告白と赦し(第二サムエル12章13、14)

ダビデの罪の告白は、当を得た真実の告白でした。人の目に見える罪も、隠れた罪も、神の意思からは外れたものであり、神に対して犯している過ちです。
ダビデは、神の御心を知った上で、主なる神に罪を犯しました。

王たちが戦いに出るときになって、ダビデは直属の将軍ヨアブをアンモン人との戦いの前線に送り、自分はエルサレムの都にとどまりました。ある日、昼寝から目覚め、宮殿の屋上を散策し、何気なく街を眺めていたダビデの目に、ある家の屋上で美しい女が水浴びをしているのが留まりました。ダビデは使いを遣り、彼女を宮殿に迎え,そそのかし、誘惑しました。
しばらくして、ダビデは彼女が妊娠したことを知らされました。


これを聞いたダビデは、自分の咎をうまく誤魔化し、覆い隠すために、女の夫ウリヤを戦場から呼び戻し、戦況報告をするよう将軍ヨアブに命じました。そして、現場の兵士の士気や戦況を聞いた後で、ウリヤに家に戻り妻との一夜を過ごすことを命じ、そのうえでもう一度詳細を聞きたいと申し付けました。
ところが、ウリヤは、「仲間の兵士たちが戦場で戦っている最中に自分だけが妻とのんびり過ごすことなどできない。」と言って、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰りませんでした。
これを聞いて、ダビは、「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」とウリヤに命じ、ウリヤをその日と翌日エルサレムにとどまらせ、彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、その時のことを覚えていないほどに彼を酔わせ、家に帰そうとしました。ところが、その晩もウリヤは、自分の主君の家来たちといっしょに王宮の門のあたりで寝、自分の家には行きませんでした。


誤魔化によって罪を覆い隠そうとする時、問題は雪だるま式に大きくなります。
ダビデは、次の計略を実行に移しました。
「最も激しい戦闘部隊にウリヤを配置させ、戦死させるように。」という密書を将軍ヨアブに書き送り、それをウリヤに持たせて戦場に戻したのです。
しばらくして、戦場の将軍ヨアブから、アンモン人の城壁を攻める際に先陣部隊の幾人かが戦死したことを知らせる報告がきました。それには、敵の城壁に近づき、味方の兵士を損失させたヨアブの作戦をダビデから咎められることのないよう、戦死した兵士のなかにはウリヤがふくまれていたことが報告されていました。

これを聞いたダビデはヨアブの戦略の拙さを責めず、この戦闘で戦死したウリヤを弔い、その喪が明けると妊娠している未亡人となったバテシバを後宮に迎え、自分の妻としました。
こうして、ダビデは人々の目からは、自分の戦士たちを思いやり厚い弔いと未亡人となった兵士の妻を召しいれる恵み深い王のように振舞うことに成功しました。


罪を覆い隠し、他からは何事もなかったかのように見せかけ振舞うのは、わたしたちの本能的とも言える罪の性質です。この罪の性質は、神のことばに背いたはじめの人アダムとイブに遡ります。彼らは、罪を犯した後で神から隠れ、いちじくの葉で身を覆い隠そうとしました。わたしたちも、罪だけでなく罪の意識も覆い隠そうとします。
神に「わたしが罪を犯しました。」と告白する代わりに、「あなたが与えて下さった女が、わたしを罪にひきずり込み、誘惑し、食べてはいけないと言われた木の実を渡したのです。」と、アダムは罪の責任をイブとイブを与えられた神のせいにしようとしました。
イブも、「あなたは一体なんということをしたのか。」と言われたとき、「蛇がわたしを惑わしたのです。」と言っています。
誰も、自分の罪を認め、告白したくはありません。最も難しいことばは、「わたしが悪かった。」「わたしは罪人です。わたしは、罪を犯しました。」という告白です。人は自分の罪を認め、罪の告白をするよりも、それを隠し他のせいにするのです。


わたしたちは、偽りによって自分の罪を覆い隠します。どんな子供でも、親が嘘をつくことを教えなくとも嘘をつくことを覚えます。子供たちの口の回りにクッキーのチョコレートがくっ付いているにも拘わらず、親が「誰がクッキー食べたの。」と聞いても、「僕じゃない。」「わたしじゃない。」という返事が先に返ってきます。わたしたちは、母親の胎を出たときから嘘をつくことを知っています。

人が嘘をつくのは、わたしたちの罪の性質です。人は偽り、嘘をつくと自分の嘘を覆い隠すためにさらに嘘、偽りを重ねます。そして、嘘が積もり積もると、どこまでが真実であったのかが自分でもわからなくなってしまいます。
聖書は、「自分のそむきの罪を隠すものは、成功しない。」(箴言28章13)と、宣言しています。 


