きよい心 

(詩篇51篇9-11)


王たちが戦いに出るときになって、ダビデは直属の将軍ヨアブをアンモン人との戦いの前線に送り、自分はエルサレムの都にとどまりました。ある日、昼寝から目覚め、宮殿の屋上を散策し、何気なく街を眺めていたダビデは、ある家の屋上で美しい女性が水浴びをしているのを目に留めました。これを見て、ダビデは使いを遣り、彼女を宮殿に迎え、誘惑しました。
しばらくして、ダビデは彼女が妊娠したことを知らされました。

これを聞いたダビデは、自分の咎を欺き、覆い隠すために、女の夫ウリヤを戦場から呼び戻し、戦況報告をするよう将軍ヨアブに命じました。そして、現場の兵士の士気や戦況を聞いた後で、ウリヤに家に戻り妻との一夜を過ごすことを命じ、そのうえでもう一度詳細を聞きたいと申し付けました。

ところが、ウリヤは妻バテシバのもとへは戻らず、「仲間の兵士たちが戦場で戦っている最中に自分だけが妻とのんびり過ごすことなどできない。」と言って、宮殿の張り出し屋根のある玄関で一夜を過ごしました。

これを聞いて、次の日ダビデは、策略が失敗したことを知り、再び戦況報告にきたウリヤに今度は酒食で歓待するふりをし、散々酒を飲ませ家に帰らせ、ウリヤが家に戻って妻との時を過ごさなかったとしても、その時のことを覚えていないほどに酔わせてしまうという策略をしたのでした。ところが、その晩もウリヤは家に戻らず、宮殿の張り出し屋根のある玄関で夜を過ごし、家にはもどりませんでした。

自分自身を欺き、罪を覆い隠そうとする時、問題は雪だるま式に大きくなります。

ダビデは、次の計略を実行に移しました。「最も激しい戦闘部隊にウリヤを配置させ、戦死させるように。」という密書を将軍ヨアブに書き送り、それをウリヤに持たせて戦場に戻したのです。

しばらくして、戦場の将軍ヨアブから、アンモン人の城壁を攻める際に先陣部隊の幾人かが戦死したことを知らせる報告がきました。その報告の使いは、敵の城壁に近づき、味方の兵士を損失させたヨアブの作戦をダビデから咎められることのないように、戦死した兵士のなかにはウリヤがふくまれていたことを知らせました。

これを聞いたダビデはヨアブの戦略の拙さを責めず、この戦闘で戦死したウリヤを弔い、その喪が明けると妊娠している未亡人となったバテシバを後宮に迎え、自分の妻としました。

こうして、ダビデは、姦淫と計画的殺人の罪を犯したにも拘わらず、人々の目からは、自分の戦士たちを思いやり、厚い弔いと未亡人となった兵士の妻を召しいれる恵み深い王のように振舞うことに成功しました。

ダビデは、人々の目からは上手に自分の罪をかくしましたが、神からは逃れることができませんでした。

罪を告白せずに覆い隠そうとしていたときには、常に悶々として心に平安がなく、「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききった」と、述べています。

ダビデは神が真実な方であり、神の律法に心を留めることが、神からの祝福を受けるものだということを知っていました。それにも拘らず、神が与えておられる警告を自ら破り、姦淫によって、バテシバの妊娠を知ったとき、策略をめぐらし計画的にバテシバの夫ウリヤを殺し、人々の目からは、それを隠していました。

ダビデの友人、ナタンが来てダビデに、「富んで非常に多くの羊と牛の群れを持っていた人が、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理してしまいました。

貧しい人は、自分で育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っておらず、たった一頭のその子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のように大事に育てていた子羊でした。」という話しをしました。 

この話を聞いて、ダビデは、その富んだ人に激しい怒りを燃やし、ナタンに「そんなことをした男は死刑だ。 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」と、言いました。

そのとき、ナタンは、ダビデに「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺した。今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』」と、ダビデの罪を指摘しました。  

ナタンがダビデに、神にたいする背きを指摘したとき、ダビデは自分の背きの罪を告白し、そのときに詠んだのがこの詩篇です。


ダビデは、ナタンの話を聞いたとき、ナタンに「そんなことをした男は死刑だ。 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」と、自分の罪にたいして審判を下したのでした。

通常、人は自分が踏み越えてはならないと知っている境界線をこえて罪を犯すとき、自分と同じような罪を他人にみるとき、その罪が必要以上に裁かれるべきだという思いを持ちます。

わたしたちは、神が憐れみと恵みによって自分の罪を扱われることを願い、他人には正義をもって臨まれることを願います。

ナタンの話しは、富んだ人が貧しい人から大事にしていた子羊を奪い、殺してしまった。というものでしたが、律法では隣人の家畜を奪ったばあい、それを2倍にして償うことは述べられていますが、殺されなければならないという罰則はありません。

