この詩篇は、ダビデによって詠まれた祈りという注釈がつけられています。
この詩篇をとおして、神への嘆願(「・・・してください」)、わたしが神にたいしてどのような者なのか(「私は・・・です。」)、神への信頼と告白(「あなたは・・・のような方です」)、神への誓い(「私は・・・・をしましょう。」) という詩篇全体に含まれている要素が織り込まれ表現されています。
1節でダビデは、主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。と、言っています。
2節では、わたしの魂を守ってください。
3節では、わたしをあわれんでください。
4節では、しもべの魂を喜ばせてください。と、神に祈り、嘆願するとき、わたしが神にたいして貧しく、神を必要としており、わたしの魂は、神が守られ、あわれみによって神が答えられ、触れられるときに喜ぶことができることを認めています。
詩篇61篇でもダビデは、「神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(詩篇61篇1-3)と、神に叫び求めています。
詩篇121篇では、わたしたちが悩み、助けを必要とするとき、わたしたちの助けは天と地を創られた神から来ること、主なる神のみがすべてのわざわいから、わたしたちを守り、わたしたちのいのちを守られる方、わたしたちをまどろむこともなく、眠ることもなく、守られる方だということが宣言されています。
主なる神だけが、わたしの魂を賛美で満たし、わたしのいのちを贖い、わたしに恵みとあわれみとの冠りをかぶらせ、良いもので満たされる方です。(詩篇103篇3-4参照)主は情けぶかく、正しく、わたしたちにあわれみぶかい方であり、(詩篇116篇5参照)その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえです。(詩篇117篇2参照)
詩篇91篇でも、神は、「わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。」(15節)と、言われています。
わたしたちの問題は、神に叫び求め、祈るときにわたしたち自身の心が分かれていることです。
ヤコブ書のなかでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」 (ヤコブ書1章5-8、)と述べています。
わたしたちは、神に祈るときにも、わたしたちの心が、自分自身の肉の思いと、神の思われている思いとに分かれていることに気付かされます。
その故に11節でダビデは、「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」と言っています。
神は、わたしたちが心を一つにして祈るとき、わたしたちの祈りに答えられます。それは、ダビデが5節でも告白しているように、神ご自身がいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられるからです。
神は、いつくしみ深く、赦しに富み、神を呼び求めるすべての者に、恵み豊かな方です。
ダビデは、全能で唯一の生きた神のご性質にたいするこの確信のゆえに、
「私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。
私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。
主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。 主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。
まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。 」(6節-10節)と、完全に 主により頼む信仰告白の言葉を吐露しています。
悩みや苦難に出会う日に、神は答えられ、これからも答えてくださるという確信に裏打ちされるとき、わたしたちも、ダビデと共に、「わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。」(12節―13節)と、祈り、神への自然な応答となります。
神があわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方だということを知るとき、「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
私に、いつくしみのしるしを行なってください。」(15節-16節)と、大胆に神に願い、
「高ぶる者どもが私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求め、彼らが生きた主なる神を自分の前に置かず、私を憎む」(14節)ときにも、まことに、主なる神が、「彼らに恥じを受けさせ、わたしを、助け、慰められる」(17節)方だということを宣言することができるのです。
「いつくしみ深き友なるイエスは・・」ではじまる有名な讃美歌があります。
もともとこの讃美歌の作詞者(ジョゼフ・スクリィビン、1820年生まれ)は、自分の母親が非常に悩んでいるときに、母を慰め励ますために書いたものでしたが、1890年代、アメリカの伝道者ムーディとコンビを組んだ歌手サンキーがあらゆる伝道集会で歌ったために大いに広まり、日本語にも翻訳されています。
1) いつくしみ深き
友なるイエスは
罪 (つみ)咎 (とが)憂(うれ)いを
とり去りたもう
こころの嘆きを
包まず述べて 下(おろ)さぬ 負える重荷を
2)いつくしみ深き
友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ 悩み 悲しみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰(なぐさ)めたまわん
3)いつくしみ深き
友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう 世の友われらを
棄(す)て去るときも
祈りにこたえて 労(いたわ)りたまわん
この賛美歌は、救い主イエスこそが、わたしたちの「祈りにこたえて」私の弱さを知りつつも、どこまでも変わらぬ愛をもってかかわってくださる方だということが詠われています。
この方は、「悩み悲しみに沈めるとき」でも、この「世の友がわれらを棄て去るとき」があっても、私たちの祈りに耳を傾けてくださり、慰め、助けてくださる唯一の友です。
イエスという方に出会うことで、主なる神があわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられ、私を助け、私を慰めてくださることを実際にわたしたちの人生で体験することができるのです。
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