私の助けは、どこから来るのだろうか。  

(詩篇121篇1-8)

                             

詩篇121篇の作者は、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」という問いを自分に対して発しています。そして、それに対する答えは、「私の助けは、天地を造られた主から来る。」です。

わたしたちは、人生の歩みのなかで、自分だけの手には負えない様々な問題や、困難に直面します。誰でも、自分ひとりの力ではなく、他からの助けを必要としています。

詩篇120篇から134篇は、各地に散っているイスラエルの民が年に必ず、過ぎ越し、五旬節、仮庵、の三度の祭りの時期に東西南北どこからもシオンの山々の頂に位置するエルサレムに集まることが定められ、そのときに人々が詠む詩とされており、都のぼりの詩、都もうでの詩、という標題が付けられていて、エルサレムへ上るときの詩となっています。  

「 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。」(申命記16章、特に16節 参照、)

この詩篇の作者も、エルサレムの都へ向かう途上、都を囲んでいる山々を見上げながら自分の人生を想い、自分の人生の守り、安全、本当の助けはどこから来るのだろうかという問いを自問自答したにちがいありません。

わたしたちは、自然の圧倒的な力を見て、創られた自然のエネルギーや、壮大さに打たれます。
遠くから山を眺め、自分の人生の助けが壮大なものからくるのではないか、と感じます。 

しかし、自然の力、創造された様々な生命、その繊細なデザイン、素晴らしさを見、造られたそれらのものからわたしたちの人生の助けが来ると思うのは間違いです。 

バラの美しい色や、花弁の微妙なデザインに感嘆して、バラの芳しい匂いを嗅ぎ、「あー、これは神だ。」と言うのは馬鹿げているように、被造物、造られた自然に、わたしたちの助けがあると考えるのは馬鹿げています。

人は目に見える圧倒的なもの、美しく触ることのできる造られたもの、が助けになると錯覚します。
わたしたちが他の人に助けを求めるときにも、その期待は裏切られ、しばしば本当の助けとはなりません。

使途パウロは、「人々が自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののか たちに似た物と代えて、神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えるようになってしまった。(ロマ書1章23-25参 照)」と言っていますが、わたしたちの本当の助けは造られたものからは来ません。

この詩篇の作者は、本当の助けは、山々からでもなく、自然からでもなく、他の人からでもなく、それらのすべてを創造された方、天地を創られた主から来る。と、自分自身の疑問に答えています。


神が誰なのか、そしてその名を聞かれたとき、どのように答えればよいのかというモーセの問いに、神は、「わたしは、『わたしはある。הָיָה הָיָה hayah (haw-yaw) hayah (haw-yaw)、 ἐγώ ego (eg-o') εἰμί eimi (ei-mee') 』という者である。」と答えられました。

神のみが、他の存在に依ることなく初めから存在し、永遠に存在される方です。
同時に、神は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という御名によって、歴史をとおして序々にご自身をあらわされ、昔も今もこれからも永遠に変わらない方、わたしたちにとって、必要なすべてとなられるお方です。

イスラエルの民の父祖アブラハムは、年老いて百歳のとき、妻サラとのあいだに約束の子イサクを授かりましたが、神はアブラハムを試練に会わせられ、モリヤ の地で神がアブラハムに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをささげるように言われました。このとき、アブラハムは、告げられた場所にイサク と共に行きました。着くと、祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いて、手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろう としたその時、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたし は、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せられました。このとき、アブ ラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいたのでアブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけに えとしてささげました。
このとき、アブラハムは、「神は備えられる」(ヤーウェ・イルエ)と神の御名を呼び、神の導きに信頼して歩むときに、神ご自身が備えてくださる方と呼びました。(創世記22:14)

イスラエルの民がエジプトを出てマラという場所に来たとき、苦くて飲むことができない水が甘くなり、その所で主はモーセに、おきてと定めを授け、試みられたという出来事がありました。
そして、「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守る なら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」と言われました。
神は、神の声を聞い て、それに耳を傾け、神の正しいと見られることを行うなら、エジプトにあったような病気をイスラエルの民の上に下さないと言われ、神は、神ご自身がいやし となってくださる方、ヤーウェ・ラファרָפָא רָפָה יְהוֹוָה Yhovah (yeh-ho-vaw') rapha' (raw-faw') (or raphah {raw-faw'}) であると、言われました。(出エジプト15:26)