ダビデは富んだ人の行為、子羊を奪ったことが、自分のウリヤにたいする計画的殺人、バテシバとの姦淫と重ね合わされ、そんなことをした男は死刑だ。その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。と叫んだのでした。
「もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。」(レビ記20章10参照)という律法のことばがダビデの脳裏をかすめたにちがいありません。


ダビデは自分の欺きと咎が死に価する神にたいする背きであることに気付きました。しかし、ダビデは、神の恵みによって、わたしに情けをかけ、あわれみによって背きの罪を拭い去ってください、と祈りました。

「 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。」(詩篇51篇1-6)

神は、わたしたちが罪を認め、その罪を告白するとき、恵みとあわれみによって、わたしたちの背きの罪を拭い去ることがお出来になります。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(ヨハネ第一の手紙1章8-10)


自分の神にたいする背きを知っている場合でも、魂が砕かれ、正直に自分の罪、咎を心から認め、素直にそれを言い表すことがなければ、神は、わたしたちの心の深いところにはたらいて、罪を赦し、わたしたちの不義をきよめることをなさいません。      
自分の神にたいする背きを言い表すとき、それは心からのものでなければなりません。 


姦淫や殺人は、直接的にはそのことによって傷を受ける人たちに対する罪です。ダビデは、人妻であるバテシバをそそのかして関係を持ちました。バテシバの夫ウリヤに計略を用いて自分の罪を偽り、それが不成功に終わるとウリヤを戦いの最前線に送り、戦死にみせかけてウリヤを計画的に殺してしまいました。

ダビデは、自分がそそのかした相手であるベテシバや、計画的に殺人をした相手であるウリヤに対して犯した罪を「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」と、神に告白しています。

ダビデは、姦淫や殺人、偽り、貪欲が単に直接的な傷を受ける相手にたいするだけではなく、神の律法にたいする罪であり、自分が神の嫌われることを知ったうえで犯したということを告白しています。

目にみえるかたちで、貪欲であったり、偽りを隠蔽したり、姦淫や殺人の罪を犯さなくとも、わたしたちのうちには、そのような性質が根深く存在しています。

わたしたちは、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。


ダビデは人の持っている逃れることの出来ない罪の性質を告白し、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と、7節で祈っています。

ヒソプは、エジプトからイスラエルの岩地や山など至る所に自生し、5月頃になるとたくさんの小さな白い花を咲かせるとともに強い芳香を放つ低木で、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されるとき、子羊の犠牲の血と混ぜられ、ヒソプの一束を取って鉢に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱に塗ることによって、死の使いが通り過ぎ、神の裁きから免れるしるしとなりました。

また、罪の象徴であるらい病がきよめられるために、ヒソプが使われ、汚れや罪をきよめるためにヒソプが使われました。(「レビ記」14:4-7、14:49-51の、らい病の癒しの儀式で使われています。「民数記」19章でもヒソプがきよめに使用されています。)

ダビデは、人が清めることのできない汚れ、罪をきよめに使われるヒソプをもって犠牲の血を振りかけ、わたしの罪を除いてください、そうすれば、わたしはきよくなりましょう、と神に嘆願しています。

ダビデは、神が恵みとあわれみに満ちた方であり、罪を認めて心から悔い改め、生きた神に赦しを求めるとき、わたしたちの罪がどのようなものであったとしても、神は罪を完全にきよめ、救うことのお出来になる方であることに信頼しました。

預言者のイザヤも、「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ書1章18)と、主の赦しが完全であることを宣言しています。


神の罪にたいする赦しが完全なものであることを知ることは、わたしたちにとっても大変大切です。

ダビデは、「私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」(18節-11節)と、最も問題の核心となる願いを主に祈っています。


ダビデは、この詩篇のなかでゆるがない霊」(10節)、「あなたの聖霊」(11節)、「喜んで仕える霊」(12節)、「砕かれた霊」(17節)と、4回、主の霊によってわたしのうちにきよい心を創造してください、と嘆願しています。

ここで、創造ということばの原語には、バラ、בָּרָא bara' (baw-raw') v という、全く無から有を創りだす、天地創造の神だけがお出来になることばが使われています。わたしたちは、どんなに決心をし、心を改めようとしても、自分で自分の心をきよくすることは不可能です。

わたしたちのうちにきよい心を創造されるのは、聖霊のはたらきです。

イエスが語られた、たとえの中に「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ福音書18章9-14)があります。義とされて 帰った取税人の祈りは「遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」というもので した。

わたしたちが、このたとえのなかの取税人や、この詩篇のように、自分が神にたいして罪人であることを認め、魂を砕いて、わたしの心を神の霊で新しくしてください、と祈るとき、神はわたしたちの力ではなく、神ご自身の霊によって、わたしのうちにきよい心を創造してくださいます。


詩篇のメッセージへ戻る

a:1390 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK