大切な知識  

(詩篇56篇9)


わたしたちの周りの状況や、人生で起こる事柄、目に見える悲惨な事象をみるとき、神がどうしてそのようなことを許されるのだろうかという疑問にさらされることがあります。
そのような場合、わたしたちが神を信頼するうえで、揺るぎのない真理を知ることは大切です。
神にたいする、恐れ、愛、神の戒めということについてサタンは、わたしたちを誤った思い、知識に引き込みます。

最初の人イブが誘惑に引き込まれたときも、サタンは、神に疑問を抱かせ、神を恐れ、神に信頼し、神の言葉と、神の警告に従うことが誤っているかのように、御言葉に従うことがあたかも自由や祝福を制限するかのような思いに 引き込みました。

神にたいする本当の恐れは、神の偉大さ、壮大さ、栄光、聖さ、素晴らしさに打たれ、神がわたしたちに触れてくださることに、畏敬の念を抱かせるものです。
サタンがわたしたちに抱かせる恐れは恐怖によってわたしたちを神から遠ざけ、わたしたち自身の思いに引き込みます。

神の愛は、神の喜ばれること、他への憐れみと寛容への思いへと導きます。
サタンの惑わしによるこの世の思いは、自分の肉による感情を優先し、自分中心の思いへとわたしたちを引き込み、神の愛を人の思いに基づいたものに引き下げてしまいます。

神の律法は、わたしたちが祝福に満ちた豊かな人生を歩むためのものです。
サタンは、律法がわたしたちを縛るもののように、わたしたちの思いを向けさせます。
ヨシュアが約束の地に入るときも、律法に従い、それを守ることが民全体に祝福と繁栄がもたらされることが約束されています。 

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア記1章7-9)


サタンの誘惑は、神の善、善きご計画に疑問を起させることからはじまっています。

わたしたちが想像を超える悲惨な状況に置かれるとき、しばしば何故神がそのようなことを許されるのか、何故神は―――という疑問が沸き起こります。
わたしたちには、神の永遠のご計画と、神の善ということをしばしば自分のなかで消化することができません。そのようなとき、わたしたちには、何故神がそのようなことを許されるのか、結局のところわからないことのほうが多いのです。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」 (イザヤ書55章8-11)と御言葉はのべています。

答えのない超自然な神のご計画、状況のなかで、サタンは目で見えるもの、わたしたちの肉の弱さ、自分の知識や自分で誇ることのできることに、わたしたちの思いを向けさせ、絶え間なく挑みます。 


サタンは、この世のありかた、肉の思いに働きかけます。

イエスはサタンの誘惑に会われたとき、神の生きた御言葉によって、サタンを退けられました。
「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。』
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。(マタイ福音書4章3-10)

この世の君であるサタンは、わたしたちを肉の思いに引き込み、わたしたちの兄弟らを訴え、夜昼われらの神のみまえでわたしたちの落ち度を訴えています。(黙示録12章10)


しかし、この詩篇で詠われているように、神が私の味方であり、神がわたしを守られることを知るとき、どのように敵が圧倒しているように見えるときでも、わたしたちの敵は退けられます。 

神はわたしの味方です。神がわたしたちひとりひとりを愛され、その御子をも惜しまず、十字架にかけられてまで、わたしたちの罪を贖われたことは、ゆるぎない歴史的事実です。

神はわたしたちの味方だということ、神に対する変わることのない本当の知識によって、どんな状況のなかでも不安、恐怖は、私達から退けられるのです。 

神がわたしたちの味方であり、私が呼ばわる日に、私の敵は退くことを知ることは、わたしたちにとって最も大事な信仰の土台です。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロマ書8章28-39)  


イエスキリストの福音にあずかるすべての人が、イエスの御名によって祈るとき、神は
どのように悲惨に見える状況にあっても、わたしたちの思いを、主の霊と御言葉によって引き上げ勝利の確信と永遠の希望、そして人知では測り知ることのできない神の平安をわたしたちの心に与えてくださいます。


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