愚かな人生(第一サムエル記26章21節)

イスラエルの初代の王として油を注がれたにも拘わらず、サウロは、ダビデが巨人ゴリアテとの一騎打ちに勝って、ペリシテ人との戦いから帰ってきたとき、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌うのを聞いたときから、ダビデに嫉妬し、それ以来、ダビデを疑いの目で見、ダビデを殺そうとつけねらいました。

ジフの荒野にダビデがサウロの追手を逃れたとき、サウロはダビデの隠れ家へ3千人の精鋭を率いて下ってきました。サウロの動向を察知したダビデは、供のアビシャイを一人連れ、夜にサウロの陣へ忍び込みました。
サウロと身辺警護のアブネルと兵士たちは、深い眠りに陥っていました。サウロの枕元には槍が地面に突き刺したままになっており、水差しがおいてありました。

これを見たアビシャイは、「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」 と申し出ましたがダビデはアビシャイに「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」と言って、サウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去りました。そして、 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立って、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」 そのとき、これに気づいて、ダビデに発したのがサウロの21節の言葉でした。


多くの場合、人は内側にある悪意に満ちた思いや、愚かな動機について、それが、神に喜ばれるものかどうかを知っています。わたしたちは、自分の心に秘めた悪意や、愚かな動機が誤ったものであることを知っています。人は自分が誤っていることを認めたくはないゆえに、それらを他人には知られないように心の内側に押し込め隠そうとします。
しかし、全く他を意識しない時や、驚きや恐怖にかられたとき、突然本音が漏れることがあります。
サウロがダビデに発した「ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」という言葉はサウロの本音であり、自分の人生に対する後悔の言葉でした。


このように、自分の人生に対する後悔を吐露したサウロの生涯がどのようなものであったのかをもう一度振り返ってみるとき、わたしたちが生涯を悔いのないものとするための参考とすることができます。

サウロは、神からいろいろな賜物を受けていました。最初にサウロが登場したとき、聖書は、ベニヤミン族の特別に容姿の美しい若者であったと紹介しています。(第一サムエル記9章)さらに、彼は、イスラエルの他の男たちの誰よりも背丈が高く、他と比べたとき、彼は肩から頭の部分が頭抜けた偉丈夫でした。偉丈夫で特別に容姿が美しくても、それだけで人が偉大であるかどうかの尺度にはなりえませんが、(日本でもウドの大木という表現があります)それらの賜物は、わたしたちにとってあきらかに、人生を生きる上で有利な資質であるといえます。さらに、サウロは、家庭における絆が強く、父親との関係も愛情と思いやりに溢れたものであったことが、父キシュの雌ロバを探し巡り歩き、ロバがみつからないとき、「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」と、連れの若者に言っていることからも伺われます。

これだけでなく、最初にサウロがサムエルに出会い、神がサムエルに告げてサウロをイスラエルの王として油を注ごうとしたときにも、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」と、答えているように、謙虚であったことがわかります。


イスラエルの民衆がイスラエルの最後の士師サムエルに、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入りませんでした。そこでサムエルは主に祈ると、主は「民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」(第一サムエル8章7,8節)と、答えられました。

神は、民が直接に神によって治められるかわりに、王をとおして民が治められることを許されました。民は王が完全に神に従い、神と心をひとつにする人であることを見て、民が神に従うようにするように意図され、きたるべき神の御国、民を治める王の姿を示されようとしたのです。
王は、神の器として立てられたのでした。
神はわたしたちひとりびとりの人生に、それぞれが神のご計画の器として使われることを望んでおられます。

初代の王として油を注げれたサウロは、神が与えられた素晴らしい可能性を持っていました。サウロには、生まれながらに与えられた賜物だけでなく、神に心を動かされた男たちに囲まれ、彼自身にも神の霊が注がれるという素晴らしい機会と可能性が与えられていました。(第一サムエル10章26節)

