神の御顔を避ける  

(詩篇139篇1-12)

                  

旧約聖書ヨナ書を開くと、「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』
しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。」(ヨナ書1章1-3)と述べられています。

ヨナは神の御顔を避けて地の果て、タルシシュへ逃れようとしました。

ニネベは、イスラエルを脅かすアッシリア帝国の首都でした。アッシリアの残虐さは、近隣諸国の脅威であり、北王国イスラエルに住むヨナにとって、国家の存亡を脅かすニネベの町が神の裁きに会うことは、むしろ望むところでした。

誰でも普段敵だと思われる、特に自分に危害を与える可能性のある相手に、神の恵みを伝え、神の忍耐と寛容を知らせ、神の裁きにたいする心からの警告をすることを躊躇します。

そのような場合、わたしたちも、ヨナと同じように、しばしば、神の御顔を避けて、神の御前、神が言われている方向とは全く反対の方向へ逃れようとします。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」(1節-2節)

神は、わたしたちのすべて、わたしたちが思う以前から、わたしたちを知られ、
私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

神の御顔を避けて、当時、地の果てと思われていたタルシシュへ行く船にヨナは乗り込みましたが、海上で主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになりました。

水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと積荷を海に投げ捨てました。
しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいました。
船長が近づいて来て「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」と言い、彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たりました。
そこで、ヨナは、「わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」と言い、「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」と問い詰める彼らにヨナは「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。」と答えました。
彼らは船を陸に戻そうと漕ぎましたが、ますます、彼らに向かって荒れる海で「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」 と、嘆き、こうして彼らはヨナをかかえて海に投げ込みました。
すると、海は激しい怒りをやめて静かになりました。

主は、海に投げ込まれたヨナに大きな魚を備えて、ヨナをのみこませ、ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいました。

ヨナは、神の御顔を避け、船に乗って海の果てまで逃げようとしました。
海の上でも嵐が起こり、水夫たちによって海に投げ込まれ、海底に沈みそうになるときにも、大きな魚に飲み込まれ、魚の腹の中で、黄泉に床をもうけるようにして神の御顔から避けようとしているときにも、神はそこにおられ、ヨナは魚の腹のなかで、魂がうちに衰え果てたとき、主を思い出して、祈りました。すると、主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。

「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」(3節)

神は、ヨナのすべてを知っておられました。神はヨナの思い、行動、動機、感情のすべてを、ヨナ自身以上に身近に、ヨナがこの世に産まれる以前から、彼の成り立ちを知っておられました。

詩篇139篇の作者が、「神は、私の思いを遠くから読み取られます。」と言うとき、神が、わたしを遠くから知っておられるのではなく、わたしたち一人一人の成り立ち、起源、思い、感情、動機、行動のすべてを身近に、わたしたち自身が自分のことを知っていると思うことをほるかに超えて知っておられます。

「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」 

「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」(4節-5節)


「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」(6節-7節)

わたしたちは、ほとんどの場合、自分自身のことを知っているつもりでも、自分の本当の動機、心の深い動機に気付かず、自分自身を偽っていることが多いのです。
わたしたちの思いは、どうしようもなく病んでおり、偽善に満ちています。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
(エレミア17章9) 

わたしたちは、光と闇、信頼と恐れ、愛と憎しみが入り混じった矛盾に満ちた存在であり、誰も明日どんなことが起こるのかについては不確実です。


神はすべてをご存知であるだけでなく宇宙のすべてに臨在され、「 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕え」(8節-10節)てくださいます。 

詩篇の作者も、「 たとい私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」(11節-12節)と、述べているように、神は、すべてを知られ、すべてに臨在されておられます。 


それにも拘わらず、何故、わたしたちは、神の御顔を避けて御前から逃れようとするのでしょうか。

わたしたちは、神の思われ意図されていることより、自分の思い、自分の意図を優先させようという、罪の性質を持っています。そして、この性質のゆえに、神がわたしたちに言われていることとは反対の道を歩もうとし、神が呼びかけられるとき、神に対する罪悪感のゆえに、神の御顔を避けて御前から逃れようとするのです。

「彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』
彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』 すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』」(創世記3章8-10)

神のことばに背くとき、人は罪悪感のゆえに、必ず神の臨在から逃れ、わたしたちを創造された方の存在すら否定しようとします。

神が人に、「あなたは、どこにいるのか。」と、呼びかけられるとき、神はわたしたちを詰問しているのではありません。
神は、神の呼びかけにわたしたちが信頼し、それに応え、神への背きに気付き、そのあやまちを素直に悔い改めることを願っておられます。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」(ヘブル書4章13)


神の御顔を避けて、わたしたちが、神の御前から逃げようとするとき、ヨナのように、わたしたちには、自分では解決することの出来ない、苦難や災難に遭遇します。

しかし、神は、わたしたちの悩み、苦難、災難を知られ、わたしたちがどのように神の御顔を避け、神の御前から逃げようとしているときにも、わたしたちの思い、動機、弱さ、頑固さ、のすべてを知られ、そのようなわたしたちに同情を寄せておられます。
すべてを知られ、すべてに遍在される神は、イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態に陥り、その苦難にうめき、救いを求めているとき、民を見、聞き、救われたように、わたしたちの悩みを知り、苦難を見、うめきを聞かれ、救いの御手を差し伸べられます。
 
「わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。」(使徒書7章34)
 
神は、すべてを知られ、すべてに臨在される永遠の方です。
神が、わたしたち一人一人の思い、悩み、苦難を見、わたしたちの叫びを聞かれ、わたしたちを救われる方だということに気付かされるとき、すべてが神の永遠のご計画、御手のなかにあることを覚えるのです。

そのような視点から自分の人生を見つめなおすとき、「わたしをとこしえの道に導いてください。」と、すべてを主の導きに明け渡すことが最も適切な主への応答だということが解ります。

すべてが神を出発点としています。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11章36節)


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