主のみわざを語り伝える  

(詩篇78篇1-8)


この詩篇では、主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを忘れず、神の力の素晴らしさ、わたしたちが聞いて知っていること、そして主のされたことを後の世代に伝えることの大切さが詠われています。

                              

わたしたちの人生は、自分の計画や、努力が思いどおりになることより、むしろ思いがけない事態や、自分の思惑とは全く異なった状況に置かれ、通常は、問題や苦難に出会い、自分の思いを超えた事態に出会いながら人生を歩みます。

人生の歩みにおいて、すべてが順調で自分の思いどおりに物事が運んでいるときよりも、苦難や困難な状況をとおして、わたしたち自身の努力や能力を超えたところで恵みの神がわたしたちを導かれるという体験をするとき、わたしたちは、より深く生きた神に触れ、神の恵みの深さを知ることができます。

イスラエルの民は、エジプトの地で奴隷という状況のなかから神が引き出され、神ご自身の約束の地に民族としての歩みを始めました。

神が先祖のアブラハムに約束された地において、祝福と繁栄がもたらされたのは、彼らが神に従順で優れていたからではなく、むしろ神にたいして反抗的であり、頑固であったにも拘わらず、神の恵みによるものでした。

「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」(申命記7章7-8)

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」(申命記9章4-6)

イスラエルの民は、約束の地で国家としての歩みをはじめてから400年近くの期間に7回も、その祝福された状況から、民を導かれる神を忘れ、背き、不信、によって、苦境と隷属に追い込まれ、その苦境の中から神に叫び、罪を悔い、これに神が救いの手を差し伸べられ、民が再び解放され、繁栄する、というパターンを繰り返しました。このことは、士師記に詳細が述べられています。

この詩篇でも、神の恵みによって民が導かれ、祝福され繁栄がもたらされ、民が神を忘れ、神に背き、離れ、民が困難と苦境に陥り神に叫び、悔い改め、神が民に御手を差し伸べ苦境から解放されてゆくことが詠われています。

人類の歴史をとおしても、個人的にも、わたしたちは、おなじように、苦境のなかから神に叫び、神の恵みと導きのなかで解放されるという繰り返しを見ることができます。

神は、人々を恵み、祝福されたいと願われています。

しかし、人は神に背を向け、神から離れ、偶像の虜となり、その結果なんども惨めな状況を招いてきました。

このような結果がもたらされるのは、神の手が短いからではない、と聖書は宣言しています。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ書59章1-2)

この詩篇を注意して詠むと、祝福された状況から、民を導かれる神を忘れ、背き、離れる民と、その結果引き起こされる苦境と民の背信にも拘わらず、神が民を憐れみ、苦境から解放され、民を恵みによって導き祝福されることが強調されていることがわかります。


作者は、9節以下でイスラエルの民に、直接の会話による歴史の伝達をしています。

9節から11節では、数の上でも受け継いだ領土の広さでも祝福を受けたエフライムの民が神から離れ戦いに敗れたことが詠われています。

12節から53節では、イスラエルの民がエジプトで奴隷の縄目にあったにも拘わらず解放され、荒野での経験をとおして神の臨在と、神の力を体験し、頑固な罪の結果、民のなかのあるものには滅びがもたらされましたが、神はそれらの民をご自分の民として、あたかも羊飼いが先頭に立って羊を導き、あるときには後ろから群れを追いやるようにして約束の地に導かれたことが詠われています。

37節から39節にかけては、民の心が神に誠実ではなく、神の契約にも忠実でなかったときに、「あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。 神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。」と、神が人の罪や背きを忘れたかのように、罪の結果もたらされる悲惨な状況からも、驚くべき新しい行動を開始されることが述べられています。

52節に「しかし神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。」と、述べられているように、神は一貫してわたしたちを苦境から祝福へと導き、連れ出そうとしておられ、そのことが、わたしちの理屈にはむしろ合わない奇しいみわざだと詩篇の作者は言っています。

そして、54節からは、民の背信にも拘わらず、約束の地における神の恵み、神の変わらない真実が述べられ、詠われています。


この詩篇では、後の世代に主の業を伝え、主に信頼し続けることの大切さが詠われています。

ここで、神の御業、御力を伝えるという場合、直接的な神との関係、かかわりの歴史のなかで、後の世代に教え、語りつげるということが強調されています。

神の御業の体験を伝えようとするとき、人間的な親の思いは、子や孫を苦境に立たせることを避け、できれば祝福と繁栄のなかで主のみわざが伝わることを願います。

苦境や困難な状況を乗り越えて、逆境のなかから本当の強さ、真理を見極めることができるようになることを伝えることは、単なる情報の伝達によっては、到底伝えることの出来ない部分があります。

わたしたちは自分の状況が順調に思えるとき、自分にとって必要な情報を得ることだけに目と心を奪われ、本当に必要な他との関係、かかわりの中でそれらの情報が生きたものとならないことがしばしばあります。

情報のみの伝達は、ともすると情報過多になり、実際のかかわりのなかで情報が生きた体験として伝わりません。

神は、わたしたちが、神のわたしたちの生涯にたいして持っておられる計画を見失い、困難な状況や苦境に陥ったとしても、御子イエスによってなされた赦しに信頼し、再び神に立ち帰り、永遠の神が生きて働かれ、かかわりを持たれていることを、体験的に知ることを望まれています。

作者は、昔からのなぞを物語り、それはわたしたちが聞いて知っていることであり、私達の先祖が語ってくれたことであり、それを隠さず子孫に語りつげよう。と言っています。

「なぞ」とは、不可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないことという意味です。
神は、繰り返し背き、神から背をむけようとしてきたイスラエルの民を、見捨てることなく、歴史を貫いて忍耐と憐れみをもって関わられていることが「昔からのなぞ」だと述べているのです。

この詩篇は、神とイスラエルというかかわりの歴史の「たとえ」を用いて「昔からのなぞ」を語ろうとしているのです。

使徒パウロは、この「昔からのなぞ」について、「兄弟たち・・ぜひこの奥義を知っていた だきたい。・・・その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、という ことです。・・(彼らに対する)神の賜物と召命とは変わることがありません。・・・ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさ ばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうかこの神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ11章25~36節) と、述べています。  

神の恵みを拒むとき、一瞬のうちにもたらされる災難、災害は、イスラエルの民に対してだけでなく、現代のわたしたちにもそのまま当てはまります。しかし、神の恵みはそれにも増して底知れず深く、わたしたちが、イエス・キリストにある永遠の命を受け取ることを願われ、この詩篇の4、5節でも詠われているように、主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを後の時代、その子らに教え語り告げることが求められています。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありませ ん。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10章11~13節)

「私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(第一ヨハネの手紙1章2-3)

神は、過去の神ではなく、今も、これからも生きて働かれるお方です。


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