このような、恵まれた資質と、神から与えられた可能性にもかかわらず、何故サウロは、自分の人生がまちがった人生であったと、吐露せざるを得なかったのでしょう。


第一には、サウロは、神からの呼びかけに素直に足を踏み出さず、神からの呼びかけから隠れようとしました。
サムエルがイスラエルの全部族を呼び集め、王を立ててサウロを選び出したとき、サウロは荷物の陰に隠れてすぐに姿をあらわしませんでした。これは、サウロの謙遜ではなく神の呼びかけに対する不従順、すくなくとも躊躇でした。(10章22節)
第二には、 ペリシテ人とのミクマスの戦いにおいて、千人の兵を与えられたヨナタンが、ペリシテ人の守備隊長を討ったとき、自ら角笛を吹いてイスラエルの全軍に自分の兵の功を誇り、他の人の栄誉を自分のものにしようとしました。(13章3節)
第三には、戦闘の前に、戦勝祈願のための全焼のささげものを捧げるために、サムエルが来るのを待つように言われたにも拘わらず、サムエルの到来を待ちきれず、サウロは自分で勝手に全焼のいけにえをささげました。サウロは、王としての召命を受けましたが、祭司としての役割はサムエルに委ねられていました。サウロは自分が召命をうけていない、他の領域を勝手に踏み越え、犯しているにもかかわらず、そのことに対し、自分の立場を強弁しました。(13章10-12節)
第四には、ヨナタンと道具持ちの若者の勇敢な行動によって、ペリシテ人の先陣が打ち破られたのを機に、サウロはペリシテの全軍を討とうとして、イスラエルの兵に「ペリシテを掃討するまでは、誰も食べ物を口にしてはならない。もし食べ物を口にする者がいれば、その者は殺されねばならない。」という愚かな誓いをしました。(14章24節)
第五には、神によって、サムエルからアマレク人を滅ぼすように、絶滅するように、命じられ、アマレク人と戦ったとき、戦闘には勝利しましたが、サムエルをとおして神から命令された「アマレク人を絶滅せよ。」という言葉に従わず、アマレク人の羊や牛の群れの最もよいものを自分の戦利品として残し、アマレクの王アガグをも殺さず、生け捕りにしておきました。このときも、サウロは、サムエルの神にたいする不従順に対する咎めに、言い訳と自分の立場を強弁し、このために、サムエルによって、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(15章22、23節)と、宣言されました。
最後に第六には、ギルボア山に陣を敷いてペリシテとの決戦に臨んだとき、サウロはペリシテの陣を見て恐れ、神に伺いをたてましたが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、神が禁じられたこの世の霊、(申命記18章9-14節)口寄せの女によって助けを得ようとしました。


もしあなたに、人生の利点となる特質や賜物が与えられていたとしても、それだけでは、あなたが人生において、成功し、豊かな満ち足りた人生を送る保証にはなりません。

このサムエル記に記されたサウロの生涯をとおして、素晴らしい特質や賜物を与えられたとしても、このような利点を無為なものとしてしまう人生を送ることがあるのを見ることができます。
神の言われることを無視し、自分の意思を優先させる人生には実りがありません。神が意図された人生を歩まないのは、愚かなことをして、たいへんな誤りであった、と嘆く人生です。

神から与えられた召命のなかに一歩を踏み出さず、そこから隠れようとしたり、他に与えられるべき栄誉を横取りし、自分のものとしようとする人生、自分の召されていない領域で神につかえようとし、自分の気分や、思いつきで馬鹿げた誓いを神にする人生には後悔があります。

不完全な従順と妥協の人生、自分の非を認めず、神に言い訳をする人生、神にあって協力すべき友に嫉妬し、これを敵視する人生もたいへんな誤りです。聖霊ではない、悪霊に方向をもとめるときにも、人は必ず生涯の終わりに、愚かでたいへんな誤りであったことを後悔するようになります。


わたしたちが、自分の人生を満ち足りたものとする唯一の道は、神が御子キリストの贖いと罪の赦しをされたことを受け入れ、神のあなたに対する人生のご計画、神の御心を知り、それに信頼し、あなたが自分の人生を神に明け渡すことです。

もしどんなに恵まれた特質や賜物を与えられても、自分の為だけにそれを使って過ごす人生は、生涯の最後に、愚かで誤りをした人生に後悔することになります。

神は、わたしたちを愛しておられ、ひとりひとりに最善のご計画を持っておられます。神の意思、神のご計画に従順にすべてを委ね、神に信頼し続けることこそ、わたしたちが人生を意味のある、満ち足りたものとすることができるのです。



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