ヨハネは福音書を記した目的を、20章で「イエスが神の子キリストであることを、あなたがた が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20章30,31)と、はっきりと述べています。
そして、福音書のはじめの箇所でことばについて多くのことを述べています。
まず、ことばが、はじめから神とともにおられた方だということが宣言されています。
このことばが、いちばん最初にすべての事柄、事態を生じさせるもとであり、このことばによってすべてが成り立っていること、そしてすべてのものは、この方によって造られ、造られたものでこの方によらずにできたものは一つもないことが宣言されています。
使徒パウロはこのことについて、
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ書1章16,17)と述べています。
ことばは、はじめにすべての事象を生じさせただけでなく、驚くべき複雑で精緻な構造や機能の変化にも、目的と秩序をを与え、万物がことばによって成り立っています。
ことばと訳されているギリシア語のロゴスλόγος log'-os という原語には、もともと流転する万物の存在に秩序と法則を与える根源的な唯一の存在という意味があります。
いちばんはじめにすべてを創造し、すべての事象をはじめに生じさせた知的な存在をヨハネは、 ことばと呼んでいます。
宇宙や自然を含むすべての被造物を観察するとき、驚くべき複雑で精緻な構造や機能が、偶然発生したのではなく、それらをデザインした知的な存在を認めざるを得ません。
万物はことばによって造られ、保たれています。
ヘブル書では、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル書1章1-3)と、述べています。
そして、ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた、という驚くべき宣言がされています。
すべての被造物が存在する前に、はじめにぞれらの存在を考えられ、デザインされた方が、被造物である人間と同じ肉体をとってこの世に来られたということは驚くべきことです。
これは、「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ書7章14)と、預言されたことの実現でした。
この福音書を記したヨハネ自身、十字架の贖いを完成され復活の後に昇天されたイエスのことを想って、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 」(第一ヨハネの手紙1章1)と述べて、自分たちが従った方が、はじめからおられた創造主だったという感動をあらわしています。
ことばは肉体をとってわたしたちの間に宿られました。
ヨハネはこの方の栄光、神の独り子としての恵みと真理に満ちた栄光を見、この方にいのちがあり、この方が世の光であることを体験しました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光がやみの中に輝いている。やみは光を消すことができなかった。」 (1章4,5)
いまだかつて神を見た者はいません。肉体をとってわたしたちの間に宿られたことば、父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのです。(ヨハネ福音書1章18)
わたしたちは、イエスを見ることによって、見ることのできない創造の神を見ることができるのです。
宇宙とそのなかにある全てを創造され、生ける唯一の創造主である神のみが真の神であり、その他の神々はみな偽りの神々です。
人はなんらかのかたちで神を礼拝せずにはいられません。すべての人が何者かを対象にして神とし、それを拝みます。
すべての人が人生に情熱を傾け、その人生の目標となるものを求めて生きています。
その人の人生にとって、一番生き甲斐となっているもの、例えば金持ちになること、有名になること、人に優って知識を得ること、権力を握ること、性的な満足を得ること等など、それらが人生の最終目標であるなら、その人が神と呼ばなくとも、彼の人生に とって、それが神なのです。
しかし、このような神は、人の人生に本当の喜び、平安、愛に満ちた関係を生み出しません。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。」(詩篇19篇1-4)と、詩篇の作者が詠んでいるように、自然の力、創造された様々な生命、その繊細なデザイン、素晴らしさを見るとき、創造の神の存在を認めることができますが、人はしばしば創造の神を拝むのではなく創造された自然を拝むという愚かな過ちをします。