モーセに率いられたイスラエルの民が約束の地に向かう途中、アマレク人が来て、レフィディムでイスラエルと戦いました。このとき、神は、神ご自身が、戦いのときの、イスラエルの旗印、戦いの力の象徴アドナイ・ニシיְהוֹוָה נִסִּיYhovah nicciy (yeh-ho-vaw' nis-see')となられる、といわれました。(出エジプト17:15)

イスラエルの民が神の約束された地に入り、ヨシュアに率いられてカナンの地を占領したにも拘わらず、神から離れ、そのためにミデヤン人に圧迫され、周辺他 国の国々からも略奪を受け、人々が神に助けを求めていた時代、神はミデヤン人から逃れていたギデオンにあらわれました。
神がイスラエルの民をミデヤン人の 圧迫から解放し、救うようギデオンを遣わされましたが、そのとき、ギデオンは自分のような弱い者が、どうしてそんなことができるでしょう、と答え、自分が 神によって遣わされているしるしを見せて欲しいと求めました。
神は、ギデオンにヤーウェ・シヤローム、神ご自身が平安となってくださる、といわれました。
יְהוֹוָה שָׁלוֹםYhavah shalowm (yeh-ho-vaw' shaw-lome') (士師記6:24)

エゼキエルは、この地上に神の国が出現し、神は、ヤーウェ・シヤマ、יְהוֹוָה שָׁמָּהYhovah shammah (yeh-ho-vaw' shawm'-maw)
共におられる方だと宣言しています。(エゼキエル書48:35)

エレミヤはメシアが王として御国を建てられ、そのときには神ご自身が人々の義となられることを預言し、神は、ヤーウェ・シィドカヌ、יְהוֹוָה צִּדקֵנוּYhovah tsidqenuw (ye-ho-vaw' tsid-kay'-noo) わたしたちの義となられる方だと言っています。(エレミヤ記23:6)

イエスという御名は、ヤーウェ・シュア、יְהוֹשׁוַּע יְהוֹשׁוַּעYhowshuwa` (yeh-ho-shoo'-ah) (or Yhowshua {yeh-ho-shoo'-ah})
神が救う、神がわたしたちの救いとなってくださという意味です。

天地を創られた神、主とはわたしたちの贖いと救いの備えとなられ、わたしたちを癒し、戦いのときの旗印、平安を与え、共におられ、義となってくださる、お方です。(より詳細は、メッセージ「神の御名」を参照) 


詩篇の作者は、「私の助けは、どこから来るのだろうか。」という問いを自分に対して発し、「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と、答えたあとで、その創造者である神が、わたしたちを助けられたいと望まれていることについて、より詳しく3節以下で述べています。

主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

主はわたしたちの足がよろけるようなときも、わたしたちを堅く支え、立たせてくださいます。主なる神は、わたしたちが眠ってしまうようなときにも、わたしたちのためにまどろむこともなく、眠ることもなく、わたしたちを守っていてくださるのです。

このことを、使徒パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ロマ書8章31)と述べ、「主には、わたしたちを立たせることができる。」(ロマ書14章4)と、宣言しています。

又、ユダ書のなかで、ユダは、神が、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」(ユダ書24節)だと述べています。

そして、詩篇の他の箇所でも詠われているように、主が守られるとき、「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れず」(詩篇91篇5)「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」(詩篇91篇7)という確信をもつことができるのです。  

定められた年3回の「例祭」にはどんな犠牲を払ってでも各地からエルサレムに集まり、大変なリスクのある巡礼の旅の途中で敵がいつ襲いかかってくるやもしれないときに、この詩篇の作者は、
「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。」と言っています。

伝統的ユダヤ人は、「日」(太陽)とはエジプトの神々、「月」とはバビロン、ペルシャ、シリアの神々のことを指していると解釈するそうです。
エルサレムに上るときに、どのような孤独な旅に思え、他の神々を信じているエジプト、メソポタミアの地域を通っても、あらゆる敵から神が守られる、というのです。

神に信頼するとき、 
「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」のです。 

最後に作者は、そのように生きたイスラエルの神は、「行くにも帰るにも」、すなわち、すべての生活領域にわたって「今よりとこしえまでも守られる」、
「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」という信仰の確信に満ちたことばでこの詩篇を結んでいます。


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