わたしが道であり、真理であり、いのちなのです

(ヨハネ福音書14章5-7)


ヨハネは、およそ四分の一の部分を割いて、イエスが過ぎ越しの晩餐を弟子たちと共にされた時から、ピラトによって十字架に架かるまでの二十四時間ほどの出来事を詳しく記しています。

イエスは、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られ、弟子たちと過ぎ越しの晩餐をとられました。

この食事のときにすでに悪魔によってイエスを売ろうとする思いを心に抱いていたイスカリオテ・ユダに、イエスは、パン切れを浸して与え「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」といわれ、ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行きました。

このあとで、イエスは他の弟子たちに「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」と言われ、
弟子たちがすぐには一緒に来ることの出来ないところへ行かれることを告げられました。
イエスは、弟子たちに「行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」という約束をされています。
イエスは、弟子たちとともにこの世におられるときに、何度もご自分がこの世に来られたのは父なる神がイエスを遣わされ、父なる神がイエスとともにおられ、イエスは常に父なる神のみこころを行っていることを宣言されています。(ヨハネ8章29参照)
イエスは、父である神から委ねられた業を完了し、この世を去って父なる神のみもとへ帰る時がご自分の時であることをよくご存知でした。
弟子のペテロが、「主よ。どこにおいでになるのですか。」と問いかけに対して、イエスは、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられ、ペテロはなおも「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」と言いました。


イエスが、彼らのついてゆくことの出来ないところへ行かれ、父のもとへ帰られることを聞いて、弟子たちが胸騒ぎを覚え、不安に駆られているとき、イエスは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と、言われ、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と、言われました。

イエスのこのことばを聞いて、弟子たちの一人トマスは、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と、イエスのことばの真意を問い詰めました。

このトマスは、しばしば、自分で納得のゆかないことをあいまいにせず、直接イエスに正直な疑問を投げかけています。

多くの場合人々は、誰かが語っている事柄を実際には理解していないのに、あたかもその事柄を解っていることのように振舞うことがしばしばあります。
しかし、トマスは理解できないことをそのままにはせずに、率直にイエスに疑問をぶつけています。

トマスは、イエスがこの世を去って父なる神のみもとへ帰ることの意味、疑問をより直接的にイエスに投げかけました。


このトマスの問いかけに、イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 という、究極的な宣言をされました。

イエスは、ここで、イエスが道であり、イエスが真理であり、イエスがいのちであり、イエスを通してでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができない、という四つの究極的で根本的な宣言をされています。

イエスだけが御子をこの世に送られた創造の生ける神への唯一の道です。
イエスは弟子たちに、「わたしが真理です。」と宣言されています。(メッセージ真理はあなたを自由にする 参照)
イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」とも、宣言されています。(メッセージ「私はよみがえり、いのちです」参照)

そして、イエスを通してでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができない、と宣言されています。

この究極的な宣言ほど、全面的に受け入れるか、完全に拒否するか、という二つに一つの選択を迫られる宣言はありません。
イエスは、この宣言をされてから二十四時間以内に、そのことばのとおり贖いの業を完成されました。十字架の上で息を引き取られる直前、「完了した。」と言われましたが、父である神が御子イエスに委ねられた、罪によって失われた人類の贖いの業を「完了」されました。

しかし、その前に弟子たちに「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ福音書14章16-20)
という素晴らしい約束をされています。

イエスは、弟子たちに「わたしは死んで、あなたがたも死にます。」とは言われませんでした。

イエスは、あなたがたはわたしを見ます。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」と言われました。

わたしたちにとって、イエスは十字架で死んだ主ではなく、贖いを完了され、生きておられる主です。
イエスは救いを完了され復活をされた生ける主です。

主は生きておられます。それゆえ、わたしたちも永遠のいのちを受け、生きるのです。

もし、復活がなかったならイエスの十字架は福音ではありません。イエスが十字架の上で贖いを完了された三日後にイエスは、そのことばどおり復活をされました。これが、福音なのです。

イエスの復活こそが福音の中核です。

イエスの復活がなかったら、すべてのイエスの究極的な宣言やご自身をとおして述べられた素晴らしい約束は虚しいものとなってしまいます。

復活がなかったら、イエスがトマスに答えられた、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 という、究極的な宣言を証明する根拠は失くなってしまいます。
イエスは、神の唯一の御子メシアであり、イエスを見た者は父なる神を見たのだと宣言されました。さらに、「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」とも宣言され、死から三日後に復活されることを宣言されました。
もし、イエスが復活されなければ、イエスの言われた宣言のすべてが虚しく、偽りだったということになります。
イエスの復活がなければ、イエスのすべての宣言はペテンであり、大法螺だったということになります。
復活が歴史的事実であればイエスが神の御子であり、すべてのイエスの宣言が事実であるということが証しされます。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第一ペテロの手紙1章3)

イエスが生きておられるので、わたしたちも永遠に生きる希望を持ち、創造の神、生きた神のもとへゆくことができるのです。


イエスを通してでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができない、という宣言にたいして多くの人々が反発し、多くの人々がその人が生前に行った善行や瞑想によって神を想い、宗教的であったことによって天国に行けると主張しています。
宗教的になり、人の主観や想像によって神を拝んでも、その場合の神々は、人つくりだした神であり、御子イエスをとおしてでなければ、すべてを創造をされ、人創られた生ける唯一の神との接点を持つことができないのです。
イエスは、イエスを通してでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができない、という明確な宣言をされています。 
イエスをとおしてでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができない、という宣言はあまりに排他的で狭く、神は寛容でどのような方法であっても、人が真摯に神を求め、瞑想し、善行を積むことで誰でもが天国に行く、全能ですべての創造主である神のもとにゆくことが出来ると多くの人々が主張します。
しかし、もし、神にいたる道が広いというこの主張が通るなら、イエスを通してでなければ創造の神、生きた神のもとへゆくことができないというイエスの宣言は誤り、偽りということになります。
イエスの宣言が偽りであれば、どうしてわたしたちはイエスに信頼し、イエスが宣言されていることばに希望を持つことができるでしょう。
イエスの宣言はそれを受け入れるか、拒否するかの二つに一つの選択肢しかありません。わたしたちが人生の岐路に立たされるときに本当に選択をしなければならないのは、イエスの宣言を心を決めて受け入れるか、徹底的に拒否をするかという選択です。
イエスは、「わたしは生きるのです。あなたがたも生きるからです。」と宣言されました。
イエスが復活の生きた主であるからこそ、わたしたちも日々生きた神からの力を受け取ることができ、明日への恐れに立ち向かうことができるのです。
わたしたちは、イエスが生きておられ、今というとき、今日を支えておられることを信じることが出来るからこそ、明日に向かうことができるのです。
全能で全知の神がわたしたちと同じようになられ、わたしたちの問題のすべての根本原因となっている罪の問題を解決され、復活されて生きておられ、今日という日を支えておられるのであれば、どんな状況のなかでもわたしたちは支えられ、永遠の希望の確信を持つことができます。

主が生きておられるので、わたしたちは真理に歩み、いのちを得、創造の神、生きた神のもとへゆくという確信をもって人生の日々を歩むことができます。
イエスが道であり、イエスが真理であり、イエスがいのちであり、イエスを通して創造の神、生きた神のもとへゆくことを心を決めて受け入れることこそ、人生の岐路で常にわたしたちが選ぶことの出来る選択です。



 
ヨハネ福音書のメッセージ


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