宇宙や自然を含むすべての被造物、自然の圧倒的な力を見て、創られた自然を崇拝し、様々な
目に見える自分のイメージや、自分の納得できるもの、自分で理解し、感じ、自分の考えにあったものに依り頼み、太陽の持つ圧倒的なエネルギーを見て太陽を神としたり自然界に見られる様々な生命を見て、それらすべてを神々として崇拝の対象とします。
庭に咲くバラを手にとって、その美しい色や、花弁の微妙なデザインに感嘆して、手のなかにあ るバラの芳しい匂いを嗅ぎ、「あー、これは神だ。」と言うのは馬鹿げています。バラは神ではありません。
バラの色の美しさやデザインの繊細さをめでるとき、バラを創造された神に心を向けその素晴らしさを拝むとき、詩篇の作者が詠んだように創造の神の素晴らしさを認めることが出来ます。
人々は常にこれと同じ誤り、間違いをします。人は目に見える圧倒的なもの、美しいものを見るとき、それらのすべてを創造された方を拝まないで、その目に見えるもの、触ることのできるもの、感じることのできる被造物を拝むのです。
わたしたちが、神の言葉に従うことよりも自分の感情や理解を優先させるとき、見えない神を、人のかたちや、鳥、獣、はうもののかたちに似た物に代えて、なんらかの目に見える形であらわそうとし偶像を作り出します。
無限で永遠の神と有限な人との関係を結ぶ絆は、自然の力、滅ぶべき人間や、鳥、獣、創造された様々な生命に求めることはできません。
しかし、わたしたちは、行いや努力だけでは、創造主に手を伸ばし自分から永遠の神と直接関係の絆を持つことができません。
有限な人が無限で永遠の神に手を伸ばそうとしても、人にはその術(すべ)がありません。したら手を届かせ絆を結ぼうとしても、
自分では神に対して罪を犯した覚えがないのに、突然の計り知れない苦悶に出会ったヨブが、「何故、私がこのような重荷を負わなければならないのだろう。」という訴えに、ヨブを慰めに来た友人の一人は、「本当にヨブが神にたいして潔白であるのならば、それを神に訴え、全能の神の憐れみを請うのなら神はそれを聞いてくださる筈ではないか。」と、ヨブに迫りました。
これに対してヨブは、有限の人間が、自分の潔白を訴えようとしても、神は あまりに高く、深く、広く、長く、自分がどんなに手を伸ばしても、とうてい届かない方、どんなに頑張っても自分の努力によっては深い溝を、自分で埋めることなど決し てできないことを告白しています。
ヨブの叫びは、無限の創造者である神ご自身と等しい方が、有限な被造物である人とおなじようになって神と人との仲介をされる、そのようなことがなければ到底、人が神の前に訴えるということなど不可能だと訴えているのです。(メッセージ“神への探求参照)
肉体をとってわたしたちの間に宿られたことば、人としてあらわれてくださった神、イエスは無限の創造者、神と有限な被造物である人との仲裁者、仲介者としてこの世に来られました。
わたしたちはイエスに出会うとき、わたしたちが見ることのできない生ける慈しみの永遠の神に出会います。
イエス・キリストの栄光の御姿に触れるとき、ヨブと同じように、わたしたちも、どのような苦難の状況にあっても悲しみは深い魂の喜びに変えられます。
偶像の神々は人の神のイメージ、思いの投影です。しかし、創造の神の思いはわたしたちの思いと異なり、創造の神の永遠へ至る道は、わたしたちの道と異なります。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ書55章8-11)
イザヤは、創造の神が、盲人の目を開き、囚人を牢獄から解放し、闇の中に住む者を獄屋から連れ出し、先に起こることを告げ、それが起こる前に聞かせ、預言のことばを成就される神だと述べています。(イザヤ書42章-46章)
神は過去、現在、未来を同時に見られる時を越えた方、在って在る方です。預言のことばは、必ず実現します。
ヨハネは、この世に来られた神の独り子イエスが預言のことばの成就であり、人として肉体をとってこの世に来られた神のことば、イエスを受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになったと宣言しています。
無限で永遠の神と有限な人とを結ぶ絆は、自然の力、滅ぶべき人間や、鳥、獣、創造された様々な生命に求めることはできません。
イエスを自分の救いとして受け入れ、信頼する者には神の子とされる力が与えられます。
人がはじめに創造主である神の意図された神のかたちに回復される唯一の道は、肉体をとってこの世に来られた神のことば、イエスを受け入れ、生ける慈しみの神に出会うことです。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ福音書1章9-14)
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