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ヨハネの福音書の学び
背景
ヨハネの福音書は、イエスの降誕、十字架、復活までを記した四つの福音書の最後の福音書としてガリラヤの漁師の網元ゼベタイとサロメの息子、(マタイ福音書27章56、マルコ福音書15章40-41参照)兄のヤコブとともにイエスに従った弟子のヨハネによって記述されました。
ヨハネはこの福音書の他に三つの手紙と黙示録の五つの書物を新約聖書のなかに記述しています。
初期の教会の教父の一人イレニウスも異端的な教えに対抗して記した記述のなかで、ヨハネの福音書が使徒ヨハネによる記述であることを証ししています。
イレニウスは使徒ヨハネの個人的な弟子であったポリカープの直接の弟子であり、ヨハネからイレニウスまで直接的な繋がりがありました。
イレニウス以外にも初期の教会時代の教父とされるアレキサンドリアのクレメンテやオリーゲンたちがヨハネの福音書が使徒ヨハネの記述であることを記しています。
ヨハネは福音書のなかにヨハネ自身の名前を記述していませんが、自分自身のことを主イエスが愛された弟子と記しています。
イエスは、ヨハネのことを兄のヤコブとともに雷の子と綽名され、兄弟共に若いときは激しい性格であったようです。(ルカの福音書9章54、55、マルコの福音書3章17)
ヨハネは、イエスの弟子たちのなかで最も若い弟子としてイエスに従い、イエス・キリストの宣教、奇跡、十字架の贖い、復活と昇天を目のあたりにし、聖霊の降臨を体験し、一世紀の終わり頃に至るまで生き残った唯一の使徒であり、兄のヤコブ、弟子のペテロとともに、イエスが生前に活動されていたとき最もイエスの傍近くに仕えた弟子の一人でした。ヨハネは、イエスが十字架の上で息を引き取られたときにイエスの母マリヤの世話を引き受け、後年は愛の使徒としてエペソに拠点を置いて活動し、ローマ皇帝タイタス・フレビウス・ドミシャンの時パトモス島に島流しになり、ドミシャン帝の死後帰還したとされています。
ヨハネは福音書を記した目的を、20章で「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20章30,31)と、述べています。
ヨハネ福音書ではイエスの神性が強調され描かれています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つのそれぞれの福音書を通じて、マタイはイエスを王として、マルコがイエスを苦難の僕、犠牲として、ルカがイエスを「人の子」、完璧な人としてそれぞれ描いていることと比べ、ヨハネはイエスを神として描いています。
神の御座を守るケルブの四つの顔がそれぞれ獅子、雄牛、人、鷲をあらわし、それぞれが王、犠牲の僕、人、神の象徴となっており、イスラエルの民が荒野を旅したときにモーセをとおして示された天の御座を模して造られた幕屋を囲んで宿営した十二部族を三部族ごとに四つのグループ分けをしたときの四つの東西南北のグループの旗印が獅子、雄牛、人、鷲であったことと併せて4つの福音書がそれぞれの象徴に呼応していることは興味深いことです。
ヨハネの福音書には過ぎ越しの祭りについての記述が少なくとも三度ありますが、他の共観福音書には過ぎ越しの祭りの記述は一度しか述べられていません。
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの福音書)ではイエスのガリラヤ湖周辺での宣教が詳しく述べられているのに対し、ヨハネの福音書ではイエスのヨルダン川下流ユダヤ荒原とイエスが過ぎ越しの晩餐を弟子たちと共にされてからピラトによって十字架に架かられるまでの短い期間に記述の重点が置かれています。
ヨハネの福音書は明らかに他の福音書が記された後に記されており、ヨハネは一世紀の最後、紀元90年から100年頃にこの福音書を記したとされています。
ヨハネの福音書は、肉体をとって人としてこの世に来られたイエスの神性が強調されて述べられていますが、これは、すでに一世紀の終わり頃にイエス・キリストの神性を否定し、人としての神秘性だけを強調するグノシス派やアリアスが唱えたような異端的なイエスについての誤った教えを是正し、イエスの真の姿を伝えることが記述の目的の一つであったとされています。
