἄλλοςal'-los という言葉が使われています。

わたしたちが知らねばならないのは、聖霊が人格を持たれ、父なる生ける神、人となってこの世に来られた子なるイエス・キリストと本質的に全く同じ人格を持たれた永遠にして、神聖なるおかた、全知、全能の偏在されるおかた、だということです。(第一コリント2:10、11、ルカ福音書1:35、詩篇139:7-10参照) 

聖霊は神の深みを「知って」おられ、わたしたちに「教えて」下さいます。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
聖霊は重要な事柄を決めてくださいます。(使徒15:28参照)そして、方向を決められたり、禁じたりされます。(使徒16:6,7)
聖霊は人々が誤った選びをするとき、悲しまれます。(エペソ4:30)そして、聖霊の愛で人々を満たされます。(ロマ15:30)

イエスご自身がこの世を去った後でも、イエスと全く同じ人格を持った聖霊が来られ、聖霊は弟子たちと共に臨在し、弟子たちひとりひとりの心のうちに住まわれ、そのときの状況や場所に応じて神が望んでおられる方向を見極め、教え、聖霊の愛で人生の歩みを満たしてくださることを約束されています。 


イエスは弟子たちに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と言われています。

イエスとの個人的な関係を持ち、聖霊の導きにしたがって人生を歩み続けるかぎり、ぶどうの木から枝が伸び、やがて実を実らせるように、私たちも自分の力では不可能に思える戒め、イエスがわたしたちを愛し、贖われるためにいのちを捨てられたような愛をもって互いに愛し合い、聖霊の実を結ぶことが可能だということを約束されています。

イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。」と述べています。イエスは、弟子たちが実を結ぶもの、互いに愛し合うことを最後に戒めとして与えられました。

イエスは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と言われ、彼らを愛し、実際にいのちを捨てられました。

「 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネの手紙4章11)

わたしたちが他を愛するというとき、わたしたちの愛は、どこか常に互恵的な愛であって、イエスが愛されていのちを捨てられたような一方的な愛(アガペの愛)を持ってはいません。

イエスが言われているような愛は、わたしたちのうちにはありません。
もし、わたしたちが自分の思いや努力だけでそのような愛の行為を行えると思うのなら、それは必ずどこか自分自身の行いを誇ろうとする肉の思いによるものとなります。
イエスは弟子たちに彼らが守ることの不可能な戒めを残されたのでしょうか。

イエスが言われているように、わたしたちはイエスを離れては何もすることができません。
しかし、イエスご自身である聖霊がわたしたちの心のうちに住まわれるときには、わたしたちは、わたしたちを強められる方によって、どんなことでも神がわたしたちに望まれていることをすることの出来るものへと変えられます。

「 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ福音書15章5)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ書4章13)

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」と、イエスは約束されています。

イエスに信頼し、聖霊が教えられる道を歩み、聖霊の愛で満たされるとき、イエスがわたしたちを愛されたように必ずわたしたちが互いに愛し合うものへと変えられ、自分の力や努力によっては不可能な戒めを守り、愛の実を結ぶものへと変えられるという励ましをイエスは弟子たちに与えています。   

神は、わたしたちが人生の歩みをとおして実を結ぶものへと変えられることを望まれています。それは、わたしたちが聖霊の実である愛の実を結ぶとき、わたしたちが自分では不可能なことを聖霊が可能にしてくださったことを知って父である神が栄光をお受けになるからです。

聖霊がわたしたちのうちに住まわれ、聖霊に満たされて人生を歩むならば、わたしたちもぶどうの枝が木からの栄養分を受けて自然に実を豊かに実らせるように、聖霊の実である神の愛(アガペ)を実らせるものへと変えられます。


イエスは、弟子たちに永遠のいのちを与えられ、再臨されることを約束されただけでなく、イエスが去った後も、イエスと全く同じ、助け主となる方が来られることを約束されました。 

イエスが彼らと共におられたように、聖霊は、イエスを主として歩むものと共に、時間や場所に制限されず人生の嵐を乗り越えてくださいます。

さらに、イエスは、ご自身をぶどうの木、弟子たちを枝に比喩され、枝が木にとどまっていれば、神が求めておられる実、神がわたしたちを愛されているアガペの愛の実を結ぶものへと変えられ戒めを守ることができる励ましを与えられました。

イエスは、「わたしはすでに世に勝ったのです。」と宣言され、十字架の上でわたしたちの罪の贖いを完成され、復活によって死を滅ぼしサタンを決定的に裁かれました。

使徒パウロは、イエスがこの世に勝たれていることについて、

「 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ書2章12-15)と、述べています。

イエスは、弟子たちがどのような苦難や困難に出会っても、臨在する聖霊とともに歩み、実を結ぶものへと変えられ、永遠の栄光の主の似姿に変貌する希望が確実な約束であることを示され、この世の思いを越えた平安を弟子たちに与えられました。

わたしたちもイエスの与えられた平安の約束に信頼し、聖霊の助けを受けて常に人生を歩むとき、
どのような苦難や困難に出会うときにもそれを乗り越えることの出来る勇気と励ましを与えられます。



 
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