揺るぎない信仰の土台 

(詩篇73篇1)


わたしたちは、困難や苦難に出会うとき、、何故、 神がそのような状況を許されるのだろうか、特に自分では神に信頼し、神の御旨のなかに自分の人生を歩んでいると思っているにも拘わらず、神に敵対して歩む者のほうが祝福されているようにみえるとき、神は本当に公平なのだろうか、という思いに襲われます。 

もし、神が善であり、神が愛であるのなら何故、悲惨な状況が自分に起こることを神が許されるのだろうか。

神がわたしを愛されていることが本当なら、何故わたしはこのように胸のつぶれるような悲しみに会わなければならないのだろうか。というような思いをわたしたちは、人生で経験します。

わたしたちには、何故神がそのようなことを許されるのか、自分の意に反して自分の周りに理不尽に思われる状況が起こるとき、その理由は、わたしたちの理解では結局のところわからないことのほうが多いのです。 

神が何故、悲惨に思える状況を許されるのか、という疑問に私たちが、焦点を当て、わたしたちには解らない迷路に迷い込みそうになるとき、わたしたちにとって、確実にわかっている事実を土台に据えることは、わたしたちの信仰を揺るぎないものとします。

わたしたちに、確実にわかっている歴史的事実は、主キリスト・イエスにある神の愛は、状況を超えて変わることがなく、終局的には神がわたしたちの人生を支配されておられ、神は、すべての状況をとおして、わたしたちがより練られた者として神の栄光の御前に立つものとなることを願われているということです。

イエスの教えを聞き、また病気を直していただくため、また、汚れた霊に悩まされていた人たちがいやされ、 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしてイエスを囲んで集まってきたとき、イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされ、「 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」(ルカ福音書6章46-49)と言われました。

わたしたちが、イエスキリストにある神の恵み、イエスにある神の愛が確実であることを信じるなら、どのような状況においても、御言葉によって主との関係を深めることができます。

それが、このイエスのたとえで言われている、聞いて行う者となること、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えてゆくことです。


この世で身の回りに起こる出来事をみるとき、この詩篇の作者のように、まことに神が、心のきよい人たちに、いつくしみ深いことを知るときに、たとえ、この身とこの心とが尽き果てるようなときでも、「神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」と、宣言することができます。

この詩篇の作者も、悪者が栄え、誇り高ぶる者をねたむとき、足がたわみそうになり、歩みがすべるばかりだった、と、告白しています。
生ける神を侮り、御子イエスの十字架が、私たちに対する罪の贖い、神の恵みの業、わたしたちへの限りない愛の御業であることに反対し、自分の利益だけを優先して生きている人々が栄えているように見えるとき、正直に生きることが無駄に思えます。

彼らは、欺きによって自分の利益を得、不当な行為は隠蔽され、心は奢り高ぶり、神など存在しない、とうそぶくのです。
わたしたちの思いは、詩篇の作者とおなじように、この世の不公平にたいして、信仰を持って生きることがむなしいような感情に捉われ、揺らぎそうになります。


ここで、この詩篇の作者は、そのような悪者がこの世の富を持ち、栄えているのをみるとき、

彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっている。
人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。
それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。
彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。
彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。
彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。
それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。
こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」
見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。(5節-13節)
と言って嘆いています。

サタンは、事実を曲げて必要以上にわたしたちがおかれている状況が悪いものだというような思いにわたしたちを向けさせ、虜にします。

本当は、悪者も弱点や悩みがあり、彼らも病や災難に会うということをわたしたちは忘れてしまいます。 

この詩篇の作者と同じように、わたしたちは、目に見える状況だけに捉われるとき、神に信頼して生きることが、割に合わないことのように思え、誤った結論に至ります。


私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

神の聖所に入るとき、わたしたちは目先の問題、わたしたちが直面している困難や悲惨な状況を越えて、神の約束が永遠のご計画のなかで御言葉によって約束されていることに気づかされ、わたしたちの視点は、目先の問題から永遠の視点へと広げられます。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの、今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすもの、(ロマ書8章18、第二コリント4章17)と、変えられるのです。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル書12章2)


罪や不義を嫌われる神が、罪と不義にある人を滅ぼされないのは、人が永遠の神のご計画のなかで、ひとりでも多く主キリスト・イエスにある神の愛を受け入れ、神の恵みにあって共に永遠に生きる者とされるための、神の寛容です。

神は罪と不義に生き続ける者を、一瞬のうちに滅びに突き落とされる権威をお持ちです。

神の御子にある愛を受け入れ、恵みを受け取るチャンスは、わたしたちがこの世に生きているあいだしかありません。

どんなに、この世で繁栄しているように見えても、この世の目に見える繁栄と自分のためだけに人生を送り、神の恵みを拒否し続けるとき、一瞬のうちに永遠の滅びに突き落とされることになります。

まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。(18節)

復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。(申命記32章35)

神の救いの御手は、すべての人に差し伸べられています。

神が御子をこの世に賜ったのは、わたしたち一人一人を愛され、わたしたちの生まれながらの罪の性質と、神にたいして犯す罪のすべてを帳消しにし、罪の贖いを十字架の上で完成され、復活によって肉体が滅びても永遠の栄光のいのちが現実のものであることを示してくださるためでした。
それは、この御子イエスを信じる信仰によって、わたしたちがひとりも滅びることなく永遠のいのちを得るためです。        

光が世に来ているのに、光よりもやみを愛し、神の一方的な恵みを拒否し続け、光を憎み真理を曲げて不義を行う者は、この世でどんなに繁栄しているように見えても、一瞬のうちに救われない滅びに突き落とされるようなすべりやすいところに自分の身をおいている者のようだ、というのです。

「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ロマ書9章22-24)


神の永遠のご計画のなかで、神の恵みと裁きを悟ったこの詩篇の作者は、自分の直面する問題のみに捉われていたことに気づき、自分の近視眼的な思いに 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺された。(21節)と、告白しています。

何故、悲惨な状況が自分に起こることを神が許されるのだろうか、という疑問は、神の聖所にあって永遠の神のご計画を悟るとき、神がわたしをさとして導かれていたことに気付かされるのです。

自分の困難や目に見える悲惨さに捉われ、神の公平さに疑問を抱いているときにも、神は、永遠のご計画のなかで絶えず共におられ、わたしたちが主の手を握っているのではなく、主がわたしの手を取っていてくださいます。

まことに神は、心のきよい者に慈しみ深い方です。

神の聖所にあって永遠の神のご計画を悟るとき、主なる神は、主に信頼する者を、

後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

という賛美と信仰告白は、より確かなものとなります。


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