私の愛する人 

(雅歌1章7)


この雅歌は、イスラエルの民にとっては、王である夫 神と、神の選びの妻であるイスラエル、新約の時代には、花婿であるキリストと花嫁である教会の霊的な比喩として、夫と妻の愛、王の乙女への求愛、それに応え、来られる花婿を待ち望む乙女との関係を描いた歌として捉えることができます。

この箇所で、花婿を待ち望み、花婿の愛に期待し、恋い慕う乙女の愛がうたわれています。

ご自身の血を流され、十字架に架かられてまで 贖いの代価を支払われ、わたしたちを花嫁として迎えに来られる、王である花婿に、わたしたちはその愛に応える愛を持っているでしょうか。

キリストが花嫁を愛され、その呼びかけにたいして、花嫁である教会、わたしたちが花婿を待ち望み、その愛に応える愛を持っているかを吟味することは大切です。

わたしたちは、愛することを口で表明しても、花婿であるキリストの愛に応える愛を心から行動にあらわすことをしばしば忘れ、自分自身の思いに捉われます。

多くの人が愛するという言葉を使っても、それを実際に行いで示すことがなかったり、いざというときには言葉とは裏腹の行動をします。


神の愛、聖霊によって実るわたしたちに与えられる最高の賜物が愛であり、愛がどのようなものかについて、使徒パウロは、コリント人へ宛てた手紙のなかで次のように述べています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント人への手紙13章1-13)


花婿が自分のいのちをも惜しまない愛に満たされ 花嫁を愛し、花嫁がその愛に応えて、互いに愛しあうことほど甘美で喜びに満ち溢れるものはありません。

キリストがその花嫁を愛され、その呼びかけにたいして、花嫁である教会、すなわち、わたしたちが、その愛に応えるために、花婿の愛がどのようなものであるかを知ることは大切です。

この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示されました。(ヨハネ福音書13章1 参照)

イエスがペテロに「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と、言われたとき、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ福音書26章33-35参照)と、ペテロは答え、イエスにたいする決意、イエスへの愛が誰にも劣らないものであることを表明しました。

しかし、ペテロはイエスのことばどおり、実際にイエスが大祭司の中庭に連れてゆかれるとき、鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと言い、惨めにも自分のイエスに対する愛を、自分で宣言したことばとは裏腹に、いざというときに行うことができませんでした。(マタイ福音書26章69-75 参照)

このペテロに復活のイエスはガリラヤの岸辺であらわれてくださり、ペテロのイエスに対する愛を回復されました。そのときの様子がヨハネ福音書に述べられています。

復活されたイエスは、夜明けのガリラヤ湖の岸辺で、一晩中漁に出ていたペテロと他の弟子たちに声をかけ、陸に上がってきた弟子たちのために炭火と、その上に載せた魚と、パンを取って、朝食を共にとられました。

この朝食のあとで、イエスはシモン・ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、これら以上にτούτων touton (tou'-tone) p/d. Demonstrative pronoun,Case: Genitive,Number: Plural,Gender: Neuter these (persons or things)、わたしを愛しますかἀγαπάω agapao (ag-ap-ah'-o) v. 。」と言われ、それにペテロは「はい。主よ。私があなたを愛することは、φιλέω phileo (fil-eh'-o) v.あなたがご存じです。」と応え、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。」と、言われました。  

このときイエスがペテロに言われた、これら以上にという原語のこれらという代名詞が、網のなかで跳ねる魚を指していたのか、他の弟子たちのことを指していたのか、はっきりとは判りません。

ペテロにとって漁をし、魚を獲ることはイエスに出会うまでは、彼にとって生き甲斐であったことは間違いありません。
そして、イエスがこの世でペテロが生き甲斐にしているもの以上に、と言う意味でこれら以上に、といわれたのか、他の弟子にも増して、たといイエスといっしょに死ぬようなことになっても、イエスを知らないなどとは言わないと誓ったペテロに、改めてイエスがこれらの他の弟子たち以上に、という意味で、これら以上にと言われたのかは判りません。

いずれにしても、イエスは、ペテロがこの世で最も生き甲斐としているもの、他の誰よりもイエスを愛するか、という愛の確認をペテロにされています。

イエスは三度目にペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますかφιλέω phileo (fil-eh'-o) v.。」と、言われました。
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますかφιλέω phileo (fil-eh'-o) v.。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛するφιλέω phileo (fil-eh'-o) v.ことを知っておいでになります。」(ヨハネ福音書21章4-17)

ペテロは、自分がイエスに対する愛を宣言したこととは裏腹に、愛のゆえに十字架に架かられ、罪の身代わりとして贖いをされるというときにイエスを裏切った自責の念にかられていたに違いありません。

このペテロに復活のイエスは現れてくださり、三度イエスを否定したペテロに三度、愛の確認をされています。

イエスは、二度までは、愛(アガペ)という言葉を使われましたが、自分の決意だけでは失敗することを学んだペテロは、好き、感情的に好ましい愛(フィレオ)という言葉で応え、ペテロの愛のレベルに合わせて、イエスは三度目には愛(フィレオ)という言葉を使われています。

わたしたちの愛は多分に感情的であり、状況によって、ことばとは裏腹になりうる愛(フィレオ)です。
しかし、わたしたちの花婿であるキリストの愛は、どのような状況にあっても変わることのない、ご自身の命を捨ててでも、わたしたちに命を得させてくださる愛(アガペ)です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。  
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4章10,16-17、19)

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださいました。(黙示録1章5 参照)


花嫁である教会が花婿であるキリストを愛すのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。(第一コリント5章14 参照)

花婿として来られるキリストに応える花嫁の愛は、花婿の愛に信頼し、どのような状況にあっても花婿のことばを守って待ち望む愛です。

そのような、愛する者を待ち望む愛は、ことばや口先だけの愛ではなく、花婿のことばと約束を常に思う献身であり、行ないと真実を伴うものとならざるを得ません。


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