アマレクを絶滅せよ(第一サムエル15章1-3)


イスラエル最後の士師、預言者サムエルは、サウロに油を注ぎ、イスラエルの初代の王として民の前に任命しました。
そして、サウロが、初期の戦闘で勝利をおさめた後に、神の命令として「アマレク人を打ち、そのすべてのものを容赦せず聖絶し、男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺す」ことを告げました。


このように、峻厳な神の命令に、ある人々は疑問を持ちます。そして、旧約聖書にあらわされる神と、新約聖書にあらわされる神は別な神なのではないかとさえいう見方をすることがあります。
このような人々は「独り子を賜るほどにこの世を愛される」神と、「アマレクの民を打ち、そのすべてのものを容赦せず聖絶し、男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺す」ことを命じる神とがおなじ方であるということを受け入れることに困難をおぼえるのです。
聖書全体を読むとき、旧約聖書のなかにも、神が愛に満ち、忍耐と寛容と慈愛に溢れるかたであることが描かれています、そして、新約聖書のなかにも神の怒り、神の憤りの杯があふれ容赦ない裁きが行われることが描かれています。
神は、旧約聖書でも新約聖書でも、愛と寛容な方、罪を赦され、慈愛に満ちた方であり、同時に、正しく、義なる方、背きと不義にたいする完全で峻厳な裁きをされるかたです。
不義や罪とは決して相容れない神の峻厳さと、神の愛、寛容さ、とがどのように整合するのか、理解に苦しむ人があります。


神が「アマレクを聖絶せよ。」というような厳しい命令をされることが理解できないのは、神が、そのような峻厳な命令をされるに至った背景や歴史を知らないことが、主な理由です。

アマレク人は、歴史に記録されている民族のなかでも、特に邪悪で不道徳で卑劣な民族であったと言えるでしょう。彼らの慣習や文化そのものが、すでに自滅への道を歩むものであり、彼らの成人人口全体が性病に冒され、そのままであれば当時の古代社会全体に滅びをもたらしかねない状態でした。多分現代のエイズのような伝染性性病が蔓延していたのでしょう。

このようなアマレク人を、神はイスラエルの民をとおして除くように命じられたのです。アマレク人は、ちょうどわたしたちの体内に癌の腫瘍を見つけ、それが拡がって命取りになる前に腫瘍の除去をしなければならないような状態にありました。誰も、癌の除去手術を望む人はいません。
手術は決して喜ばしいものではないからです。しかし、命を救うために、その過程がどんなに苦痛を伴うものであっても、しなければならないことがあるのです。
イスラエルの民が存続してゆくために、神はイスラエルを使ってアマレクを裁くための器とされました。

アマレク人について最初に記述されているのは、イスラエルの民がエジプトをモーセに率いられ出た後で、レフェデムを通るとき、神の民を攻撃するために出てきたことが民数記17章に記録されています。このとき、アマレク人は、イスラエルの民を後方から攻めました。後方にいた年寄り、病気がちの人々は、行進に追いつくのがやっとの状態で、この後方の群れは、疲れ、弱った人々でした。
イスラエルの民のなかで一番弱い部分にアマレクは襲いかかったのです。
この戦いのときに、モーセはヨシュアを戦闘に送り、モーセが手を上げている時はヨシュアの軍が優勢となり、モーセの腕が疲れて手が下がるとアマレクが優勢となりました。アロンとフルが両側からモーセの腕を支え、モーセが岩に座って一日中手を上げ続け、アマレクに勝利したのです。
その後、申命記の25章でも、神はモーセをとおして、民が約束の地に入り、主が周囲の敵からイスラエルを解放され、休息を与えられるとき、「イスラエルの民はアマレクの記憶を天の下から消し去るように、それを決して忘れてはならない。」と命じられました。(申命記25章17-19 参照)


神はイスラエルがアマレクを滅ぼさないかぎり、戦いはいつまでも続き、アマレクとの妥協や和平があり得ない、と宣言しておられます。
ここから、聖書ではアマレクが、肉の思い、肉に潜む罪のタイプとなっています。クリスチヤンは、肉の思い、肉に潜む罪との戦いに生涯さらされます。

「肉の願うことは、御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのです。この二つは互いに対立していて、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。」(ガラテヤ書5章17,18参照)
アマレクがイスラエルの最も弱いところを攻撃したように、肉の思い、肉に潜む罪は、わたしたちの最も弱いところに攻撃をしかけ、わたしたちを滅ぼすため常に戦いをしかけてくるのです。


神は、はじめ人を創造されたとき、人を霊と魂と肉体によって成り立つものとして土地のちりで人をかたちづくり、その鼻にいのちの息を吹き込まれて生きたものとされました。(創世記2章7 参照)神は霊であり、神に似せて造られた人の本質は肉体のうちに宿る霊なのです。肉体はわたし自身の本質ではなく、わたしという霊が宿るテントのようなものです、そして、わたしは、わたし自身を意識することのできる魂を持っているのです。

人の肉体ということだけを見ても、それがいかに精巧にデザインされ創られているかを知るとき、その神秘に打たれます。詩篇のなかで、ダビデは「このような知識は、あまりにも高くて、及びもつきません。」と言っていますが、このわたしが住んでいるテントでさえ人の知識では及びもつかないデザインによって構成されていることを、医学の進歩によって、そのデザインの一部が解明されればされるほど、わたしたちは、その精巧さに驚かされます。

神は人が霊によって支配され、霊にあって、神の霊との深い交わりを持つことができるように意図されて人を創られました。わたしたちは、御霊の思いに支配されるときに神との本来の交わりを持つことができるのです。


神は、わたしたちが肉の快楽や肉の思いに虜となってしまうためにわたしたちの肉体や器官を精巧にデザインされた訳ではありません。
わたしたちが肉の欲に支配され、肉の思いによって生きるとき、わたしたちは、神が創られたこの肉体を本来意図された機能と見当はずれの誤った使い方をし、神の計画された生き方とはほど遠い生き方に変えてしまうのです。

神が創造のときに人の肉体に組み込まれた機能は、素晴らしいデザインがされています。神は、人の肉体のこれらの機能を、それぞれの役割のなかで、神の栄光をあらわすことのできる道具として与えてくださいました。

人は、罪によって、与えられた肉体の機能を、神の栄光をあらわす道具として使うという本来の神の意図から、自分自身の肉の欲望や刺激を満たすための道具として用いるという誤った使い方をするようになってしまいました。
わたしたちが呼吸をし、水を飲み、食べ物を食べ、性欲を持ち男と女が結ばれることも、肉体というテントをとおして、神の祝福を喜び、栄光をあらわすという目的のために与えられました。

もし、肉体が、その欲求、刺激を満たすことだけに支配され、虜になるとき、肉体の機能自体も維持することができなくなり、肉体の機能も損傷し、朽ちてゆきます。


わたしたちはこの肉体にあるかぎり、わたしたちの魂が、肉の思いに支配されるか、霊の思いに支配されるか、という戦いのなかにありこの戦いは永く続く、と 神は宣言されておられます。

もし、わたしたちが、自分の思いを霊の支配に委ねるのなら、神を意識する神との交わりの人生を歩み、神から来る本当の喜びと平安を体験することができます。
一方 もし、肉の思いに捉われ、支配されるならば、わたしたちの人生の歩みは肉の欲に束縛され、それに仕え、神との交わりから離れ、肉体が朽ちて滅びるだけのものとなります。

このように、アマレクが肉の思い、肉の欲のタイプであることを見るときに、神が「アマレクを絶滅せよ。」といわれた意味が理解できます。


この聖書の箇所で、サウロは、「アマレクを絶滅せよ。」という神からの命令を受け、アマレク人と戦い、勝利を与えられました。しかし、サウロはアマレクの王アガグを生け捕りにし、神の命令に従わず、最もよい羊と牛を生かして残しておきました。
そして、預言者サムエルが、すでに年老い目がかすみ、見ることができないことを見越して、彼がやってきたとき、「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」と言いました。このとき、サムエルの「では私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」 という問いに
サウルは「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」と答えました。このとき、サムエルはサウロに「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。
主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』と言われたのに
あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」そして、
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル記15章19-23)
という宣言をサウロにし、踵をかえしてサウロのもとを去ろうとしました。
サウルはサムエルの上着のすそをつかんで引き留めようとしましたが、上着が裂け「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。
実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」(第一サムエル15章28,29)という最後通告を与えました。
サウロは、神の命令に完全には従わず、アマレクを絶滅しませんでした。


聖書は一貫して、「わたしたちが肉の死ぬべきからだを、その情欲と共に十字架に架けて滅ぼしてしまいなさい。罪にある肉のからだを死んだものと看做しなさい。」と、命令しています。
「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ロマ書8章11-13)  

後になって、イスラエルがバビロニア帝国によって滅ぼされ、捕囚となった民がペルシャ帝国の時代になったとき、ペルシャの王アハシュロスの宰相であったハマンは、宮殿から外出するとき、すべての民が彼に跪くのに、ただ独りハマンに跪くことをしないモルデカイを憎み、彼がユダヤ人であることを知って、モルデカイ一人を殺すだけでなく、帝国内のすべてのイスラエルの民を絶滅しようと王に謀ってユダヤ人絶滅の布告を出すことに成功しました。モルデカイの姪であり、アハシュロスの后となったエステルによって、危うくこの陰謀は覆されたことを、エステル記の記述を見るとき詳細を知ることができます。(エステル記 参照)
このイスラエル民族絶滅を企てたハマンがアガグ人、アマレクの子孫であったことを知り、サウロが「アマレクを絶滅せよ」という神の命令に不従順であったことの影響が後の時代にまで続き、サウロ自身、ペリシテ人との戦闘で命を落とす最後のときにもアマレクの若者がサウロの最後にかかわっていたことを知るとき、アマレクを絶滅しなければ、イスラエルもサウロ自身も滅びの淵に立たされることになったことを見ることができます。(第二サムエル1章8-10参照)


神は、わたしたちの肉の思い、肉の情欲をすべて殺し、絶ってしまいなさいと命じておられます。わたしたちは、神のそのような命令が極端なものに思えることがあります。「わたしたちのうちにだって少しは良いものがある筈だ。」と思うのです。わたしたちの肉の思いにでも少しは認められるものがあるのではないか、もう少し努力して自分自身を改革し、悪い部分を直せば結構認めてもらってもよいのではないか、と思うのです。わたしたちは、常に自分たちの肉の部分をより良く見せよう、肉の部分を改良することができると思うのです。

しかし、神は、わたしたちの肉の欲、肉の思い、肉の部分を完全に死んだものと看做しなさい。と命じておられます。わたしたちがこの命令に従わないとき、必ず肉の思い、肉の情欲によって滅びに至ります。肉の思い、肉の情欲は、どんなに良く見える部分でも絶滅しなければならないのです。

「 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ロマ書6章6)

「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ書5章16)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ書5章24)



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