圧倒的な神の恵み(第二サムエル7章18-22)

エルサレムをエブス人から奪取し、ペリシテ人を打ち破り、ダビデの町を建造し、神の契約の箱を運び入れ、エルサレムをイスラエルの国全体が神を礼拝する中心の地とし、ダビデはイスラエル全土の王として、香柏の素晴らしい宮殿で、神の与えられる安息に、満たされた日々を過ごしていました。
そんなある日、ダビデは、「この私が香柏の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっている。神の契約の箱を安置する、素晴らしい神の宮を建造しよう」という思いに駆られ、友人の預言者ナタンを呼んで、この思いを実行に移すべく打ち明けました。
これを、ダビデから聞いたナタンは、「どうぞ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたと共におられるのですから。」と、ダビデの思いに賛同しました。
ところが、その夜、主のことばがナタンに臨んで「ナタン、あなたはあまりに性急にダビデの思いに同意した。行ってダビデに告げなさい。ダビデは、わたしのために宮を建てることはできない。彼は戦いであまりに多くの人々の血を流した。彼の手は血塗られている。あなたは、ダビデが神の宮を建てることはできない、という悪い知らせを告げなければならない。」と言われました。
しかし、 「主はダビデに『主はあなたのためにひとつの家を建てる』 わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼は、わたしのために、ひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」という良い知らせをも告げるよう命じられました。

「神がダビデのためにひとつの家を建てられ、その王国の王座はとこしえまでも堅く立つ」という約束がナタンをとうして告げられたとき、ダビデは自分の子孫から油そそがれたメシア、王が家を建て、とこしえまでもその王国の王座を堅く立てるということを、正しく理解しました。
ナタンから、この知らせを聞いたとき、ダビデは神の圧倒されるような恵みに自分自身を抑えることが出来ず、ひとり神の前に座して、
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。 神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。」
という感嘆のことばを発しました。


神は、ダビデに、すでにいままで何をダビデにして下さったのかを思い起こさせてくださっています。神は、ダビデに「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。」ダビデは、多勢いた羊飼いの少年の一人でした。現代もイスラエルのベツレヘムの丘を訪づれると、羊飼いの少年が羊を追う姿をみることができます。羊飼いというのは、社会的には身分の低い職業でした。神は、ダビデを羊飼いという身分から、神の選ばれた民の君主、王として王座に引き上げられました。
そして、神はダビデに「あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。」と、どのような場合にも共におられたことを思い起こさせられました。
ダビデが、ペリシテ人の巨人ゴリアテと戦ったときも、敵に対峙するときも、初代の王サウロに命を狙われ追われたときも、どこにいても神はダビデと共におられました。
ダビデは、神が「羊の群れを追う牧場からとり、イスラエルの君主とし、どこに行っても、共におり、あなたの前で、あなたのすべての敵を断ち滅ぼした」ことを忘れませんでした。


神に信頼して歩むことは、いろいろな問題や困難を回避できるという保証にはなりません。
神に信頼していても、あなたの人生は、他の人々と同じように問題や困難に遭遇します。
しかし、聖書は、「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」(詩篇34:19)と、言っています。そして、ダビデ自身「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)と、言っています。
神は、人生を歩むときに起こる問題や困難を回避はされませんが、神に信頼する者と共に人生を歩んで下さり、そのすべてを相はたらいて共に益としてくださるのです。(ロマ書8章28参照)


神は、ダビデを羊の群れを追う牧場からとり、イスラエルの民の君主とされ、どのようなときにも共におられました。そればかりか、ダビデに、地上の大いなる者の名に等しい名を与えると言われ、「あなたのためにひとつの家を建て、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼は、わたしのために、ひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」という約束を与えられました。
油そそがれた王メシアがひとつの家を建て、王国の王座は永遠に続き、堅く立ち、アブラハムの末、ダビデの系図から来る方によって、そのことが成就するという神の約束ほど素晴らしい確かな約束はありません。
ダビデは、自分の子孫からメシア、油そそがれた神の御国の王が来られるという神の約束を正しく理解しました。
メシアがアブラハム、ダビデの末から出るという神の約束は、素晴らしい約束であり、ダビデは、このあまりの恵みに圧倒されてことばを失いました。


聖書の詩篇のほとんどはダビデによって詠われたものとされています。わたしたちが偉大な神への感謝、賛美、自分の悲しみや孤独、苦難について神に叫ぶとき、その感情をことばで表現しようとしてことばを探すときに、ダビデの詠んだことばをとうして、感情を表現をすることができます。
それほど、感情をことばで表現することに優れたダビデが、ことばを失うほど神の恵みに圧倒されたというのです。
神の恵みの素晴らしさに本当に触れた人は、その恵みの圧倒的な素晴らしさに、それを表現する
ことばを失います。
後に、使徒パウロも、第三の天に引き上げられる体験をしたときのことを表現しようとしましたが、そのあまりの素晴らしさにことばでは言い尽くすことができない、(第二コリント諸12章4節)と、言っています。


わたしたちにとっても、神がわたしの罪を完全に贖って下さり、状況を超えていつも共に居られ、わたしを敵から守られ、そればかりか、わたしたちをキリストと共に神の御国を共に受け継ぐ者、キリストの共同相続人として下さったという約束が本当に、わたしのための約束なのだということを知り、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったもの」を、体験するとき、神のわたしたちに与えられた圧倒的な恵みにことばを失います。



 
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