他の共観福音書がイエスの語られた譬えを多く記述しているのに比較してヨハネの福音書は弟子たちとのより親密で個人的な関係が描かれ、比喩がより多く記述されています。
福音書のイエスについての記述もマタイの福音書がイエスの系図、イスラエルの民の族長アブラハムから始められ、マルコの福音書ではバプテスマのヨハネの洗礼、宣教のはじまりから始められ、ルカの福音書は祭司ゼカリアの召命から始められているのにたいして、ヨハネの福音書は、創世記ではじめに神が天と地を創造される以前に遡って始められています。
概要
I. 序章、はじめにことばがあった(1章1-18)
1)ことばは神であった(1章3)
2)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(1章14)
3)ひとり子の神が、神を説き明かされた(1章18)
II イエスがメシアであることの証し(1章19-51)
1)洗礼者ヨハネの証し(1章19-36)
2)アンデレの証し(1章37-42)
3)ピリポの証し(1章43-46)
4)ナタニエルの証し(1章47-51)
III ことばと行いによる証し(2章1-12章50)
1)イエスによるカナの婚礼での奇跡(2章1-12)
2)イエスによる神殿の清め(2章13-22)
3)イエス、エルサレムでニコデモの訪問を受ける(3章1-36)
4)イエス、スカルの井戸でサマリアの女に出会う(4章1-45)
5)ガリラヤのカナで役人の息子を癒す(4章46-54)
6)安息日にベテスダの池で三十八年病の床にあった男を癒す(5章1-18)能動的信仰
7)イエスは神と等しい(5章19-47)
8)ガリラヤの湖の畔に於いてでパン五つと小さい魚二匹で五千人の群衆の空腹を満たす(6章1-14)
- 湖の上を歩くイエス(6章15-21)
- 天からの命のパン(6章22-59)
- イエスにつまずく者(6章60-71)
9)イエス、仮庵の祭りにエルサレムの神殿で聖霊について教えられる(7章1-53)
10) イエス、姦淫の女を赦す(8章1-11)
- イエスは世の光、(8章12-20)
- イエスは誰か(8章21-30)
- イエスは真理(8章31-47)
- アブラハムの生まれる前からわたしはある(8章48-59)
11)イエス、シロアムの池で安息日に盲人の目を開く(9章1-41)
- イエスは世の光、(8章12-20)
- イエスは誰か(8章21-30)
12)イエスは良き羊飼い(10章1-42)
- イエスの人性(10章1-21)
- イエスの神性(10章22-42)
13)イエス、ベタニアで死んだラザロを生き返らせる。(11章1-57)
14)イエスのユダヤ人と異邦人への証し(12章1-50)
- イエス、ベタニアで香油を注がれる(12章1-11)
- イエスのエルサレム入城と群衆の歓呼(12章12-19)
- 豊かに実を結ぶ一粒の麦(12章20-26)
- 十字架の予告、イエスのとき(12章27-36)
- 人からの栄誉、神からの栄誉、光のなかを歩む(12章37-50)
IV. イエスの弟子たちへの証し(13章-17章)
1)イエス、弟子たちの足を洗う(13章)
2)イエス、弟子たちへの栄光の未来の約束を与える(14章)
3)イエスがぶどうの木、弟子たちが枝であることを比喩によって語られる(15章)
4)聖霊が来ることを約束される(16章)
5)イエスの祈り (17章)
- イエスご自身の祈り(17章1-5)
- イエスの弟子たちのための祈り(17章6-19)
- イエスのイエスを信じるものへの祈り(17章20-26)
V.この世への証し(18章-20章)
1)イエスの逮捕と裁判(18章)
- ゲッセマネの園での裏切りとイエスの逮捕(18章1-11)
- 大祭司アンナスとカヤパの前で(18章12-14、19-24)
- ペテロ、イエスを否む(18章15-18、25-27)
- 総督ピラトの前で(18章28-40)
2)イエスのゴルゴダの丘での死、アリマタヤのヨセフの墓への埋葬(19章)
3)イエスの復活(20章)
VI. 終章、栄光の結末(21章)
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