自分の罪と罪意識を隠そうとするかぎり、わたしたちの罪の赦しと罪意識からの解放はありません。
罪を隠し、罪意識から逃れるために、わたしたちは言い訳と、自分の正当化のために問題を常に自分以外のものに向けます。
人は、自分の罪を覆い隠し、自分を正当化し、いかに自分が正しく、他がいかに自分をそのような状況に追いやっているのかという言い訳と責任転嫁をしますが、罪を覆い隠そうとすればするほど、逆に罪はますます重くのしかかってきます。
ダビデは、罪を告白せずに覆い隠そうとしていたときのことを詩篇に詠んでいます。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇32:3)
罪を神に告白しないとき、あなたは常にうちに悶々とし、心には平安がありません。ダビデは、「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききった」と、言っています。


ダビデは、人々の目からは上手に自分の罪を隠しましたが、神からは逃れることができませんでした。神の御手が重くのしかかり、きっと、人々が「あなたは戦士した部下の妊娠した未亡人を宮殿に引き取られた、恵み深い王です。」というのを聞いて心の内では神の御手が重くのしかかるのを感じていたことでしょう。

他の人に決して知られない罪を隠し続けるとき、真夜中にそのことを思い巡らし、眠ることができないということが起こります。自分をどのように正当化しようかと思いめぐらすとき、神の御手は重くあなたにのしかかります。「御手が昼も夜も重くのしかかり、骨髄が、夏のひでりでかわききった」ようになり、神が共におられるという喜びは失われ、生きる気力は失われ、霊の死が訪れ、心の内側から死がもたらされます。
よく犯罪人が逮捕されると、逃亡のすべてが終わりになってホッとしたという話を聞きます。もう逃亡を続けなくとも済んだというとき、人は息をつくのです。


ダビデは自分のしたことをよく知っていました。
ダビデの友人、ナタンが来てダビデに、「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。
富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、
貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」(第二サムエル木12章2-4)という話をしました。
これを聞いてダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに「そんなことをした男は死刑だ。 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」と、言いました。

ダビデだけでなく、自分の罪と同じような罪を犯す者の罪は、余計に目障りで、それに重い罰を科すことで、自分の罪意識から逃れようという心理が働きます。ダビデにとって、貧しい人の子羊を取り上げて自分の客に饗した富んだ人の仕業は、自分の罪の意識を思い起こさせる重い罰を科さずにはいられない罪だったのです。

そのとき、ナタンは、ダビデに「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』
主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」(第二サムエル木12章7-12)と告げました。


このとき、ダビデは、ナタンに「私は主に対して罪を犯した。」と、自分の罪を告白しました。このとき、ナタンは、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(第二サムエル12章14) と宣言しました。
ダビデは、ナタンの話を聞いたとき、実際には自分自身にたいして審判を下したのでした。
ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と、神はダビデが罪の告白をした瞬間から罪が赦されたことを宣言しています。

わたしたちも、自分の罪を正当化せず、神に罪の告白をする瞬間に、神は赦してくださいます。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネの手紙1章9)
「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55章7)とイザヤも言っています。


神の赦しは、わたしたちが罪の告白をするときにのみ可能です。わたしたちが、自分が罪人であることを認め、心の戸を開くときに、神はわたしたちの心の内側に入り、わたしたちを、内側から清めてくださいます。

神はダビデの罪を赦され、死なないで済みましたが、自分の蒔いた罪の刈り取りをしなければなりませんでした。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ書6章7)
自分の蒔いた罪の後始末は、しなければならないのです。
「ダビデの家から剣は離れることはなく、隠れておこなった姦淫は、あなたの親しい者が白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。ダビデに生まれる子は死ぬであろう。」という宣告のように、後の箇所を読むと、罪の結果がどのようにダビデとその家族に及んでゆくのかが記録されています。

預言者ナタンは、ダビデが罪の告白をしたとき、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」と、言っています。
ダビデは神と心をひとつにし、詩篇の大半を詠んだ王でしたが、ナタンは、「あなたの罪によって、あなたの敵から神を侮る口実を与えた」と言っています。
クリスチヤンが罪を犯すとき、罪を告白し、神からは赦されても、この世の人々、神に敵対する人々に、神を余計に侮る口実を与えるのです。
さらに、ナタンはダビデに「あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」と宣告しました。ダビデが神に嘆願し、断食し、祈りましたが、ウリヤの妻がダビデに産んだ子は撃たれて死にました。
罪の結果は人生に必ず傷跡を残し、自分自身をも死に至らしめる悲惨を招きます。


ダビデは詩篇32編の冒頭で、「 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32編1-2)と言っています。
 
大切なのは、罪を神に告白し赦されることです。
神は「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやす。」(エレミア書302章17)といわれています。
神はその恵みによって、赦された者に素晴らしい回復をもたらされます。
罪を神に告白し、神からの赦しを得られるということは素晴らしいことです。



 
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