罪が赦される喜び  

(詩篇32篇1-11)


イスラエル統一王国の王となったダビデは、姦淫と計画的殺人という罪を犯し、主なる神に対して咎を負いました。

ダビデは自分のしたことをよく知っていました。自分が姦淫をし、バテシバの妊娠を知ったとき、策略をめぐらし計画的にバテシバの夫ウリヤを殺しました。

この詩篇は、罪を犯し、心に欺きを持っていたダビデが、神に罪を告白し、赦され、その喜びを詠ったものとされています。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇32:1-3)

この詩篇の最初の箇所には罪、背き、咎という異なった表現が使われています。
罪という言葉の原語は的はずれ、という意味を持っています。どんな人でも的をはずさず完全に主の道を歩むことのできる人はいません。
すべての人が的はずれ、罪人なのです。

咎という場合は、知りながら主の道からはずれて行くことを言っています。

罪も咎も神に対する人の背きです。
主なる神に対する背きに対して、当然の報いがあります。主が、背きを赦され、罪が覆われ、咎を認められない人は、なんと幸いなことでしょう。


罪を神に告白せずに覆い隠そうとすると、常に心のうちに悶々とし、平安がありません。
ダビデは、「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききった」と述べています。(4節) 

人々の目からは上手に自分の罪を隠しても、心に欺きのあるとき、喜びは失われ、生きる気力は失われ、霊の死が訪れ、心の内側から死がもたらされます。
罪を覆い隠し、他からは何事もなかったかのように見せかけ振舞うのは、わたしたちの本能的とも言える罪の性質です。

わたしたちは、偽りによって自分の罪を覆い隠します。親が嘘をつくことを教えなくとも子どもは嘘をつくことを知っています。

人が嘘をつくのは、わたしたちの肉の性質です。
人は偽り、嘘をつくと自分の嘘を覆い隠すためにさらに嘘、偽りを重ねます。そして、嘘が積もり積もると、どこまでが真実であったのか自分でもわからなくなることがあります。

聖書は、「自分のそむきの罪を隠すものは、成功しない。」(箴言28章13)と、宣言しています。

自分の罪や罪意識を隠し続けることはできません。そのために、わたしたちは言い訳と、自分の正当化のために問題を常に自分以外のものに向けています。
人は、自分の罪を覆い隠し、自分を正当化し、いかに自分が正しく、他がいかに自分をそのような状況に追いやっているのかという言い訳、責任転嫁をしようとします。
罪を覆い隠そうとすればするほど、逆に罪はますます重くのしかかってきます。

罪や、罪の意識を覆い隠そうとする人は、より一層異常な行動をとります。潜在的に罪の報いを受けて、罪を帳消しにしたいという心理がはたらくのだと心理学者は説明しています。
犯罪人が逮捕されると、逃亡のすべてが終わりになってホッとしたという話を聞くのも同じ理由です。


ダビデの友人、ナタンが来て富んでいる人と貧しい人の例え話をし、ダビデの咎を指摘したとき、ダビデは、ナタンに「私は主に対して背き、罪を犯した。」と自分の罪を告白しました。

ナタンはダビデに、「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』
主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」(第二サムエル木12章7-12)と告げています。 

ダビデが主なる神に罪の告白をし、悔い改めたとき、ナタンは、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(第二サムエル12章14) と宣言しました。

ダビデは、ナタンの話を聞いたとき、実際には自分自身にたいして審判を下しました。

ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と、神はダビデが罪の告白をした瞬間から罪が赦されたことを宣言しています。


わたしたちも、自分の罪を正当化せず、神に罪の告白をする瞬間に、神は赦してくださいます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネの手紙1章9) 

神はその恵みによって、赦された者に素晴らしい回復をもたらされます。

自分の犯した罪、罪意識で神の御手が重くのしかかっていても、主なる神に心からの罪の告白するならば、神は罪、咎、背きを赦してくださいます。
 
詩篇の作者は、私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(5節)と述べています。


預言者ナタンは、ダビデが罪の告白をしたとき、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」と言っています。ダビデは神と心をひとつにし、詩篇の大半を詠んだ王でしたが、ナタンは、「あなたの罪によって、あなたの敵から神を侮る口実を与えた」と言っています。

罪を神に告白し、神からの赦しを得られるということは素晴らしいことです。
神の恵み、あわれみは、罪を告白し、赦されるとき、より素晴らしいものとなります。
しかし、神の恵み、神の慈れみを受けるために罪を犯そうと思うほど馬鹿げたことはありません。
神は罪を赦されますが、罪の結果は私達に深い傷跡を残します。
すべて神を敬う者は主なる神に祈り、大水の押し寄せる悩みの時にも、その身に及ぶことはない。と、この詩篇の作者は宣言しています。
それは、主なる神は、わたしの隠れ場、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれるからです。

神にたいする背きのない者は、主なる神が守られ、悩みを免れさせ、救いをもって囲まれます。


8節からは、主は、罪、咎、によって神に対する背きに陥らないために、主なる神がわたしたちに目を留められることが述べられています。

主はわたしたちが、行くべき道を教えられ、主の御心に適う道を歩むことを望んでおられます。そして、わたしたちが勝手な道を行き、主への背きによって痛むことのないように、目を留めておられます。
しかし、主なる神は、わたしたちを愛するが故に、わたしたちが滅びに至る勝手な道を歩もうとするとき、馬や驢馬を御する人が悟りのない馬や驢馬にくつわや手綱のような馬具を使うように、時に痛みを伴う方法で勝手な道を歩み、滅びに向かおうとする者を止められます。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」(8節-10節)


罪には一時の楽しみ、快楽が伴います。しかしその快楽に溺れ、心を欺き罪の意識を無視し続けると、他からはどんなに悪を重ねながら繁栄しているように見えても必ず滅びがやってきます。

主なる神を無視し続け生涯繁栄しつづけているように見える人にも、必ず死が訪れ、その後に裁きが待っています。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。(ヘブル書9章27)

わたしたちは、ときに神を否定し悪の道に歩む者の繁栄を見て、この世の不公平を嘆きます。
詩篇73篇の作者が詠んでいるように、悪者の栄えを見、あやうくわたしの足がつまずき、わたしの歩みがすべるようになることがあります。

「まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。
まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」(詩篇73編18-19、23-25)

しかし、主に信頼して道を歩む者は、神の聖所にはいるとき、ついに、悪の道に歩み繁栄しているように見える者らの最後の結果を悟ります。
主は、わたしたちをさとして共に居られ、後にわたしたちを栄光のうちに受け入れてくださいます。
このことをわたしたちが知るとき、わたしたちは、主を喜ぶことができます。


「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」(11節)
 
この詩篇は「幸いなことよ。」という言葉で始まり、「喜びの声をあげよ。」という言葉で終わっています。 

主に心からの罪の告白をする者には、主が、背きを赦され、罪が覆われ、咎を認められない者と看做してくださいます。
そのような人は何と幸いなことでしょう。
共に居られ、後に栄光のうちに受け入れてくださる主に信頼し、人生を歩む者は、喜びの声をあげるのです。


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