神に心を動かされた男たち(第一サムエル10章26)

イスラエルの民がサムエルに王を求め、主によってサムエルがベニヤミン族キシの子サウルに油を注ぎ、民の王とした時、神に心を動かされた男たちがサウルと行動を共にした。というこの聖書の箇所は、胸をわくわくさせる可能性をひめた箇所です。神に心を動かされた男たちが共に集まり行動を起こすことほど爆発的な状況を産み出すものはありません。神に心を動かされた男たちが共に行動を起こすとき彼らはどんな犠牲をも惜しまず、神の目的のためにどのような障害をも突破する用意があります。


イエスの周りでも、イエスに心を動かされ、行動を共にした男たちによって、世界の歴史は変革され、使徒パウロがコロサイ人への手紙で「この福音は、世界中で実を結び、広がり続けている」と、宣言しているように、神に心を動かされた男たちによって、すでに当時の世界の隅々にまで福音が伝えられ、広げられました。使途パウロとその一行がテサロニケに伝道の旅を続けたときも、暴動がおこり、人々が「世界中を騒がせてきた男たちが、ここにも入り込んでいます。彼らはイエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしています。」と町の役人に大声で報告をしたことが、使徒書に記されています。(使徒書17:1-7)神に心を動かされた男たちによって、世界中がひっくりかえされ、人々が闇から光へ、闇の支配から神のもとへと変えられました。


神に心を動かされるというのは、どのような意味なのでしょうか。福音を聞いて、わたしたちは、知的にそれに同意をすることがあります。その場の雰囲気や気分で福音の素晴らしさに同意することもあるでしょう。しかし、心を動かされるということは、それ以上のものです。

捕囚として連れて行かれバビロンの王に仕えたダニエルは、異邦の地で王の食べるごちそうや飲むぶどう酒で身を汚すまい、と、心に決めました。神に心を動かされるということは、あなたの存在の一番深いところ、霊の部分が動かされ、わたしの存在の中心が変えられるということです。

神に心を動かされるとき、あなたの人生そのものが完全に神に支配され、わたしの心の御座がキリストによって占められるということを意味しています。
「あなたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、あなたのからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」(第一コリント6:20)「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める」(ピリピ1:20)ことが切なる願いとなる筈です。神に心を動かされるとき、あなたはもはやあなた自身のものではありません。
神があなたの人生を完全に支配され、神のご計画に自分の人生をコミットし、自分のすべてを明け渡すことを意味しています。


使徒パウロは心をきめることについて、わたしがどんなに努力をしたり、決心をしても「わたしたちの肉にある罪は、わたしの欲する善を行わず、わたしの欲していない悪を行う。なんとわたしは惨めな人間なのだろう。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とロマ書の7章において、、自分の肉の 内には行う力のないことを告白しています。しかし、そのすぐあとで、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と言って、新しいいのちの御霊の原理が、罪と死との原理からあなたを解放している、と言っています。霊にある歩みを選び取るとき、神が働いてくださるというのです。神は、わたしたちが、心を一つにして捜し求め、一心に捜し求めるならわたしたちと出会ってくださいます。(エレミア29:13)
わたしたちは、本当に神に心を動かされ、神のご計画のなかに自分の人生をコミットをしているのか、自分自身を吟味する必要があります。(第二コリント13:5)


わたしたちは、だれでもが神の御座の前で、このからだで行った行いに応じて裁きを受けます。マタイ福音書25章14節からの譬えは、わたしたちが神から委ねられたものをどのように管理するのかについての譬えが語られています。わたしたちには、その能力に応じて神からのそれぞれの賜物を預かっています。

神はわたしたち一人一人に神の国の福音を委ねられています。
この譬えのなかで、1タラントを預かった僕は、その預かった1タラントを何もせずに土のなかに埋めて、主人が帰ってきたとき、「『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』と、言い訳をしています。これにたいして、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:24-30)というのです。


わたしたちは、神から委ねられた福音、神の御言葉に心を動かされ、本当に自分の人生を神のご計画のなかにコミットしているでしょうか。
わたしたちが本当に神によって心をうごかされ、コミットするとき、わたしたちは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20) という生き方にかえられます。そのとき、神に心を動かされた者が共に社会を変革するのです。

神によって心を動かされ、行動することは素晴らしいことです。そのとき、約束された永遠のいのちは、わたしたちにとって確実なものとなります。


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